31. 尚人

 喉の渇きで目を覚ます。ゆっくりと目を開きながら、尚人はまずマットレスの硬さが普段と異なっていることに違和感を覚えた。次に自分が何も着ていないことに気づき、さらに隣に見知らぬ温度があることを認識する。

 渇きだけでなく喉の奥には軽くひりつくような痛み。そっと体を起こして飲み物を探そうとすると、横で寝ていた未生がもぞもぞと動いた。

「何だよ、まだ始発にも早いだろ」

 眠りを妨げられた若者は不機嫌そうにベッド脇のデジタル時計に目をやった。時刻は午前四時より少し前。四、五時間ほどは眠ったのだろうか。こういうことに慣れている未生はともかく、恋人でもない男とやってきたラブホテルで呑気に熟睡するような図太さを自分が持ち合わせていたというのは正直驚きだった。

「ごめん。喉が渇いちゃって」

 起き出した理由を告げると、未生がサイドテーブルからペットボトルの水を取ってよこした。すでにキャップは空いているところを見ると、昨晩の行為の後で未生が購入したものなのだろう。尚人はボトルに口をつけると一気に半分ほども飲み干した。

 未生は尚人に水を渡すとまだ寝足りないといわんばかりに再び上掛けを被った。しかし、尚人がスマートフォンを取り出すのに気づくと再びうっすら目を開く。

「もしかして、彼氏からの着信だらけだったりする?」

「……残念ながら」

 尚人は首を振って力なく笑った。同棲をはじめて以来、初めての無断外泊。それでも栄は電話の一本、メッセージの一通もよこさない。

 やはり自分は恋人にとってその程度の存在なのだろうか。後ろめたいことをしているのだから、もし栄からの連絡の形跡を見つけたならば尚人はひどく動揺して困惑していただろう。そんな状態で恋人の冷淡を嘆くのがただのわがままなのだと理解してはいるが、落胆はぬぐえない。

「僕さ、恋人とは大学で出会ったんだ」

 ため息と共にそう告げると、未生が頭を起こすのがわかった。枕に肘をついて尚人のほうへ視線を向けてくる。続きを促されているのは明らかだった。

「大学時代の僕の夢は大学院を出て研究者になること。授業にはちゃんと出てまじめにレポートもやって、進振りで希望の学部に入れてからは憧れていた先生のゼミに入れてもらえるように普段から部屋に通い詰めたり。まだ世の中のことも自分の能力もわかってなかったから、努力さえすれば思う通りの未来が開けるんだと思ってた」

 入学当初には周囲に多くいたはずの学者志望者は、現実を見るにつれ減っていった。このご時世に学者なんて割に合わない――ただでさえ数の少ないアカデミアポストを取り逃したなら文系院卒は潰しがきかない――いまなら嫌というほど理解できる彼らの言い分は当時の尚人の耳には届かなかった。

「でもあんた普通に頭いいんじゃん? 大抵の奴は勉強したってT大なんか入れないだろ」

 未生は不思議そうに首をかしげる。通っている学校名だけで頭が良いとか賢いとか、そんな言葉はうんざりするほど聞いてきた。だが、自分がその賞賛に見合わない人間であることは十分理解している。

「違う。不器用で運動も苦手で面白いことも言えなくて、勉強するしかなかったんだ。ひたすら机にかじりついて、投資した時間の分だけ結果が出ただけだよ。それも大学受験までの話だけど。本当に才能のある人とは全然違ってた」

 尚人の自虐に、未生は小さくため息をついて見せた。

「なんていうか、レベルが高すぎて俺には意味わかんないや。見た感じじゃあんた学者とか似合いそうだけどな」

 先生っぽい、博士っぽい、そんな言葉だって聞き飽きた。見た目で学位とポストが取れるのならばどれほど楽だったろうか。

 でも、大学生でありながらおそらくアカデミアの世界に微塵の関心も持っていない未生には尚人の苦悩や挫折を話したところで決して理解されることはないのだろう。尚人はそれ以上込み入った話をすることをあきらめた。代わりに未生にも理解しやすいであろうコミュニケーション能力を持ち出す。

「研究者としての能力もだけど、このご時世じゃ大学教員だってまめに学生の面倒見て生活指導みたいなことまでしなきゃいけないし。そういうの含めやっぱり僕には向いてないなって」

