30. 尚人

 首筋をくすぐられながら耳に熱い息を吹きかけられる。覆い被さってくる体の圧迫感に、久しぶりに人の重さを思い出した。

 触れてくる唇や指先は尚人の知るものよりは荒っぽいが、宝探しのようにあちこちを探られると弱い場所はすぐに暴かれる。指先でうなじを撫でられながら首筋に口付けられるとそれだけで体が震え、待てをさせられている腰が甘く疼いた。

 元来性欲が薄いほうだったとはいえ触れられれば気持ちよかったし、もどかしさに控えめながらも先を求めるようなこともあった。しかし栄はこんな風に意地悪くじらすようなことはしなかったし、尚人自身もいまのような焦燥に襲われたことはなかった。

「ここは?」

 胸の先をくすぐられ尚人は首を左右に振る。そこで感じる男も多いと聞いたことはあるが、自分は違うのだと知っていた。付き合いはじめた頃に戯れに何度か触れられたことはあるがくすぐったい以上の感覚はなく、やがて栄も興味を失った。

 尚人が否定したにも関わらず未生は執拗に胸元に口付けてくる。舌で転がし、チュッと音を立てて唇で吸っては合間に指先でくるくると弄ぶ。そんなことよりいまはもっと確実な場所を確実な刺激で満たして欲しいから未生の固い腹に濡れた場所を押し付けることで少しでも快感を得ようとするが、巧みに体をかわされた。

「はは、そんな焦んなくったって大丈夫だって」

 耳に注ぎ込まれる意地悪な声。パタパタと動かしたり、わざと止めて反応を見たり――おもちゃで猫をじゃらすように未生は器用に尚人の熱を上げていく。

「い、意地悪……」

 大丈夫ではない。もはやキスとかセックスとかそういうことより、尚人の頭はただ熱を逃がすことでいっぱいだった。自慰なんかでは決して解消されることのないドロドロとした熱と欲が一年分も体の中で煮詰まっていたことを思い知らされる。

 まなじりに涙を浮かべてとうとう自ら慰めようと伸ばした尚人の手は、未生に阻まれる。どこまでも意地の悪い男は限界に近い尚人のそこにちらりと目をやって薄く笑った。でも、見なくたってわかる。腹につくほど反り返ったそこはもう先走りで濡れそぼっていて、先端だって喘ぐようにうっすらと口を開けはじめているのだ。

「もうちょっとだけ我慢。な?」

「ひどい……っ、自分が慣れてるからって」

 未生の見せる余裕が憎らしくて、自分の手で触れることも許されずただ腰を揺らめかせるだけの尚人は思わず憎まれ口を叩いた。こっちは必死なのに軽い調子で欲望を弄ばれるなんてほとんど苦痛だ。

「いちいちムードぶち壊すようなことばっか言いたがる奴だなあ」

 まるで失言に対して罰を与えるかのように未生は尚人の胸に軽く歯を立てた。

「う、ああっ」

 舐められたって撫でられたってそんなところで自分は感じないとたかをくくっていたのに、尚人の体は電流に打たれたかのようにのけぞった。

「嫌、痛い」

 ふるふると首を振ってやめて欲しいと伝えるが、二度三度と甘噛みを繰り返しながら未生は笑う。そのたび胸から腰にかけてずくんと重たい刺激が伝わった。

「痛いだけじゃないだろ。いま、こっちもびくっとした」

「そ、それはっ」

 尚人はただ首を振った。自分でもわからない。嫌なことや怖いこと、痛いことや恥ずかしいことが快感に結びつくなんて信じられない。でも――だったらいまここでみっともなく腰を揺らして続きをねだっている自分はなんだろう。

 快楽とは愛情を与え合うことで得られるのだと思っていた。でも、恋も愛もかけらすらない未生と抱き合って濡らしているのは誰だ。自分という人間の中に見知らぬ、野蛮で恥も理性もない別の自分がいる。

「尚人さ、乳首感じないなんて言ったけど多分そんなことないよ。気づいてないだけだって。もうこんなになってるし、すぐ気持ちいいって覚えるだろ」

 未生は尚人の反応に気を良くしたようで繰り返される刺激で膨らんだ場所を指で捏ねながらさらなる反応を煽った。だが見知らぬ刺激は尚人を怯えさせるだけだ。

「いらない、そんなの。怖いっ」

「気持ちいいのは怖くないって」

 声を弾ませながら否定の言葉を紡ぐ尚人をなだめるように一度だけ額に軽いキスを落として、未生はあきらめたように体を起こした。押さえつけてきていた力から急に解放されて尚人は戸惑いとともに視線を上に向ける。タオルがはだけ落ちていつの間にか未生も全裸になっていた。

