34. 未生

 優馬を部屋に戻した後も何となく目が冴えてしまい、未生はベッドに横になったまま眠らずにいた。しばらくスマホゲームをして、飽きてきた頃に着信音が鳴る。相手の名前を確かめてから少し迷って通話ボタンをタップした。

「もしもしーっ、未生?」

 呂律の回らないハイテンションボイス。今日の昼間に別れてきた樹と同時並行で関係を持ってきた女友達である映子だった。

「何だよ、こんな時間に」

 明らかに酔っ払っている声を聞いて未生は電話を取ったことをすでに後悔している。未生自身も誘われれば多少は飲むものの、基本的に酔っ払いは苦手だ。金をもらえるのでアルバイト中は我慢して相手をするものの、プライベートでまで酒に酔った人間に付き合ってやる義理はない。

 だがアルコールの回った映子は未生の不機嫌を解さない。普段の彼女は未生が酔っ払い――特に酔った女を嫌うことを知っているので羽目を外すような飲み方はしないのだが、そんな判断すらできない状態にあるのだろう。

「でも起きてたんでしょ。今日バイト先に行ったのに会えなかったからぁ、電話してみたの。火曜シフト入ってるって言ってたのに」

 甘えるような、拗ねるような声。落とすまでは可愛らしく思えた言動行動のあれこれが、関係が長引くにつれて魅力を失っていくこの現象に名前はあるのだろうかと考えながらぞんざいな返事をする。

「いたよ。来るのが遅かったんじゃねえの。十一時には帰ったから。ていうか映子、酔って電話かけるなら俺じゃなくて彼氏相手にしろよ」

「酔ってないよー、飲んでるけどほんのちょっとだけ。だって未生の声聞きたかったんだもーん。あたし、最近コウくんより未生の方がいいんだよね。格好いいし、エッチ上手いし」

 けらけらと明るい笑い声に未生はため息をつくことしかできなかった。最近、映子は恋人と比べて未生を持ち上げるようなことを盛んに口にする。冗談交じりではあるが、そう言った後に彼女が必ず本気の眼差しで未生の反応を伺っていることはわかっていた。

「俺もう寝るとこだから、切るよ」

 電話ついでに別れ話を切り出したっていいくらいだが、酔っ払い相手に重要な話をしたって明日には忘れられている可能性も高い。とりあえずその件は日を改めることにして未生は終話すると、再度の電話攻撃に備えてスマートフォンの電源を落とした。

 彼氏が風俗に行ったことへの当てつけだ、と言って未生と寝るようになった映子だが、ここのところの重さにはうんざりしている。食事に行きたいとか買い物に付き合えとか彼女気取りの言動も多く、恋人と別れることすら匂わせてくる。樹とは別の意味で潮時だ。

 電話越しなので匂いがするはずはないのだが、あまりにあからさまな酔っ払いの言動に付き合わされたせいか、未生は自分まで悪酔いしたような気分になった。

 目を閉じて浮かぶのは低い天井、酒と香水の匂い。酔っ払った女の声は未生にいつも余計なことを思い出させる。

 最初に女を抱いたのは十五歳のときで、クラスメートの姉だった。男女がセックスをする場面はそれまでにも見たことがあったが、いざ我が身となると興奮と焦りとちょっとした恐怖で頭がぐちゃぐちゃになった。キスをされて咥えてもらって、最後は彼女が上に跨ってきた。嬉しさも達成感もなかったけれどフェラチオは気持ちが良かった。

 男を抱いたのはその数年後で、きっかけはただの興味本位だった。ふわふわと柔らかい女と比べて骨も太く、質量の割にずっしりと重くて硬い体。そんなものに触れて勃起し射精できる自分には驚いた。

 それ以来未生は男と女どちらとも寝るようになった。でも、どちらかといえば男を抱くことに気楽さを感じていることは否定しない。

 だって、女は――もろい。そして未生にとっては理解の外にある。情緒も肉体構造も何もかもが自分と異なっているし、細く柔らかい体を夢中になって抱いていると壊してしまうのではないかと不安になることがある。それに比べて男は、もちろん体格や体力の違いはあるものの基本的に女よりは頑丈だし、同性だけにある程度反応やダメージも想像ができた。

 セックスは好きだ。気持ちが良いし、抱き合うことに夢中になっているあいだはいろいろなことを忘れられる。自分の腕の中で身も世もなく悶える人間を見ていると興奮すると同時に、いつだって哀れみが湧き上がる。きっともっとまともな恋人がいるんだろうに、何が悲しくて未生のような人間に好んで抱かれるのだろう。その不幸に思いを馳せるとより一層興奮は高まった。

