32. 未生

 夜も明ける前から部屋を出て行った尚人を見送って、未生は二度寝を決め込んだ。規定のチェックアウト時刻直前に起き出してシャワーを浴び、そのまま大学へ向かうことにする。

 遅刻はしたものの、出席認定されるぎりぎりの時間に二限の講義に滑り込んだ。やる気の薄い講師の授業をやる気の薄い学生たちが聞いている、いつ見ても覇気に欠ける教室だ。

 望んで入った学校ではない。独裁者である父親も未生の素行と学力をすっかりあきらめていたから、とりあえず四年制大学と名のつくものに入学し卒業して、警察の厄介にさえならずに生きていけばそれで良いのだと言われていた。だから決してレベルが高いとはいえない大学の、確実に受かりそうな学部を選んで受験した。

 とはいえ大学生活は思い描いていたほど楽ではなかった。最近は所管官庁の指導が厳しいとかで、大学のレベルを問わず単位不足や代理出席には厳しい。教員の体調不良や台風、大雪で休講になった場合ですら確実に振り替え講義が行われるので面白くもない話を聞くためにそれなりに長い時間拘束される。この退屈な環境から脱出する一番手っ取り早い方法は留年せずに四年きっちりで卒業すること――そう思えばさぼってばかりもいられない。

 後ろの方の目につかなさそうな席を探して座ると同時に、ポケットの中のスマートフォンが震える。もしかして尚人からだろうかと画面を覗くと、「イツキ」という名前が目に入った。ここのところの未生が定期的に寝ている二人のうちひとりの名前だった。

 ――五列目の右、見て。

 短いメッセージに視線を上げると、古賀こがいつきは教材に隠れて振り向き小さく手を振ってくる。未生は表情一つ変えず目をそらし、既読もつけないままで画面を閉じた。

 樹と関係を持つようになってからは三か月ほどが経つ。同じ大学の同じ学年で、同類であることがわかりやすいタイプだったから、飲み会で恋人と上手くいっていないという話を聞いた後すぐに粉をかけてみた。ためらうポーズは申し訳程度でその日のうちにホテルへ行っていまに至る。

 もともと奔放なタイプなのか、面倒くさい態度はあまり見せないし体の相性も悪くない。遊び相手としての樹に不満はないが、問題はここのところ樹の恋人が浮気を疑いはじめていることだった。

 相手がいる人間を好んで口説いている以上、未生にとってこのような事態は珍しくない。一触即発の修羅場に巻き込まれたことも過去に何度かある。ただ、相手に特段の執着を持たない未生が「別れる」と言えば、せいぜい一発殴られる程度で話は終わった。とはいえもちろん痛い思いはしたくないので怪しい気配を感じたら出来るだけ早めに身を引くのが処世術だった。

 そういうわけで樹との関係もそろそろ終わりが近いと思っている。わざわざ別れ話を切り出すのも億劫なのでこちらから連絡しなければ自然消滅するのではないかという期待はあったが、樹の側からの接触が止まない以上どこかでけじめをつけざるを得ないのかもしれない。

 授業が終わったところで樹に捕まった。せっかくだから昼でも一緒に食べようと第三食堂へ引っ張っていかれる。味も悪く店員の愛想も悪い第三食堂は学生に人気がなく、だからこそ人に聞かれたくない話をするには打ってつけだった。

「やばいんだよね。昨日も、もしかして他に男がいるんじゃないかって直球で聞かれちゃってさ」

 きつねうどんを不味そうにすすりながら樹が切り出した。昨日の夜も今日の朝も抜いている未生はさすがに空腹だったのでカツカレーの大盛りを注文したが、古い油の臭いのする薄いカツと舌触りの悪いカレーを数口飲み込んだところで胃がむかついてきた。

「で、なんて答えたんだよ。まさか俺の名前出してないだろうな」

「もちろん浮気なんてしてないって否定したよ。それがマナーってもんでしょう。あーあ、今日ゴーちゃんいないから笠井と遊ぼうと思ってたけど、やめといたほうがいいかな」

 樹は本命の恋人に浮気を疑われてもまだセックスフレンドとの逢引を迷っているようだが、未生としては危険な橋を渡る気はさらさらない。そもそも樹が未生と寝るようになったのは恋人と上手くいっていないと聞いたからだ。

