37. 栄

「いやー、やっとこれで年末って感じですよね」

 背もたれが壊れかけた椅子の上で大きく伸びをしながら、大井がここしばらく耳にしたことのない爽やかな声を上げた。

「その前にクリスマスもありますよ、係長。彼女さんへのプレゼント何にするんですか?」

「わかんねー。それよりこのあいだキャンセルになった実家挨拶の話で頭が痛い」

 係員の山野木がすかさずツッコミを入れるのを微笑ましく眺めながら、栄も首元に手をやってネクタイを少し緩める。

 本日、臨時国会が終わった。国会最終日には駆け込みで多くの質問主意書が提出されるが、奇跡的に栄たちの部署では一問も被弾しないままに待機は解除された。これから来年の一月下旬に通常国会がはじまるまでは、少なくとも先の読めない国会対応には追われずにすむ。長いあいだ潜っていた水中からようやく顔を出したような開放感だった。

 栄の周囲には、机の上どころか周囲の床の上にまでいかにも戦の後といった感じで資料がうず高く積みあがって高層ビル群のようになっている。時間があるときに少しでも片付けないともうすぐ崩れるな――過去の経験から確信して、栄はすでに傾きかけた山の一角に手を伸ばした。

「せっかくの会期末なのに、谷口補佐は帰らないんですか?」

 机の上のラップトップを閉じながら山野木が栄の方を振り向く。朝から「主意書当たらなかったら合コン」とうきうき話していただけあって、すでに化粧直しも万端だ。

「このままだと書類が雪崩れて大惨事になりそうだし。ちょっとだけシュレッダーかけてから帰るよ。俺のことは気にせず飲み会楽しんでおいで」

「ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えてお先に失礼します!」

 軽やかな足取りで山野木は去り、周囲の部署の明かりも珍しくどんどん消えていく。三十分も経てば、周辺でまだ照明がついているのは栄のいるあたりだけになった。

 書類を抱えて何度かシュレッダーと自席を往復して、特にやることもなさそうな大井がまだラップトップを眺めていることに気付く。

「大井くんは帰らないのか? 山野木さんも言ってたけど、せっかくの会期末だろ?」

 もしかして上司である栄が帰らないので、気を遣って残っているのだろうか。大井の性格からして付き合い残業などするようには思えないが、ふと心配になった。だが、大井は「そういうんじゃないです」と首を振り、柄にもなく思い悩む表情でため息をつく。

「……もしかして、さっき言ってた実家挨拶の話?」

「そうなんっすよねえ」

 何気なく訊ねると、ため息はより深くなった。

 学生時代から付き合っている恋人との結婚を考えているという大井だが、民間企業の総合職である彼女より収入が低いことや、そのくせ仕事の拘束時間が長く予定が読めないことなど、いざ一歩踏み出すには不安を抱えているのだという。しかし恋人は結婚に積極的で、先日はいざ彼女の実家に挨拶に行く段取りまで立てたにも関わらず仕事のせいでキャンセルになってしまった。もちろんその件については栄も上司として申し訳なさを感じている。

「結婚、したくないわけじゃないんですけどね。いまみたいに真夜中や朝方に誰もいないワンルームに帰るよりは癒されるだろうし、彼女以外とどうこうってつもりもないし。ただ、絶対家事の分担とかで揉めるだろうし、こんなんでまともな家庭生活送れるのかなって」

「俺は独身だからアドバイスできないけど、既婚の先輩たちに結婚生活のコツとか聞いてみればいいんじゃないか。うちの業界共働きも、奥さんの方が収入高い家も多いんだし。総務課の梅野なんか、奥さんが外科医で年収ダブルスコアだって言ってたよ」

 独身ではあるものの、栄とて完全に大井の不安が理解できないというわけではない。家庭を顧みないことによる不協和音という意味ならば自分と尚人のあいだにも確実に存在している。

 しかし当然ながら、そんな話を大井にするわけにはいかない。この年になって男の友人とマンションをシェアしている――いくらぼかして話したところで勘の良い相手にはセクシュアリティを疑われるに決まっているし、いまのところ栄にはそんな覚悟も勇気もない。

「ダブルスコアは厳しいっすね。っていうか俺なら専業主夫になっちゃうかも」

「はは、それが、子どもはともかくあんたの食い扶持を稼ぐ筋合いはないって言われるらしいよ」

 適当に話を合わせながら部下の精神衛生をフォローする。これも上司の仕事だと思いながら雑談めいた会話を続けていると、大井はきょろきょろと周囲を見回してから突然声をひそめた。

「それだけじゃなくて、実は……あ、これ谷口補佐だから言うんすよ。絶対に口外しないでくださいね」

「え? ああ、そりゃあもちろん」

 あけっぴろげな性格の大井がこんな風な物言いをすることは珍しい。栄までつられて小さな声になった。

「実は俺、最近ED気味なんです……」

 いかにも深刻そうに、大井はそう告白した。

「え、あ、そ……そうなんだ」

 突如シモの話題に持っていかれて反応に困った栄はつまらない返事をすることしかできない。だが、いざ告白すればもっと聞いて欲しくなるものなのか、大井は身を乗り出して続ける。

