39. 栄

 クリスマス前には来年度予算案も無事閣議決定されて、課内の空気も完全に年末モードに入った。

 こういうときこそ尚人より先に帰って家事のひとつでも、というのはあくまで理想に過ぎず、短い閑散期こと年末となると連日のように忘年会の誘いが入る。行っても二次会まで、終電で帰る、と自分にルールを課してはいるものの栄は思い描いていたほど帰宅時間を早めることができずにいた。

 課の忘年会、他省庁カウンターパートとの親睦会、法案の慰労会と称しての幹部との飲み会、そして同期会や過去に所属した部署の同僚たちとの懇親会……酔ってしまえばその場は楽しいが、翌朝振り返れば残るのは虚しさだけだ。酒の席の話題も仕事の愚痴や、どこの誰が体調を崩して休職だとか何年入省の誰が転職するらしいとか、大抵は景気の悪い内容に終始する。

 机の上には、ほとんどおまじない代わりのウコン粉末。三連戦の後の二日酔いの頭をなだめすかしながら仕事をしていると外線電話が鳴った。

「はい、谷口です」

 何気なく電話を取ると、横柄だが馴れ馴れしい声が栄の耳に飛び込んできた。

「ああ、谷口くん? 笠井志郎事務所の羽多野ですけど」

「え? あ……、はあ」

 一瞬の戸惑いの後に、忌まわしい記憶が蘇る。

 笠井志郎事務所の羽多野。主意書で徹夜した土曜の朝に、発注した資料の内容が不足しているといちゃもんをつけてきた議員秘書だ。疲れた体を引きずって印刷資料五十部を議員会館まで持参して、しかも嫌味降り注ぐ中で内容の再チェックまでさせられた。あれ以来、栄の中で笠井志郎とその政策秘書の羽多野はハイレベルの要注意人物に位置付けられている。

 一体何の電話だろう。国会議員は通常年末年始は地元に戻り支援者への挨拶やらに明け暮れる。資料要求や政策レクの依頼も減るはずの時期なのだが。訝しむ栄に、羽多野は相変わらずなんとなく人を下に見るような、感じの悪い口調で切り出す。

「あのさ、君のとこの特例法あったじゃない? あのことで、うちの議員のところに相談っつうか陳情っつうか、まあいろいろ地元から話が来てるんだよね。で、議員が気にしちゃって一度詳しく話を聞きたいって言ってるんだけど。今日か明日、レクに来てくれない?」

 レク――その言葉に二日酔いも完全に飛んだ。

 羽多野が言っている法案は、栄の部署が中心になって作成し先日の臨時国会で成立したものだ。主に地方をターゲットに、生産性の低い旧来型の産業から成長産業への事業転換を行う中小企業に対して税負担を軽減することで、地域全体の産業構造の転換を推進しようというものだった。

 国の経済を成長させていくためには必要不可欠な政策である一方で、旧来産業に従事する人々からは切り捨てを不安視する声も大きく、法案を作り上げる過程ではその代弁者である地方選出議員たちからは厳しい突き上げもくらった。だが、そんな中でもできるだけ丁寧に制度の影響を試算し、関係者への根回しも行ってきたつもりだった。それに、法案はもう成立して来年春の施行日も決まっている状況なので、いまさら駄目出しされたところでどうすることもできない。

 笠井志郎は与党内で法案の内容を検討するための部会には何度か出席していたようだが、その場で特段の反対意見はおろか質問をしている場面すら見た記憶はない。もちろん個別のレクチャーに呼ばれるのもこれが初めてだ。

なぜいまさら――と言いたいのは山々だが、当然ながらいち公務員の立場で与党議員のレク依頼を断る選択肢などあるはずもない。栄はカレンダーで空き時間を確認して、明日の午前中に議員会館を訪ねる約束をして電話を切った。

「また笠井事務所ですか?」

 やり取りを聞いていた大井が嫌そうに顔をしかめる。栄もため息で返した。

「名刺渡したら直接かかってくるようになっちゃったよ。しかもどうやらいまになって地元から特例法への不満が出てるみたいで、明日の午前に本人相手のレク」

「ああ、あの人自身がもとは地方の中小企業の社長ですからね。周囲の話を聞かざるを得ないのはわかるけど……でも法律できちゃってから言われたってどうしようもないっすよね」

「中小企業の社長。そういえばそうだったっけ?」

 つまり議員は確実に特例法への不満をぶつけてくる。しかしすでに通ってしまった法律をいまからどうすることもできないから、要するに明日の栄はただのガス抜き要員でしかない。笠井という議員とは直接話したことはないが、あの癖のある羽多野秘書と顔を合わせると思うだけで憂鬱だった。

 栄は念のため、笠井志郎のウェブサイトを探す。例えば同郷だとか、大学が同じだとか、趣味が同じだとか――何らかの共通点を探しておくと、それをきっかけに緊張感漂うレクの場がとたんに和らぐこともある。欠かさない事前調査は処世術のひとつだった。

