尚人の所属する家庭教師事務所の住所は渋谷の果てにある雑居ビルにあるらしい。退屈な午前中の講義のあいだに未生はマップで場所を確認しておくことにした。ついでにふと興味が湧いて社名を検索してみると、すぐにウェブサイトが見つかった。
ベスト・チューター・ネットワークという芸のない横文字名の会社は初めて耳にした。家庭教師ならばもっと大手の派遣会社がいくらでもあるような気がするが、尚人にしろ真希絵にしろなぜこんな小さなところを選んだのかという疑問は、サイトを見るうちにある程度解消できた。
この会社は元々はT大内部の学生ネットワークだったものを、リーダー格の男が事業化したのだという。尚人はT大の卒業生なので、学生時代のコネか何かでここで働いているのかもしれない。真希絵はおそらく、高学歴の講師であれば高水準の授業が期待できるのではないかと安易な考えでここに家庭教師の斡旋を頼んだのだろう。
プロの専任講師から現役学生まで――という宣伝文句だが、講師プロフィールのページに並ぶのはほとんどが現役大学生ばかりで、専任と銘打たれているのは片手ほどしかいない。実名は記されていないものの「二十八歳/専任講師/教育学部教育学研究科・博士課程単位取得退学」の文字列を見ておそらくこれが尚人のことなのだろうと思った。
〈大学院で初等中等教育について学んだプロの講師です。小学生から中学生までの全科目、高校生・浪人生についてはセンター試験全科目及び、英語、国語(現代文、古典)、世界史、日本史については二次試験対策まで可能です。また長期欠席、フリースクール生等の受講についてもご相談ください。〉
経歴は未生からすれば十分輝かしく見えるが、夢破れた結果この仕事に就いた尚人の心は複雑なのだろう。
アルバイト先で酔客に絡まれた後で機嫌が悪かったのもあって、初対面のとき未生は尚人の傷を思いきり抉るようなことを言ってしまった。その上二度目には乱暴な言葉で口説きにかかったのだから、警戒され嫌われるのはある意味当然だった。
二限を終えて、そのまま大学を後にする途中で映子に呼び止められた。
「未生」
心の中で舌打ちをしながら未生は振り向く。
先週、酔っ払って夜中に電話で絡まれて以来、映子からの連絡をことごとく無視していた。いわゆる既読スルーで放置しているメッセージは十通以上あるはずだ。ただでさえ面倒くさくなっていたところに癪にさわる行動を取られて、これ以上映子との関係を続ける気は毛頭ない。
「ねえ未生、何で無視するのよ」
そのまま歩き去るという方法もあるが、校内では周囲の目が気になる。嫌々ながら足を止めた未生に映子が小走りで追いついてくる。
「無視っていうか。別に返事するような用事もないし」
「はあ? ご飯行こうって誘ったんだから、普通返事くらいするでしょ?」
そっけない返事に映子はあからさまに機嫌を損ねた。けんか腰の大声に驚いたように周囲の学生が二人の方を見た。
本命の彼氏も同じ大学の学生なのに人目につく場所でこんな話をするなんて、一体どういうつもりなのか――そう思って顔をしかめた未生の考えを読んだかのように映子は続ける。
「……未生が酔っ払い嫌いなの知ってて電話したのはごめんって謝ったじゃん。なのに一週間も無視するとかちょっとひどすぎるでしょう」
「いや、あのさ」
そういう問題ではなく、自分はもう映子との関係を解消したいのだ。正直に伝えたいがいまこの場で彼女をこれ以上興奮させるのが賢い方法とは思えない。とにかく少し落ち着かせようと伸ばした腕は、美しいスカルプネイルをつけた映子の手にぎゅっと握られた。
「ねえ未生、あたし未生とちゃんと付き合いたいって思ってて」
未生はぎょっとした。映子がそういう気持ちを持っていることには当然気づいていたが、美人でプライドも高い彼女が断られること承知で直球を投げてくることはないだろうとたかをくくっていたのだ。
「やめろって、そういうのなしって最初にお互い納得したじゃん」
「最初はそうだったけど、本気になっちゃったんだもん。ねえ、話聞いてよ」
思いのほか必死な目で縋り付いてくる手をどうにか振り払いながら未生は後ずさる。公衆の面前で晒し者になりながらセックスフレンドと痴話けんかなんて冗談ではない。
「俺、頼まれごとあって急いでるからそんな暇ないって。あと、いくら話しても無駄だから。付き合う気とか、ゼロ」