「いや、全然勃たないってわけじゃないんですけど、たまにそういうことがあって。しかもどうも薄い気がするんですよね」

「薄い……?」

「精液が。うちの彼女、若いママになりたいとかで出産願望強くて、結婚したらすぐでも子ども欲しいって言うんですよ。育児にはちゃんと参加してよねって釘刺されてますけど正直それ以前の問題で。病院とかいまのうちに行っておいた方がいいんですかね?」

 下ネタというよりは、大井のそれは至極真剣な男性機能の悩みだった。

 結婚したもののなかなか子どもに恵まれず、検査をしたところ夫の側に原因があった、という話は栄の周囲でも何度か聞いたことがある。普通にセックスや射精ができていればあまり気にかけない部分だけに驚きも悩みも大きいようだ。大井もどこかでそんな話を耳にしたのかもしれない。

 結婚や家族計画を目の前にしてセックスへの不安や、自身の妊娠能力への不安に襲われること自体はまっとうにも思えるが、そもそも同性が恋愛対象で子を持つことなど考えたこともない栄にアドバイスは難しかった。

「俺にはよくわからないけど、大事なことなんだったら、あらかじめしっかり話はしておいた方がいいのかもしれないな」

「そうですよね。考えすぎならそれはそれでいいわけで……」

 結局のところただ愚痴をこぼしたかっただけの大井はしばらく愚痴交じりに話し続けた後で、すっきりしたように帰宅準備をはじめた。

「じゃあ、お疲れさまっす」

「ああ、お疲れ……」

 取り残された栄もすっかり片付けへの意欲は萎えてしまった。シュレッダー作業は明日以降に持ち越すことにして家に帰ることにする。そろそろ仕事を終えた尚人も帰宅している頃合いだろう。

 尚人の家出未遂――本人は否定しているが、栄はあれは家出未遂だったと確信している――から一週間が経つ。栄はあの日からこっち、出来るだけ早く帰るよう気をつけていた。

 面と向かって尚人の決断を批判して、尚人自身も後悔しているはずだと決めつけた。もちろん自分を押し殺して不本意な生活を続けているように見える尚人に納得しているわけではないが、恋人に対して無神経なことを言ってしまったという自覚はある。

 いままで一度だって終電を逃すことすらなかった尚人の初めての外泊に、栄はそれなりにショックを受けた。あの夜、栄の携帯には尚人からの着信が入っていた。気づきはしたが、仕事中の栄は尚人からの電話を取らないことにしているので、そのときも普段の習慣に従った。

 午前二時前にタクシーでマンションに帰り着いてすぐに奇妙だ思った。尚人がすでに就寝しているのだとすれば家じゅうが真っ暗であること自体はおかしくはない。だがリビングは冷え切って、誰かがそこにいた気配すらない。さすがに違和感を覚えてそっと尚人の寝室のドアを開けると、ベッドはもぬけの殻だった。

 完全に怒らせてしまったのだと思った。前の晩に、栄の無神経な言葉を叫ぶようにさえぎった尚人。これまでの八年間で尚人があんな反応を見せたのは初めてだった。日々栄の八つ当たりに耐えてきたところに、もしかしたらあれが最後の一押しになったのだろうか。不穏な想像はひとつ浮かべば瞬くあいだに無限に増殖していく。

 栄は尚人に連絡を取ろうとスマートフォンを取り出し、しかし手を止めた。尚人はさっき何のために電話をかけてきたのだろう。栄が謝り反省するまでは戻らない――それくらいならならまだいい。もしも愛想を尽かして出ていくと言われたら、別れを告げられたら。考えると目の前が真っ暗になった。

 一緒にいる時間が長くなりすぎて、尚人をぞんざいに扱うことは増えていた。でもそれは必ずしも愛情が失われたことを指すのではなく、栄にとって変わらず尚人は必要だった。尚人の素朴な信頼や励ましがプレッシャーになっている反面、辛い思いをしながらも仕事に向き合い自分の能力を信じられるのは尚人がいてくれるからだ。その尚人がいなくなったら、きっと栄は壊れてしまう。

 いますぐ連絡を取って迎えに行きたい。でも決定的な拒絶の言葉を聞くのが怖い。気持ちは揺れ動き、結局栄は尚人に電話をかける勇気さえなく、ただスマートフォンを握りしめて朝まで過ごした。

 帰宅した尚人は、憔悴した栄の姿にむしろ驚いていた。冨樫と飲みに行ったまま終電を逃してそのまま漫画喫茶に泊まったのだと言い、心配させてごめんと謝りさえした。だが終電を逃すほど飲むこと自体尚人の普段の飲酒量からは想像できないし抱きしめた体に酒の匂いは残っていなかった。

 尚人はあの日、家に帰りたくなかっただけ。

 そして尚人をそうさせたのは、間違いなく栄だった。