引き寄せられた尚人の体は反射的に逃げようとした。しかしその瞬間、軽く触れていただけだった未生の手にぐっと力が込もり熱い体に抱きすくめられる。
瞬時に拒否の言葉が出なかったことをもって同意と言い張るのはどう考えても強引だ。しかし一度触れたことで口づけを当然の権利だと決めたのか、未生の動きには遠慮も迷いもなかった。
戸惑い閉じたままの尚人の唇に正面から、斜めから、角度を変えながら未生は甘噛みのような愛撫を加えてくる。頰に触れていた手はいつの間にか後頭部に回されしっかりと尚人の頭を抱え込んでいた。
くすぐったさに負けて口元の力を緩めると、ほんのわずかな隙間から舌がねじ込まれた。違和感は最初だけ。舌を吸われ、上顎をくすぐられるうちに尚人は抵抗のポーズすら失っていった。それどころか呼吸が上手くできない苦しさから助けて欲しくて目の前の裸の胸にすがりついた。
「キスのやり方も、忘れた?」
長いキスからようやく尚人を解放して未生は言う。からかわれているのは確かなのに、たかがキスくらいで息を切らした尚人は怒るポーズを見せる余裕すらない。
「……そうかも」
ようやく絞り出したのは肯定の言葉。芯に熱が溜まりつつある体と対照的に、心には道に迷ってしまったような心細さがある。栄とのあいだに積み重ねた八年間は確かなものであるはずなのに、いまではキスすら忘れかけているなんて。
未生は、寂しくて頼りない気持ちを隠そうともしない尚人の前髪をすくい上げ表情を覗き込んできた。
「本当にさ、そういう情けない顔されると俺たまんないんだよね」
その姿に舌舐めずりする獣が重なる。
未生は惨めな人間が好きなのだと、可哀想な人間に欲情するのだと言っていた。それが尚人に声をかけた理由なのだと。未生はいまの尚人の惨めな姿を見て性的興奮を感じるというのだろうか。引き止めて欲しくてホテルから恋人に電話をかけたのに出てももらえない男。年下の男相手にキス一つで翻弄されている男。それを組み敷くことに一体どんな喜びがあるのか尚人には想像もできない。
「本当に君は、どうしようもない奴だな」
唾液で濡れた唇を指でぬぐいながら尚人がつぶやくと、未生は再び顔を寄せてきた。
「忘れたならゼロから教えてやるよ」
もちろんそれはキスについてだけではなかった。
すでに紐が解けかけていたバスローブの前をはだけながら未生は尚人をベッドに押し倒しにかかった。露わになった自分の体が目に入り、キスだけですでに性器が兆しかかっていることに気づいた尚人は赤面する。だが視線を動かすと未生が腰に巻いたバスタオルも腰のあたりが緩く持ち上がっていて、快楽を感じはじめているのは自分だけではないのだと思った。
仰向けに寝転がると、照明がやたらまぶしい。
「明るいの、嫌だ」
手を伸ばして照明パネルを探るが、未生はその動きをやんわり封じてくる。
「俺は明るい方がいい」
そう言う未生に「どうして」と訊ねる必要などない。その目はじっと尚人の裸の体を見下ろしていた。まるでわざと羞恥を掻き立てようとしているかのように普段衣服で隠れているところ――とりわけ胸や下腹部をじっと見つめられ、これでは相手の思う壺だと悔しさを感じながらも尚人の体は熱を持った。
「見られると、落ち着かないよ」
「なんで? 触ってもないのに視線だけでこんなになっちゃうから?」
尚人が泣き言を口にすればするほど未生は面白がるだけだ。そして、渇ききった体は卑猥な煽り文句一つにも反応してしまう。
ひく、とそこが震えるのは見なくてもわかる。疼くようなもどかしさに、尚人は我慢できず腰をもじもじと揺らした。
いやらしい夢を見て、恋人のシャツに顔を埋めて自慰をして、あまつさえ体を癒すためだけの相手を探そうとする――それほどの性的衝動を日々抱えていたのだ。自分がおかしくなっていることはわかっていたけど、それにしてたって触れられてもいないのにキスと視線だけで勃起するなんてちょっと異常なのではないだろうか。
「僕、やっぱりおかしくなったのかもしれない」
「何で? 見られて勃つくらい珍しくないだろ」
「……君がどうだかは知らないけど、僕はこんなこと一度もなかった」
しつこく言い募る尚人に、とうとう未生は苛立ったような表情を見せた。
「別にいいじゃん。尚人、あんた別に彼氏と同じやり方で彼氏の代わりに抱いてもらいたくてここに来たわけじゃないんだよな」
「違う」
尚人も言い返す。未生では栄の代わりになんてならない。栄はあんな風に乱暴にキスしたりしないし、明かりをつけたままのセックスを求めたり恥じらう尚人を面白がったりもしない。空気を壊すようなことを言って未生の機嫌を損ねたことは申し訳ないが、わざわざここで栄の話を持ち出すのも無神経だ。
未生は続ける。
「だったら、いいじゃん。ここにいるのはエリートで潔癖症で気難しい彼氏じゃなくて、できることならすぐにでも縁を切りたい小生意気な年下なんだから。恥ずかしいとこやみっともないとこ見せたところで、何か失うわけ?」
確かに――未生にはもうこれ以上ないほど情けないところを知られているし、嫌われたところでむしろ清々するくらいだ。でも、だからといって何もかもを晒すことができるかと言われれば、尚人にはそこまで割り切ることはできない。多分そのあたりは、尚人と未生の人としての感性の違いなのだろうと思う。
「……僕の、人間としての尊厳が」
そう、尚人は未生と違って小市民で常識人なのだ。相手がどんな人間だろうとみっともない姿を晒すことには人として抵抗を感じる。必死に考えて尚人が何とか「失うもの」を口にすると、未生はめんどくさそうにまだ少し湿っている黒髪をかき混ぜながら舌打ちをした。
「あー、うぜえ。俺の知らないとこでどれだけ小難しいこと考えようが好きにすればいいけど、ここではそういう辛気くさいのは禁止。言ってもわかんないなら……」
未生は尚人の下半身に手を伸ばした。
「あ……っ」
躊躇なく先端を包み込んだ手のひらがぬるりと滑る。どうやら尚人は勃起どころかすでにそこを濡らしていたようだ。ともかく未生にこれ以上尚人との話を続ける気がないのは確実だった。そして、尚人も――。
単純なもので、部屋が明るいとか人間の尊厳とか、そういった何もかもは与えられる刺激の前に消えてなくなる。
「待って、そんな急に」
滑らかな手のひらでゆるゆると亀頭を擦られてたまらない尚人は、言葉では未生を止めようとしながら、中途半端な刺激がもどかしく自ら腰を突き出した。未生の大きくて固い手のひらに敏感な場所を押し付け、擦り付ける。本当はそれでもまだ物足りない。先端だけでなく根元から茎の方を包み込んで強く動かして欲しい。
未生は腕の下でぎこちなく乱れる尚人を面白そうに眺めていたが、やがて姿勢を低くして首筋にキスをしてきた。
「あ……っ、首はっ」
「わかってるって、跡は付けないってば。殴られたり刺されたりするのは俺も嫌だからな」