未生はそう言って映子を振り切ると歩くペースを早めた。
映子とのやりとりでどっと疲れてほうほうの体で家庭教師事務所にたどり着く。小さいが新しいビルの看板で場所を再確認して事務所のある三階までエレベーターで上った。
ドアを開けると小さな受付デスクは無人だった。決して広いとはいえない事務所の奥にはいくつかの机が並んでいるが、尚人はもちろん誰ひとりとしてそこに座ってはいない。
無人なのだろうか。多くの金があるようには見えないが、それでも営業時間内に鍵を開けたまま留守にするというのは非常識に思える。尚人には会えないし、それどころか頼まれた書類を手渡す相手もいないのだから、これでは何をしにきたのかわからない。未生は真希絵に頼まれた封筒を手に途方に暮れた。
さすがに個人情報だらけの書類を受付デスクに置いて去るというのも抵抗があり、しばらく外で暇を潰して出直そうかと思ったところで、奥の方からひとりの男が顔を出した。
「あれ? もしかして家庭教師登録の希望者?」
愛嬌のある男の顔には見覚えがある。ウェブサイトに「代表」の肩書きとともに写真が載っていた冨樫という男だ。
冨樫は未生をアルバイト希望者だと勘違いしたまま登録用紙を片手に歩いてくる。知性と程遠いこの風貌を一体どれほど視力の悪い目で見たらT大生と間違えるのか未生には理解が難しい。
「違います。これ、口座変更の手続きって」
未生が差した封筒を受け取り、冨樫は中身を確かめた。
「ああ、笠井優馬くん、の――」
「兄です。今日までに出せば来月からの変更に間に合うって言われているって……母から頼まれて」
ステップマザーの真希絵に対して決して家の中では使わない「母」という呼称。しかし外向けだとそういうわけにもいかない。内心恥ずかしさを感じながら自分がここに来た事情を話した未生に、目の前の男は急に丁寧な調子になって頭を下げる。
「ああ、わざわざご足労ありがとうございます。僕は細かい手続きはわからないんですけど、事務員が昼飯から戻ったらちゃんと渡しておきます」
言われて壁の掛け時計に目をやると、時計は十二時五十分を指している。室内が無人なのは昼時だからなのだとようやく合点がいった。
「はは、小さい事務所で驚きました? 常勤のスタッフは昼に出てるし、家庭教師の先生たちも打ち合わせの都度ここには来てもらうんですけど、いまはちょうど誰もいなくて」
冨樫は未生の視線の理由を誤解したようで、照れくさそうにそう言って頭を掻く。おそらく尚人の同窓だろうが、未生の高学歴者への偏見からすれば意外なほど腰の低い男だ。
「じゃあ……なお……相良先生は?」
「今日は授業夕方からだから、午後ここに寄る予定です。もしかして伝言とか、スケジュール変更依頼とか、何かあります? 僕から伝えますけど」
セックスの後連絡のないことにしびれを切らして未生が尚人を追ってきたなどと冨樫は知るはずもない。あくまで生徒の父兄としての用事を想定しての親切な申し出はもちろん断った。
「いえ、大丈夫です。じゃあ……」
「どうですか? 相良先生は」
失礼しました、ときびすを返そうとしたところで、笑顔を浮かべたままの冨樫が訊ねる。
「えっと、どうって……」
答えは難しい。なんせ未生は尚人の弱みを握った上で体の関係を迫り、尚人は尚人で恋人との関係に行き詰まった結果、未生に体を許した。二人の関係はそれ以上でもそれ以下でもない。しかし冨樫の期待に満ちた目に未生は負けてしまう。
「俺はよくわからないけど、優馬……弟は毎週火曜日を楽しみにしているみたいです」
「でしょう! 彼はうちの一押しだからね」
冨樫は未生の当たり障りのない答えに満足そうだった。ホストクラブでもあるまいし家庭教師に「一押し」などというものがあるのかはわからない。それに、あの薄幸顔で自身のなさそうな男の何をもって「一押し」だというのか。
「……あの人、そんなに優秀な家庭教師なんですか?」
確かに真希絵も優馬も尚人には満足している。だがそれはおそらく「優しそうで真面目な先生」で、かつ真希絵にとっては「高学歴の先生」であることが肝心で、一般的な家庭教師として尚人が優秀かどうかというのは問題にしていない。なのにここの代表である冨樫は尚人のことを心底信頼しているように見える。
「うち、T大を売りにしてるからバリバリの大学受験対策だと思われがちだし、実際いまのところはそうなんですけど、実は僕、児童教育や適応支援に興味があって」