 先週、尚人をひどく動揺させた裸の上半身の下にはやはり若くしなやかな筋肉に覆われた体。見つめればまた物欲しげだと笑われるとわかっているが高揚した意識の中視線はどうしたって体の中心で雄々しくそそり立つものに向いてしまう。

 尚人の側からは一切まだ未生に触れていないにも関わらず、そこがちゃんと反応を見せていることにかすかに安堵すると同時に、不安と期待で喉が鳴った。

 未生はベッドヘッドにあったパウチ袋を手にすると手際よく切れ目を入れ、ほとんど同時に尚人の膝に手をかけた。

「ひっ」

 変な声が出たのは、それを避妊具だと思ったからだ。性器と胸に触れたくらいで未生はもう挿入しようとしているのだろうか。一年もブランクがあって、十分な数の指すら挿れることもできなかった体にあんなたくましいものを受け入れることができるのか――それまで尚人の欲情をあおる対象だった未生のペニスが突然ひどく乱暴な狂気に見えてきた、

 未生は何も言わず尚人の両脚を左右に大きく開かせる。そして先ほど封を切ったものをぎゅっと絞った。

「ふあっ……冷た……」

 コンドームだと思ったそれはローションだった。

「そんなに驚くなよ。ローションくらい使ったことないってわけじゃないだろ」

「でも、こんなに冷たくなかった」

 比べたかったわけではない。ただ慣れない感覚に驚いただけだと伝えたかったのに、混乱の中で言葉を選ぶ余裕がない。未生は明らかに苛立つそぶりを見せた。

「だったら、なんだよ」

 冷たくぬめった液体が股間を伝い、後ろのすぼまりを濡らすのがわかった。未生が枕を手にして尚人の腰の下に押し込む。腰を掲げて脚を大きく開いて何もかもをさらけ出す姿勢になった。しかも照明は付いたまま。

「ひ、ひどくしないで」

 未生を怒らせてしまったのかもしれないと不安になった尚人は必死に訴えた。風呂に入っているときは痛みすら望む気持ちがあったのに、いざ目の前に迫れば怖いものは怖い。

「なんだよ、まるで人殺しかレイプ魔みたいに。準備だってしたんだろ?」

「したけどっ、指が、指が二本しか入らなくて」

「二本?」

 怪訝な顔で聞き返されて、尚人はどうにかまだ準備が十分でないのだと伝えようとした。

「いつもは……三本入るまで慣らしてたけど、うまく入らなかった。ひ、久しぶりだから」

「ああ、そういうことかよ」

 未生は心底どうでもよさそうに吐き捨てた。

 パウチ一袋分のローションはそれなりの量だったのだろう。ちゅぷ、と水音がすると同時に指先がめり込むのがわかった。ぞくりと背中が泡立って、確かに尚人の体は性交の快感を期待した。そこに触れられて、そこに押入られて善がる記憶が恐怖を上回る。尚人はぎゅっと目を閉じて与えられる刺激に意識を集中した。

 手の動きは荒っぽいにも関わらず未生の愛撫は丁寧だった。ごく浅く、第一関節の半分程度をそこに埋めて、液体のぬめりを借りながら窄まった場所をくるくるとくすぐる。

「ひ……ああっ」

 すでに尚人自身の手で一度開かれていたそこは、いともたやすくほころんで未生の太く骨ばった指を受け入れる。それどころか、この程度では物足りないとばかりにひくついてより深い場所まで飲み込もうとする。しかし高まる期待をよそに未生の指はいつまでも入り口を撫でるだけだ。

「う、やだ、あ」

 泣き言が口を突く。さっきから熟れきった状態で前をさんざん放置されて、ようやく後ろに触れてきたかと思えばこれだ。満たされそうで満たされないもどかしさが狂おしい。

「何? やだ?」

 少しだけ内側に滑った指を逃がすまいと、尚人のそこはひくついた。

 もう耐えきれない。この熱をおさめてもらえるならば自分はきっとなんだってする。恥も外聞も、それこそついさっき自ら口にした「人間の尊厳」すらどうだってよかった。

「中もっ……、中もして」

 直接的な言葉でねだるとようやく太い指が奥に進んでくる気配がある。自分の指とはまったく違う感触。ゆっくり出入りをはじめると関節が入り口を刺激してそれだけで腰が震えた。

