38. 栄

 まっすぐ帰宅した栄だが、鍵を開けると部屋の中に人影はない。改めて腕時計を見ると時刻は十時半を回ったところだった。九時から十時のあいだには帰宅することの多い尚人にしては遅い。

 以前の栄だったらこの程度の遅れは気にしないところだが、先週の一件があった後だけに神経質になっていた。

 まずはスマートフォンを確認するが尚人からの連絡は入っていない。もしかしたら電車が止まって帰れずにいるのかもしれないと思い、今日の尚人が訪問している生徒がどこに住んでいるかも知らないのに列車運行情報のアプリを開く。しかしこの時間にしては珍しいことに都内の全路線が大幅な遅延もなく運行しているようだった。

 いくらか躊躇してから尚人の電話番号に発信するが、しばらく呼び出し音が鳴った後で留守番電話に切り替わったので電話を切った。心配していることを気取られても体裁が悪いという惨めな計算が働き、メッセンジャーアプリに「悪いけど、帰りにコンビニ限定のビール買ってきて」と送信して反応を待つことにした。

 ひどく落ち着かない。栄の謝罪はあっさり受け入れられたし、あの日以来尚人におかしな様子は見られない。なのにこんなにも不安になるのはどうしてだろう。あんなにも尚人の感情をかき乱すことを口にした罪悪感が消えないから――だから不安になり、その不安は疑いを呼ぶのだろうか。

 でも、それだけではないことを栄は知っている。

 最近の栄が帰宅を早めているのも以前の自分を反省したからではない。尚人がここからいなくなるのではないか、そんな不安に急かされるように毎日家路を急いでいるのだ。不安よりも遥かに大きな恋人への疑い。生まれてこの方自分の性格が良いなどと勘違いしたことは一度もないが、それにしたって我ながら低俗さにうんざりする。

 五分待ったが返事は来ない。十分。十五分。時計の針が十一時を指す直前に、液晶画面に尚人の名前がポップアップする。

 ――遅くなってごめん。あと二十分くらいで帰ります。ビール買っていくね。

 いつも通りの無駄のない文面に安堵した。と同時に栄は自分が帰宅して半時間ものあいだ、エアコンのスイッチも入れずコートすら脱がないまま動物園の熊のようにリビングをうろうろしていたことに気付く。ほっとすると急に余裕のない自分のことが恥ずかしくなって、あわててリモコンに手を伸ばした。

 暖房が効くまでの間にシャワーを浴びてしまおうと、バスルームに向かう。尚人が帰るまでに少し頭を冷やさなければ、平然と振舞うことすら難しいかもしれない。

 脱衣所でスーツを脱いでいるときにふと、今日の大井の話を思い出した。部下ではあるが、新米補佐の栄とベテラン係長の大井では年齢自体はふたつしか変わらない。そして栄も大井同様ここ数年性的能力の減退を感じていた。そういえば――思い出す限り、というか思い出せないくらい前から尚人ともセックスをしていない。

 最後に一緒に寝たのはいつだっただろう。二年ほど前に寝室を分けて、それからもしばらくは週に一度くらいは同じベッドを使うことがあったと思うが……数か月、半年、もしかしたらもっと経つかもしれない。

 仕事で忙しくて疲れ果てていて、セックスをするくらいなら寝ていたかった。尚人にしたって元々男にしては珍しいくらいに性欲の薄いタイプで、誘えば応じてくるが内心は気が進まないであろう様子が目に見えることもあった。学生時代などまだまだ旺盛だった頃の栄にとっては、多少無理やりにでもセックスをしたい欲と、尚人との合意を大事にしたい気持ちとの折り合いをどうつけるかはそれなりに難しい問題だったが、近年では尚人の淡白さはむしろありがたいくらいだった。

 でも、確かに最近では朝勃ちの勢いも弱いし、ほとんど自慰もしていない。薄々感じながら目を背けていた問題だが、自分より若い大井が本気でEDや精子量の減退を気にしていると聞けば他人事とは思えなかった。

「まさか、な」

 下着を脱いで自分の下半身に目をやる。茂みの中に横たわる性器自体には特段変わりはなくて、その周囲の腹や腿の痩せ方の方がよっぽど気になる。

 でも、もしかしたら。

 一度ドアを開けて廊下の様子を伺う。尚人が戻ってくる様子はない。

 栄はタオルを手にしてバスルームに入ると、これまで一度もかけたことのない内鍵をしっかり施錠して、音が漏れないようシャワーの水量を全開にすると自らの下半身に手を伸ばした。

 目を閉じて、そこを軽く握った手をゆっくり上下に動かす。久しぶりなので勘がつかめないのか、特に何も感じない。手の場所や動きを変えながら、弱かったはずの裏側やくびれ、先端を強弱つけて擦っても芯を持たない性器に徐々に焦りが生まれてくる。試すみたいな気持ちだから盛り上がらないのかと尚人との行為を思い出そうとするが、記憶が遠く薄れかかっていることに気付いて失望が増すだけだった。

 むきになって擦り立てれば快感よりは痛みが生まれる。三十前の男がこんなにも夢中になって自分の局部を触り続けるなんて、客観的に見れば滑稽そのものだ。それでも栄はどうにか自分のそこが反応を示すことを祈って自慰行為を続けることしかできなかった。