「彼氏が構ってくれないってあれだけ愚痴言ってたんだから、嫉妬されて嬉しいんじゃねえの」

「それはそうなんだけどね、ほら俺らって割と体の相性も良かったじゃん」

 未練がましい樹に、未生はきっぱり告げる。

「潮時ってことだろ」

「……あっさりしてるね」

 ひと口かじった油揚げを丼の中に落とすと、樹は箸を置いた。未生もそれ以上カレーに口を付ける気になれずスプーンを皿に置く。

「前に友達に言われたことあんだよ、彼氏持ち相手にしてると刺されるって。さすがにおまえの彼氏にマジでかかってこられたら命の保証がないし」

「まあ、笠井ならそう言うよね。俺も別にゴーちゃんと別れる気はないし」

 樹の本命の恋人であるゴーちゃんとやらは渋谷のキックボクシングジムでトレーナーをやっている筋肉ダルマのような男だ。多少体力に自身のある未生でも本気でかかってこられたら軽傷では済まないだろう。さすがに生命の危険にまで言及されると納得せざるを得ないのか、樹は無念そうな顔をしながらも関係の精算に同意した。

「そのうち彼氏とうまくいかなくなったら、またな」

「笠井って、本当に歪んでるよね」

 半分以上残ったカレー皿が載ったままのトレイを手に立ち上がった未生を、樹は上目遣いで見つめた、

「恋人への当てつけで浮気するような奴に言われたくないよ」

 そう言って背を向けたところに、負け惜しみのように最後の一矢が放たれる。

「笠井、昨日と同じ服。どっかに誰かと泊まってたんだろ?」

 未生は返事をせずにひらひらと背中越しに手を振った。

 そういえば肩甲骨のあたりにひりつくような痛みがある。もちろん樹の負け惜しみが効いているわけではなく、そこに生々しい引っかき傷があるからだ。

 昨晩、未生はキスマークをつけないよう注意してやったにも関わらず、尚人は遠慮のかけらもなしに爪を立ててきた。もちろん悪意あってのことではなく、快楽に飲まれて必死にしがみついた先が未生の背中だっただけのことだ。

 尚人は、少なくとも未生が想像していた程度には我を忘れて乱れていた。早くいかせてくれとどろどろに濡れた性器を必死に押し付けてきて、快楽に涙を流す。元が慎み深いタイプであるだろうことを思えば、一年間の禁欲が相当に辛かったに違いない。

 出会って二週間、誘ってから一週間。たいして難しい相手ではないと思っていたが、それにしたって陥落するまでの速さは予想以上だった。余計な手間が省けたこと自体は歓迎するが、一方で物足りなさもある。正直もう少し落とすまでのやりとりを楽しみたかった。

 それにしても相良尚人は奇妙な男だった。恋人との不仲の愚痴を聞くついでに浮気に誘う、それが未生のいつものパターンで、尚人についてもパターン自体は変わらない。だが、そうして関係を持つようになった相手はたいてい未生相手につれない恋人への不満を吐き出す。そして思うようにならない恋人への当てつけのように未生の前で奔放に振る舞うのだ。

 でも尚人は違っていた。不満や愚痴をこぼすどころか、未生に抱かれながらも自分の恋人は素晴らしい人間なのだと言い募る。一年も抱いてくれない、キスの仕方すら忘れさせ外泊しても連絡のひとつもよこさない冷淡な恋人をそれでも愛していると真顔でうそぶくのだ。

「……どこがいいんだろうな」

 セックスもしてくれない男なのに。高学歴、高級官僚、一等地のマンション、紳士的な態度――それは一年も放っておかれてもまだ熱っぽく愛を語れるほどに魅力的なものなのだろうか。未生には到底理解できそうにない。

 ともかく、八年間も男と付き合っていた割にはすれてなくて体も開発されきっていない尚人はいまも未生の興味を引く相手であることに変わりはなかった。恋人に心酔しているというのも面倒な関係を避けたい未生にとっては都合がいい。

 あの生真面目で薄幸そうな男でもうしばらくは遊べるだろうか。未生はそんなことを考えながら午後の講義が行われる教室へ向かった。