36. 未生

 柄にもなく未生は動揺した。過去にもセフレ同士が鉢合わせた経験は何度かあるが、よりによっていま落とそうとしている相手と、別れを告げようとしている相手が一堂に、というのはどう考えても最悪だ。

「映子、おまえ何でここに?」

 何でもなにも、ここに映子がいるということは未生の後をつけてきたに決まっている。そっけない言葉ひとつであきらめてもらえるのではないかという期待は甘すぎた。

 幸い鈍くさい尚人はまだ未生と映子の関係に勘づいてはいないようだ。突然現れた若い女の存在を処理しきれないのか、さっきまでの好戦的な態度が嘘のようにきょとんと二人を眺めている。

「とりあえず、こんなとこじゃ話もできないから……」

 未生は修羅場が始まる前になんとか尚人の前から映子を連れて逃げてしまおうとばかりに一歩踏み出すが、興奮状態にある映子は未生の両手にすがりつくと悲壮な顔で訴えかけた。

「あたし、好きな人ができたからってコウくんと別れてきたの。だから未生、いままでみたいな関係じゃなくてちゃんと付き合って」

 決定的な言葉に頭を抱えたくなるがどうすることもできない。痛みを感じるほどの強さでつかんでくる手を未生は何とか振りほどこうとする。

「だから……最初に約束しただろ。そういうのは俺、無理なんだって」

「無理ってどうして? 未生には彼女いないし、あたしたち相性だって悪くないじゃない! お試しでいいからとりあえずしばらく彼氏になってよ。絶対後悔させないから」

 たいした自信だが、残念ながらそう思っているのは映子だけだ。他人のものをつまみ食いして優越感に浸ることを楽しんでいただけの未生に、みじめったらしく取りすがってくる女は一切の魅力を持たない。

 尚人に対してほどあけすけで露悪的な言い方はしなかったものの、セフレ以上の関係になるつもりがないことは映子にもことあるごとに告げてきた。なぜいまになってこんな面倒な目に遭うのか。

 未生はチッと舌打ちをして横目で尚人を見る。壮絶な男女のやり取りを前に世間ずれしていない男は驚きのあまり身動きも取れないようだ。それでも未生と視線が合うと、見てはいけない場面を目にしたことを自覚したかのように、尚人は気まずそうに視線を逸らした。

 映子との話を早く終わらせなければいけないし、このまま何のフォローもないまま尚人を逃がすのもまずい。未生は最短距離で要件を済ませるために、一番安易で確実な方法を取ることにした。

「あのさ、俺そういううっとうしいの本当に無理。ダメ。生理的に受け付けない」

「未生……?」

 心底迷惑そうな表情にできる限りの冷淡な口調で告げると、さすがに映子が動揺した。そこにさらなる追い打ちをかける。

「それにさ、黙ってたけど実は俺ゲイなんだよね」

 場違いに間の抜けた「え?」という声がステレオで響いた。

 目の前の映子と、未生から見て右側に立っている尚人。突然己の性志向を告白しはじめた未生に呆気に取られたように二人は間の抜けた声を出した。

「う、嘘でしょ」

 次に声をあげたのは、映子。人間信じられないほど非常識な自体に出くわすと笑ってしまうのはなぜだろう。映子の必死の形相が緩んで、端正な顔に中途半端な笑いが浮かぶ。

「マジだって。女と寝るってどんな感じかなって思って試してみたけど、やっぱり男の方がいいんだよな。だからごめん」

 小ばかにするようにへらへらと謝る未生の姿に正気に戻ったのか、リップグロスに彩られた唇がわなわなと震えはじめた。

「ちょっと未生……冗談もいい加減に……」

 映子に完全な敗北を認めさせるまではあと一息。そしてここには都合の良いことに完璧な小道具が揃っている。未生は手を伸ばし、ビルの壁に背を付けるようにして立っていた尚人の腕をわしづかみにした。

「本当だって。こいつ、この人が俺の新しい彼氏。俺たち先週から付き合ってんの。な、尚人?」

 夜道で突然ヘッドライトに照らされた猫のように、尚人は真っ青な顔で硬直している。その腰を一気に抱き寄せてキスをした。

 一週間ぶりのキス。尚人の唇からはミントの甘い香りがした。

「み、未生――」

 親しげに腰を抱いて口付ける。目の前の男二人が出まかせだけで物を言っているわけではないと認識したのだろう、わななく声で未生の名前を呼んだ映子は一歩踏み出すと右手を思い切り振りかぶる。

「あんた最低よっ!」

 パシッという鋭い音が路地に響き渡った。

 もちろん未生自身も「最低」という言葉を否定するつもりはない。

 叩かれた頬は痛むが、女との別れ話は最終的にはこの手が一番であると未生は知っていた。特に映子のような自分の女性的魅力を信じ切っているタイプには、男相手の敗北というのは取り返せないほどのダメージになる。

 この方法で別れを告げると大体の女は二度と未生に近づいてこようとはしないし、ゲイに「お試し」で遊ばれたことを恥じるのか、意外にも悪い噂をばらまかれることもない。同性愛の告白、というのは未生にとっては奥の手なのだった。

「……何、いまの」

 去っていく映子の背中を眺めながら尚人が呆けたようにつぶやいた。

 未生はあわてて抱き寄せていた腰を解放してやる。驚きが怒りに先行しているが、尚人の怒りの導火線が燃え尽きるまではきっとあと十秒程度。

「あー、悪い悪い。変なとこ見せて。でも尚人がいてくれて良かった。これであいつもあきらめて――」

「良かったって、何だよ!」

 ぴったり計算通りのタイミングで尚人が怒りをぶちまけた。

「僕は君と付き合ってなんかいないし、よりによって人前であんな、キ、キ、キスなんか」

 三歩後ずさって自ら壁際に追い詰められた尚人は真っ赤な顔で未生に食って掛かると、思い出したようにスーツの袖で唇をぬぐった。

 一応尚人の勤務先の近所であることには配慮して映子以外周囲に誰もいないことは確認したつもりだが、もちろん未生としても別れ話に都合よく尚人を利用したことは申し訳ないと思っている。