 ようやく行為に終止符を打つことができたのは、体が思ったような反応を示したからではない。玄関のドアが開く音が聞こえたからだ。タイムリミットである尚人の帰宅までに射精はおろか勃起にすら至らなかった栄は泣きたいような気持ちで自慰の手を止めると、シャワーの水栓に手を伸ばし冷水のところまで一気にレバーをひねる。そしてしばらく冷たい水に打たれて心を落ち着けてから、ようやくシャンプーのボトルを手にした。

「ただいま。栄、今日は早かったんだね」

 どうにか気持ちを立て直した栄が寝間着に着替えてリビングへ行くと、尚人が冷蔵庫にビールをしまっているところだった。

「今日、臨時国会の閉会日だったから」

 ついさっきまでの行為を悟られることなどあるはずがないとわかっているが、それでも気まずさは拭えない。髪を拭く振りで尚人から視線をそらしながら、栄はそっけなく答えた。

「ビール飲むよね。どっちにする?」

「どっちって?」

「いつものと、僕が買ってきたコンビニ限定のやつ」

 そう言われて自分が尚人にメッセージを送る口実にビールを頼んでいたことを思い出した。あれを見たから尚人はコンビニエンスストアに寄ってきたのだ。

「ああ、買ってきてもらったやつ、もらえる? 部下から旨いって聞いたんだけどコンビニ寄るの忘れちゃってさ」

 本当はそんなものに興味なんかないにも関わらず、栄は出まかせを言った。

 尚人は冷蔵庫にしまいかけていた瓶ビールを取り出すと、キッチンで開栓してから栄のところへ持ってきた。地ビールの老舗であるブリュワリーのクリスマス限定ビールは赤いラベルが華やかだ。

「数量限定で残り三本だったんだ。買えてよかった」

 ビール瓶を手渡しながら尚人は嬉しそうに笑った。その表情は以前とまったく変わらない。栄を喜ばせることに至上の幸せを感じてくれる、いつも通りの尚人だった。

 尚人がまだあのことを気にしていて、出て行ってしまうかもしれないなんて考え過ぎもいいところだった。栄は恋人を疑った自分を恥じた。

「どうしたんだナオ? こんな時間まで珍しい」

 普段通りの自分たちであるならば、帰宅の遅い理由を聞かない方がむしろ不自然だ。出来るだけ軽い調子で訊いてみる。

「うん。ちょっと込み入った進路相談とかいろいろ。不登校の受験生をどうするかとか、この時期はいろいろあってさ」

「そっか。俺も一月中旬まではそんなには忙しくないと思うから。ちょっとは家事もできるし、たいへんなときはいつでも言って」

 それは栄にとっては考えうる限りのいたわりの言葉だった。しかし尚人は笑いながらも首を振って栄の申し出を断る。

「ありがとう。でも家のことできないほどじゃないし、栄は普段が忙しすぎるから、時間のあるときくらい休んだり自分の好きなことをすればいいよ」

「……ナオは本当に優しいな」

 そう言いながら心の奥に火がともるような気がした。尚人の優しさを慈しむ気持ち、そして――久しぶりに恋人を欲しいと思う気持ち。栄はビールを持っていない方の左手を伸ばす。尚人を抱きしめて、なんならいますぐにでも。

 しかし、尚人は照れくさそうに笑って、ひらりと身をかわした。

「栄、国会終わって嬉しいのはわかるけど、ちょっとおおげさだよ。――じゃあ僕もさっさとお風呂に入っちゃうね」

 そのままリビングを出ていき、ぱたんと音を立てて閉まった扉を前に栄は取り残される。

 不自然な仕草ではなかった。スキンシップが減って長らく経つから、尚人だって栄が抱きしめようとしたことに気付かなかったのかもしれない。それでもいざ誘いをかけようとして空振りするのはなんとなく気分が悪い。

 腕なんて伸ばさなければ良かった。イベント仕様で甘みの強いはずのビールがやけに苦く感じられる。しかし尚人の鈍さを憎らしく思う一方で自分の行為が不純な動機のもとにあったこともわかっていて、だから栄はなおさらやりきれない。

 バスルームでの失望を栄はまだ引きずっていて、だから試したい気持ちになった。自慰ではなく恋人が相手ならばちゃんと勃起も射精もできることを確かめたくて栄は尚人に触れようとした。でもそんな動機は明らかに不純だし、もしいまの状態で尚人を前に失敗しようものなら取り返しがつかなくなるかもしれない。

 尚人を抱きたいのか、抱くことが怖いのか、自分でもよくわからなくなってくる。以前にも疲れからくる中折れを危惧して夜の誘いを躊躇したことはあったし、そんなことを積み重ねた結果、いまではに長い期間夜の生活から遠ざかっている。もしかしたら案ずるより産むがやすしということだってあるかもしれない。

 一度不安を抱いたことで、栄の心は乱れる。尚人に二度と出ていきたいなどと思われないためには、昔のような二人に戻るには何をどうしたらいいのか。必死に考えるが答えは簡単には見つかりそうになかった。

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