 未生は恋や愛を信じない。そんなものいつだっていとも簡単に壊れてしまうから。樹だってゴーちゃんと別れる気はないと言いつつ、本気のふりで未生が口説けば心を揺らすだろう。

 口先では恋人を愛していると言いながら優しくすればついてきて、ちょっと愛の言葉を囁いてやれば心を揺らすのが大抵の人間なのだから、それを理解した上でぎりぎりのところで心を弄んで美味しいところだけもらっていく。未生のやり方はいままでも、おそらくはこれからも変わらない。

 未生が計算違いに気づいたのは翌週のことだった。セックスをしてから一週間経つが、尚人から連絡がない。賞味期限の過ぎた樹と映子とはもうおしまい。代わりにしばらくは優馬の家庭教師と遊ぶ。そんな算段をしていたのに肝心の尚人からアプローチがないのでは話が変わってくる。

「昨日、家庭教師来たのか?」

 水曜の朝、気になって優馬に訊ねてみた。

「うん」

 ピザトーストとヨーグルトの朝食を食べながら弟はうなずいた。口の周りにパンくずが付いているのでティッシュペーパーを引き出して手渡してやる。

「何か言ってた?」

「何かって、未生くんのこと?」

 不思議そうに聞き返されて、自分がおかしな質問をしたことにはっとする。馬鹿なことを聞いた。あのくそ真面目な男が未生との個人的な関わりを疑われるようなことを優馬に話すはずがないのに。

「……いや、別に……そういう意味じゃないけど」

 未生は言葉を濁した。

 それにしても一週間も連絡がないというのは想定外だ。

 未生は絶対にすぐに尚人はまた自分を求めてくるだろうと確信していた。一年間のセックスレスに耐えたのだから禁欲なんていくらでもできるというのは根本的な思い違いだ。飢えて渇ききったところに快楽を与えられれば、人は簡単に堕ちる。人肌の熱さや奥を抉られる感覚を忘れられず、再び求めるに決まっている。だから、尚人自身がいくら一夜だけの関係のつもりでいたとしても、きっとすぐに体の方が我慢できなくなると思っていたのだ。

 頭を巡らせていくつかの可能性にたどり着く。尚人がよっぽどの変り者で、本当にたった一度の不貞ですっかり満たされてしまったとか。素性を知られていない相手を求めて出会い系など他の手段で男を探しているとか。もしくは、その後何らかの原因で恋人とのセックスレスが解消してしまったとか――。どれにしたって未生にとってはあまり面白くない。

 みすみす逃すつもりはないが、過去には電話もかけたし自宅近くにも押しかけた。同じ手は何度も使えないし、家庭教師の日に待ち伏せしないことは約束させられている。どうしたものかと思っていると、食事を終えた優馬が「あれ?」と声をあげる。

「ママ、これ出してないよ」

 サイドボードの上のクリアファイルを手に取った優馬に呼ばれ、アイランドキッチンの向こうから真希絵が顔を向ける。

「あら、すっかり忘れてたわ。困ったわね」

 クリアファイルの中には大判の封筒、特に興味もなく目をやったところで未生はそこに家庭教師センターの名前が書かれていることに気づいた。

「……何それ」

「優馬の授業料引き落とし口座の変更届。来月からの変更には、今日必着って言われてたのにうっかりしてたわ。直接持って行こうにも今日は確かPTAの集まりが……」

 銀行印が必要な書類なので、電話やメールでというわけにはいかないらしい。優馬から受け取った封筒を手にうろたえた声を出す真希絵を見ているうちに、未生の頭の中にはあるアイデアが浮かんだ。

「俺、行こうか?」

「えっ? 未生くんが?」

 思わぬ申し出にこちらを向いた真希絵の顔には「どういう風の吹き回しなの」という文字が浮かんでいるようだった。怪しまれるのは当然で、普段未生は家の用事を進んで手伝うようなことはしないし、それどころか自分から真希絵に話しかけるようなこともしない。

「今日ちょうど午後休講なんだよ。バイトまで暇だから」

「ママ、良かったね。未生くんが持って行ってくれるって!」

 明らかに無理のある言い訳に真希絵は気持ち悪そうな顔をしているが、優馬が無邪気な笑顔で未生を救った。さすがに優馬にそう言われては断ることもできないのか、真希絵はぎこちなく笑うと未生に封筒を差し出した。

「そうね。お願いするわ。未生くん、ありがとう」

「別に。あんたのためじゃないし」

 そう言うと未生は受け取った封筒をカバンの中に投げ込んだ。

 そうだ、これは決して真希絵のためでも、それどころか優馬のためでもない。確か尚人は、仕事前には事務所で打ち合わせをすることがあるのだと言っていた。うまくいけばその近所で尚人を捕まえることができるかもしれない。