「で、無理だと思って大学辞めたわけ」

 うん、と尚人はうなずいた。

「八年間も大学に居座った末にね。賢ければもっと早くにあきらめるか、もっと頑張るかのどっちか何だろうけど僕にはそのどちらもできなくて。恋人も親も失望させて残ったのは奨学金という名の借金だけ」 

「それで、セックスレスに至るってわけか」

未生が突然話を飛躍させたことに動揺しなかったわけではない。しかし彼の指摘は正しくて、裸の肩に肌寒さを感じた尚人は体を丸めて自虐気味に笑う。

「彼はそんな風には言わないけど、原因のひとつかなとは思ってる」

 栄は忙しいから。栄は疲れているから。そう思い込んで自分を守ろうとしてきたけれど、心の奥では尚人だってわかっている。栄にとって尚人が恋人としての価値を失いつつあること、それが触れてもらえない理由であること。ただ、怖くて目を背けているだけなのだ。

 一昨日、栄が口にしたあからさまな失望の言葉。もしかしたらあれは最後通告ではなかっただろうか。だからもう電話にも出てもらえないのではないだろうか。考えると背筋を寒気が走った。

「後悔してる?」

「大学を辞めたこと?」

 話の流れからすれば当然そうだろうと思っていたが、未生は否定する。

「そんな難しいことわかんねえよ。昨日のこと」

 未生が聞いているのは夢をあきらめた尚人のことでも、尚人と栄の関係のことでもない。恋人を裏切ってここにやってきて未生とセックスをしたこと――自分でも考えられないほど乱れたこと――それをどう思っているか訊ねているのだった。

「わかんない」

 尚人は正直に答えた。そして言葉を足す。

「……恋人以外の人間と寝たら、もっと何かが劇的に変わるのかと思ってたけど……いまのところは特に」

 ちょっと体が痛い、それだけだ。

 セックスの快楽は確かに残っているけれど、久しぶりの激しい行為にいまは疲れの方が大きい。未生の言っていた、世界が変わるような経験とは程遠い気がする。尚人の答えを聞いた未生は意外にも、面白そうに笑った。

「はは、尚人って本当にちょろいな。俺の出まかせ真に受けてたの?」

「出まかせ?」

「うん、大げさなこと言ったら落ちるかなって思っただけ。だって、たった一回のセックスで世界なんか変わんないだろ、普通。ハリウッド映画じゃないんだから」

 いつもの意地悪い表情がいつの間にか戻ってきていた。未生は、彼の適当な言葉に騙されて尚人がここについてきたのだと言い、それは滑稽な行為だと笑う。妙な心境だった。普段の尚人だったら未生にこんな物言いをされれば黙っていられないはずなのにいまは不思議と言い返す気がしない。

 尚人は未生の言い分が疑わしいものだと理解して上でそれでも賭けてみたかったし、何より昨日は家に帰りたくなかった。だから今回のことは決して未生だけが悪いのではない。そして――たった一回のセックスでは世界も自分も変わらないと気づいた。いまの尚人にはそれだけでも十分だった。

「シャワー浴びて、帰る」

 尚人はベッドから降りながら言う。未生とのことはもうこれで十分だ。恋人以外の人間と寝てみたところで自分はつまらない人間のまま。これが現実なのだ。いますべきことは少しでも早く頭を現実に切り替えることだけ。昨日キャンセルしてしまったから今日は冨樫との打ち合わせに遅れるわけにはいかない。家に帰って教材を揃えて、十一時には事務所に到着するためにはあまりのんびりしてはいられない。

「なあ」

 立ち上がって床に落ちたままだったバスローブを羽織った尚人に背後から未生が呼びかけた。尚人はゆっくりと振り返る。

「後悔してもいいし、いくら俺にムカついてもいいけどさ、家庭教師やめるとかいうなよ」

 未生は意外なほど真剣な顔でそう言った。日曜に尚人が、あまりしつこくするようなら優馬の家庭教師を降りるかもしれないと言ったことを、意外にもこの男は気にしているのだった。

 尚人はむしろ動揺した。昨晩のことは栄とのけんかの当て馬的に未生を利用してしまったのだと自覚している。だが、未生は未生で尚人に対して、騙すようにして体を開かせた引け目を感じているのかもしれない。