「だから悪かったって。ちょっと話がこじれちゃってたんだよ。まさかこんなとこまで追ってきてるとは思わなくて。でも他に誰も見てないし、あいつはあんたが誰かなんて知らないから大丈夫だって」

 未生はとりあえず尚人の怒りを沈めようと、謝罪の言葉を口にしながら宥めるように歩み寄る。壁に背を付けそれ以上逃れられない尚人は近い距離から長身の未生に見下ろされると居心地悪そうに下を向き、意外なことを言い出した。

「それに――あんな言い方、可哀想だ」

 その言葉に無性に腹が立ったのがなぜだかはわからない。未生だって自分が最低な人間で最低なことをしたというのはわかっている。でも尚人から指摘されると妙に癪に触る。

「可哀想ってどういう意味だよ? だって本気になんないって約束だったんだから破ったのはあいつの方だ。俺だって揉めたくて揉めるわけじゃねえよ。しつこくするからああいう風に言わなきゃいけなくなる」

「でも、だからって女の子を弄ぶみたいな」

 必死の言い訳に反論されれば我慢も限界を超える。未生は尚人の腕を手荒くつかむと細い横道に連れ込んだ。

「弄ぶって、何」

 未生の声が低くなったのに気付いた尚人がぎくりと肩を震わせた。

 遊び足りないからもう少し尚人を引き留めていたいと思っていた。だから目下はあまり嫌な目にあわせずに、自然とこちらに縋ってくるように仕向けるつもりでいた。でも、もう気が変わった。両腕を壁について尚人が逃げられないようにして、未生は凄む。

「あんたにしてやったのと一緒だよ。映子だって、彼氏と上手くいってないからって気晴らしに俺と寝てただけだ。不満解消に付き合ってやっただけで、勝手に本気になられて勝手に恨まれる筋合いないだろ」

 右手を伸ばして尚人の首に触れる。震えて竦んだ体は恐怖のせいか、それとも触れられた記憶が残っているからだろうか。

「あんただって彼氏に相手してもらえなくて、けんかして帰りたくなくて俺にすがったんだよな。大好きな彼氏以外の男に抱かれて声枯らすほどよがってたのに、いまになって清廉潔白な顔して見せるのかよ?」

「そういうつもりじゃ、ない」

 さっきの威勢の良さが嘘のように小さな声でつぶやく男の首筋を辿り、耳たぶをくすぐり、うなじに指を滑らせる。

 思い出させてやらなければ。尚人が一体何をしたのか。尚人が一体どんな人間で、何を求めているのか。耳元に唇を寄せてふっと息を吹きかけると籠の中の鳥はただ身悶える。

「あれから一週間、どうしてるか気になってたんだよな。一回やるとセックスの気持ち良さを思い出してたまんなくなるだろう? 俺にされたこと思い出してオナってた? それとも彼氏に土下座して抱いてもらったのか?」

「してない、そんな……」

 泣きそうな声を上げる尚人に気を良くした未生は、スーツの合わせ目から手を滑らせて、シャツの上から胸を撫でる。反応のあった場所で爪を立ててコリコリと引っ掻くと尚人の膝ががくがくと震えだした。ここでは感じないと言い切っていたのがまるで嘘のようだ。

 眉根をひそめて苦しそうな表情をしているのに頬のあたりはうっすら赤らんでいる。布越しに弾力を示すものをいたぶれば嗜虐的な喜びが腹の奥から湧き上がった。

「なあ、してないって言える? もうここ勃ったけど。こっちは?」

 胸だけで許す気などさらさらない未生が脚のあいだを膝で割ろうとすると、尚人は必死に抵抗した。

「やめて。行かなきゃ……遅くなると誰か降りてくるかも」

 その言葉を無視し、ぐっと力を入れて膝を持ち上げる。股間を膝で押された尚人は声にはならない声でうめいた。そこはすでに固くなっている。案の定、心がどうだかは知らないが尚人の体は先週のことを忘れていない。

「ちょっと触ったら仕事どころじゃなくなるよな。尚人、着替えとか大丈夫? 出ちゃったらスーツまで濡れるんじゃね?」

 軽い口調でからかいながら、未生は尚人の昂ぶった場所をぐいぐいと膝で押した。その度に尚人は眉間に皺を寄せて、ぎゅっと唇を噛んで吐息をこらえる仕草を見せた。

「お願い……離して。打ち合わせがあるんだ」

 尚人は途切れ途切れの息を吐きながら両腕で未生の胸を押し返して懇願した。限界が近いのは見ていてわかる。

 未生は膝を下ろして、おもむろに告げる。

「どうしてもっていうなら、いまは放してやってもいいけど」

 泣きそうな顔に安堵の色が浮かぶ。だが、もちろんそんなに簡単に許してやるつもりはない。

「で、いつなら会える?」

 未生の問いかけに尚人はさっと青ざめた。

「いつって……、あれは一度だけって」

 困惑――でも、その奥の隠れた場所にほんの僅かの期待が混ざっていることを未生は見逃さない。体はいつだって気持ちを裏切る。それがたとえ尚人のような男であったとしても。

「ちょうど他の相手と全部切れたところで、体は空いてるんだ。あんただって毎晩辛いんだろ」

 唇をぎゅっと噛みしめて、尚人は未生が甘く意地悪くささやく言葉を否定しなかった。