「中、どこが好きなの?」

 聞きながら未生は指を増やす。抵抗なく二本目が吸い込まれていき尚人の中の圧迫感は増した。しかしただ出し挿れされるだけではまだ決定的な刺激にはならない。尚人は必死に腰をゆするが、どこをどうされれば自分が快楽を得ることができるのか思い出すことはできなかった。

「わかんない……忘れたからっ」

「そっか、じゃあ、ここ?」

 入り口近い場所を軽く押されると、目の奥が白くなった。

「あっ、あああっ」

 思わず大きな声を出した尚人を見下ろし、未生は少し驚いたような表情を見せる。そして、いったん抜き出した指をさっきまでどれだけ頼んでも触れてくれなかったペニスに伸ばし、白いものを掬った。

「すごいな、ちょっと出た。指だけで」

「だって、君が放っておくから」

 完全な絶頂に至ったわけではないので尚人の息は荒いまま。望んでいた直接的な刺激を与えられた喜びよりは、ここまで自分を追い詰めて、それでもまだ極めさせてもらえない状況がただただ悔しかった。

「うん、ごめん。じゃあ三本。ほら全然余裕でもっと欲しいって。さっき入んなかったってなんだよ。ほら、三本」

「ひ、あ、ああ」

 からかわれても言い返す余裕はない。三本の指をばらばらにうごかしながら前後されて、尚人はただ喘ぐ。そして尚人が喘げば喘ぐほど、未生は濡れた音を立ててそこをかき混ぜた。

「つまんないとか言ってごめんな、尚人。全然つまんなくないよ。俺に組み伏せられてどろどろに濡らしてさ、指入れられただけでいきそうになって」

「し、知らない」

「ねえ、指三本どう? ここ気持ちいい? 正直に言わないと気が変わっちゃうかも」

 あやすような声で吹き込まれる脅迫の言葉。理性などとうになくした。

「ああ、あ……ん、気持ちいい、気持ちいいからもういきたい」

「馬鹿、セックスしにきたんだろ。指でいってどうすんだよ」

 ずるりと指が抜けていく。代わりに押し当てられたものの熱さも質量も、尚人をおののかせる。恐怖と、そして期待。

「ん、ああっ」

 痛みはあったが一瞬だった。体中を貫く質量と、指とは比べ物にならない圧迫感。尚人は呼吸を忘れてぎゅっと目を閉じるとシーツを握りしめた。

「ほら、どう? 久しぶりに入れてもらって」

 そう言って未生が腰を軽く揺すった。その声は熱っぽく、彼もまた余裕をなくしつつあるのだろう。

「声も出せないか」

 小さく笑うと未生は少しずつ動きはじめる。反応を見ながら、尚人が眉根を寄せればペースを弱め、喉から甘い声を漏らしはじめるのを確認すると固く猛ったものを強く押し込んだ。

「ひ、ああっ」

 一度声が出ると、もう止めることなどできない。喘ぐ以外に体中をさいなむ快楽の逃がし方を知らない尚人はただみっともない声を垂れ流す。年下の男にいいようにされて身も世もなくシーツを濡らす、そんな尚人の姿は「可哀相な人間に欲情する」という未生を興奮させるのだろうか。

「尚人」

 未生はかすれる声で尚人を呼んだ。

「気持ちいい? 俺とセックスして、ここ突かれて気持ちいいの?」

「あ、いい。気持ちいいっ」

 激しく奥を突かれて、まともな思考もできないままに尚人はただ求められた言葉をオウム返しにした。

「尚人、かわいいな。尚人」

 汗で額にくっついた前髪をかき分けてくる指は熱い。その指は尚人の額をなぞり鼻筋をたどり、それからおもむろに瞼に触れてきた。

「……誰に抱かれてるか、まさか間違えてないだろうな。ほら、ちゃんと見て」

 意識を飛ばしかけている尚人の耳に、未生の言葉はほとんど届いてはいなかった。かろうじて聞き取れたのは最後の部分――ちゃんと見て、という言葉に尚人は重たい瞼を持ち上げる。この声の言うことを聞きさえすれば望みは叶えられるのだから。

 目を開ける。そこにいるのは栄ではない。

 尚人はいま、恋人ではない男に抱かれているのだった。