「怒ってはいないし、僕が仕事どうするか君に言われる筋合いは……」

 ない、と言おうとしたところで未生が言葉を挟む。

「優馬さ、結構あんたのこと気に入ってるんだよ」

 その目はこれまで見たことないほど優しい、弟を思う兄のものだった。

「……そう、なんだ」

 普段の未生の印象とはあまりに違う表情に尚人は一瞬たじろいだ。それからふと、優馬が未生のことを優しい兄だと話していたことを思い出した。

 手早くシャワーを浴びて髪を乾かすと、尚人はまだ暗い中ホテルを出た。未生はチェックアウト時刻までもう一眠りしてそのまま大学に行くのだと言って部屋に残った。タクシー代とホテル代を合わせた金額をすべて払おうとしたけれど、未生はかたくなな態度で半額しか受け取らない。

 西の空には白い月。昨日のコンビニのところまで戻って大通りを歩けばきっとタクシーは走っているだろうし、もし見つけられなくても歩けばそのうち駅に着く。冬の早朝の空気は、昨晩散々喘いだ喉を冷たく刺した。

 尚人が自宅マンションについたのは朝の七時前だった。栄はまだ部屋にいるかもしれない。でもきっと今週も多忙だろうから、もう出勤しているだろうか。会わずにいればいるほど気まずくなる。会いたい気持ちといまは会いたくない気持ちの板挟みで心は落ち着かない。

 そっと玄関ドアを開けると、ぴかぴかに磨かれた栄の革靴が脱ぎ捨てられたままだった。

「た、ただいま」

 尚人は声をかけて、出来るだけ平静を装いながらリビングへ向かう。ドアノブに手をかけようとしたところで、それは勢いよく反対側から開いた。ドアの向こうには栄が立っていた。

「尚人……」

 尚人の姿を目にした瞬間、安堵したように名前を呼んで栄は両腕を伸ばした。栄の体温とトワレの香り。抱きしめられることすらひどく久しぶりだった。

「よかった、出て行ったのかと思った……」

 その声は震えていた。嘘ではない、ポーズでもない、心底心配していた声。目が赤かったのは、ずっと眠らずに尚人の帰宅を待っていたからなのだろうか。

「ごめん、昨日打ち合わせついでに冨樫さんに飲みに誘われて終電逃しちゃって。電話はしたんだけど……」

 消沈した恋人に申し訳なさが湧き上がると同時に、言い訳のひとつもしたくなる。だって尚人は電話をしたのだ。でも栄は出なかった。コールバックすらなかった。

 尚人の恨み節に栄はぎゅっと抱きしめる力を強くする。

「もしかして別れ話されるんじゃないかと思って怖くて。……俺がひどいことを言ったから。ごめん」

 これまで聞いたことないような痛ましい声。それだけで尚人の心のしこりは溶けて消えてしまう。こんなに反省して、不安な気持ちで夜を越えた恋人を自分はひどく裏切ってしまったのだろうか――恐怖に胸の奥がすっと冷たくなった。

「帰ってきてくれて良かった。俺、尚人がいないと駄目だから」

 尚人の動揺を知ってかしらずか、栄は震える腕でただ強く抱きしめてくる。何よりも欲しかった抱擁。何よりも欲しかった自分を強く求める言葉――愛されているという実感。それは尚人の心に強い感情を呼び起こす。

 この人が好きだ。疲れていても、たまに冷たくされても、それでも尚人は栄を愛している。こんな風に抱きしめられて求められて、それだけで深く深く満たされる。

 昨晩の未生とのセックスは確かに尚人の体を満たしたけれど、いま感じている心の充溢に比べればきっとあんなもの大したことではない――はずだ――。尚人は腕を伸ばして栄を抱き返した。もう二度と栄を裏切ったりしないと心に誓いながら恋人の匂いを鼻腔いっぱいに吸い込む。

 そのとき、栄がぽつりと口にした。

「ナオ、髪の毛違うにおいがする」

「えっ?」

ぎくりと震えた心を悟られないように、尚人は両手を突っ張ってとっさに栄と体を離す。

「えっと、あの。飲んだ後で漫画喫茶に泊まっちゃったんだ。知ってる? いまどきの漫画喫茶ってシャワー完備なんだよ。ソフトクリームとか朝ごはんとかあってさ」

 自分でも驚くほどすんなりと、嘘は口を突いた。