「適応支援?」
耳慣れない言葉を聞き返すと、「ええ」と冨樫は首を縦に振った。
「不登校とか、いろんな理由で学校に行きづらくなっちゃった子。人と会うのが怖くてフリースクールにも行けないような子をメンタルと学力両方からサポートするのって家庭教師が打ってつけだと思っているんです。実際そういう需要もあるんですけど、ちゃんと専門性の裏付け持ってやってるとこってまだまだ少なくて」
確かに尚人のプロフィールには、長期欠席やフリースクール生の受講も応相談と書いてあった。
「それを、相良先生が?」
「あいつ、そういう感じのこと大学院でやってたんですよ。だからいまも不登校の子のとこ行ってもらってたりして。あと小学生の勉強ってすごく大事で、序盤でつまずくと勉強だけでなく学校自体が苦手になったりもしますからね」
その気持ちは未生にも理解できた。小学校の途中までは運動で優れている未生は教室でも目立つ存在で、特に居心地の悪さを感じることはなかった。しかしやがて家庭の状態が悪化して勉強も手につかなくなると、だんだんと学校に行くことが辛くなった。しばらく通い続けはしたものの、周囲の子どもと自分との違いばかりが気になって、教室はどんどん自分の居場所とは程遠くなっていった。
「正直大学受験になるとテクニックと勉強量勝負で、生徒さんのモチベーションさえ高ければ高額な専任教師使う必要ってないんですよ。最近受験したばかりの学生講師の方がむしろ適任は場合もありますし。でもバックグラウンドが複雑な子とか――小さい子相手って実はすごく難しいんです。いや、優馬くんみたいな賢いお子さんとは縁遠い話ですけどね」
時計の読み方や、分数の概念。大人から見れば常識になってしまっている部分がどうしても納得いかずにつまずいて、そのまま置いていかれる子も多いのだと冨樫は付け加えた。そして、穏やかで粘り強い性格の尚人はそういう子どもへの接し方が上手いのだと続ける。
「本人も天才型じゃないから、相手のわからないことを丁寧にすくい上げる気の長さがあるんですよね……あ、すみません身内バカみたいなこと言っちゃって。優馬くんがあいつ気に入ってくれてるって聞いて嬉しくて」
そう言って照れる冨樫は心底から尚人のことを評価して信頼しているように見えた。
未生といるときの尚人はおどおどしているか怒っているかなので、冨樫が相好を崩して褒める「相良先生」の姿とは重ならない。でも、子ども相手に嚙んで含めるように勉強を教える姿は何となく想像ができた。
「じゃあ、書類のことお願いします」
「ええ、こちらこそ引き続きよろしくお願いします」
挨拶を交わして事務所のドアを出る。あわよくば尚人に会って様子を伺うという目的は果たせなかったが、なぜか満たされた気持ちで未生はエレベーターに乗り込んだ。
だが、意外にもビルの外に出たところで路地の向こうから見覚えのある人影が歩いてきた。未生が気付くより先にこちらの存在を察知したらしき尚人はあからさまに嫌そうな顔を見せる。
「何で君がここに」
そういえばこれまで一度だって顔を合わせた瞬間に笑顔を見せてきたことはない。嫌われているのはわかっているが、苦手な虫を見つけたような顔をされると面白くはない。
「違うよ、頼まれて優馬の書類を届けに来ただけで――」
「そんなこと僕が信じるとでも?」
思わず言い訳をした未生だが、尚人は一切信用する様子はない。もちろん自宅の近くまで押しかけた前科はあるが、このあいだカフェにいる尚人を見つけたのはただの偶然だし、ここ二週間わざわざ火曜日は家を外すようにしている。
一発やったらもう用事はないということなのだろうか。これまで一度関係を持てば相手から繰り返し求められる経験しかない未生のプライドを、尚人は大いに傷つける。
帰りたくないと途方に暮れている夜に手を差し伸べてやったのに、あんなに腕の中で乱れたのに、尚人の方こそひどい態度だと思うと腹が立ってきた。我慢できずさらに言い返そうとしたところで思わぬ邪魔が入った。
「未生っ! 用事が終わったなら話に付き合ってよ!」
甲高い声に、未生と尚人は揃って動きを止める。そしてゆっくり振り返った未生の目の前にいたのは――。
「え、映子!? 何でおまえ」
渋谷の路地裏で、未生は思わぬ形で関係を持った相手二人と同時に対峙することとなった。