 笠井志郎の選挙区は、東京から新幹線で二時間弱の地方都市。高校卒業後に飲食店勤務を経て二十代で弁当屋を開業。政治活動をはじめて以降会社の経営自体は身内に譲っているようだが、弁当の仕出しやスーパーマーケット等への卸、教育機関や介護施設などへの給食宅配からいまでは飲食チェーンの経営まで事業は手広く、東京事務所も抱える大企業の仲間入りを果たしている。

 政治との最初の接点は、ボランティア活動をやっている知人に頼まれて余った弁当や食材をホームレスや貧困家庭への支援のため無償供与するようになったこと。それをきっかけに社会活動に目覚め、やがて県議を経て国政に――というストーリー自体は耳障りが良い。現在は都内に妻と息子二人と同居しており、趣味はゴルフ。

「なんか面白いこと書いてました?」

「そうだな、俺とは全然共通点がないっていうことだけがわかった」

 二十分かけてサイトに隈なく目を通し、得られた知見はそれだけだ。高卒、サービス業、地方出身。山の手の法曹一家の長男として育ちT大法学部を好成績で卒業した栄とは仕事以外では縁のないタイプ。

 明日は誠意をもって説明して、議員の言い分については「貴重な今後の参考」として受け止めてくるしかないだろう。笠井議員の攻略をあきらめた栄は部下に説明資料の印刷を頼んだ。

 

 翌日、覚悟して臨んだレクの雰囲気は最悪だった。

 笠井志郎は見た目こそ精悍な切れ者という雰囲気だが、いざ口を開けばいとも頼りなかった。隣には秘書の羽多野も控えているが、さすがに雇用主たる議員の目の前では横柄な態度はなりをひそめ、口数少なくメモを取っている。

 弱者支援の方面から議員になったことを売りにしているため、笠井の普段の活動分野は福祉に偏っている。経済方面の前提知識に疎いのも仕方ないとはいえ、これまでの経緯や今後の見通しについて栄が丁寧に説明しても、ただ地元の支持者から聞かされた不安と不満を腹話術人形のように繰り返すだけであるのには閉口した。

「だが君、そうやって新しいことをやるところばかり優遇して、元々地元で頑張っている人たちはどうなるんだ」

「ですから、今回の特例法は決してそういった方々を切り捨てるようなものではなく、あくまで適正な競争力とイノベーションを推進することが目的です。既存産業への影響についても有識者による検討会でこちらの試算をもとに、大きなハレーションは起こらないと結論付けられています」

 栄の説明に笠井の表情がますます険しくなる。

「ちょっと待って、イノベーションとかハレーションとか君ね。そういう英語みたいなのやめてくれる?」

「申し訳ありません。ええと適切な競争力と産業の革新を……」

 栄は栄で通じているようで通じない言葉に次第に苛々してくるが、当然そんな感情みじんも顔に出すことはしない。

 その議論は半年前に終わっています――あんた部会でも一切発言してなかったのにいまさら何でそんなこと言い出すんですか――せめて基本的な法案内容くらい勉強してから呼んでくださいよ――泡のように浮かび上がる不満をひとつずつ潰し耐えていると、笠井の携帯電話が鳴った。

 ちらりと画面に目をやり、「悪いけど、ちょっと」と笠井は電話を手に立ち上がった。

「え? 正月の人数? ああ、三人で行くよ。来年は選挙もあるから私は明後日から年明けしばらくそっちに残っていろいろと。家族は三十日から三が日までの予定だ。……そう」

 どうやら年末年始の予定について選挙区のスタッフと打ち合わせているようだ。聞き耳を立てているように思われたくないので栄は資料を読んでいるふりをしながら、すっかり冷めたお茶に手を伸ばした。

 来年は四年に一度の衆議院選挙の年に当たる。すでに当選回数を重ねある程度地盤は固まっているとはいえ、笠井も選挙を見据えて地元での運動には力を入れているのだろう。もしかしたら無理筋とわかっていまさら特例法の話をしたがるのも、選挙に向けての地元での点数稼ぎなのだろうか。気持ちはわかるが付き合わされる方はやっていられない。

 ちらりと顔を上げると羽多野がこちらを見ていた。黙ってさえいれば切れ者の政策秘書そのものといった感じのなかなかいい男だ。お世辞にも知的に優れているようには見えない笠井志郎の外向けの政策発信は実質この男が一手に引き受けているのだろう。

「あの、先日は重ね重ね申し訳ありませんでした」

 間が持たない栄が議員の電話の邪魔にならないよう小声でそう話しかけても、羽多野は「いえ、別に」と愛想のない返事を返すだけだ。

 せめて「このあいだは急いでいたからぞんざいな態度をとって悪かった」とか「迅速に対応してもらえたおかげで助けられた」とか、そういった言葉のひとつでもあれば、役人としても今後もここの要求にはできる限りのことをしたいと思えるのだが、そういう柔らかさのある男ではない。

 笠井との愚鈍なやり取りを続けるのも苦痛だが、羽多野と黙って向き合っているのも苦痛だ。緊張感から何度も湯飲みを口に運びお茶もすっかりなくなってしまった頃、ようやく笠井の電話が終わる気配をみせた。

「ああそうだ、連れて行くのは家内と優馬――下の息子だ。……未生? あいつは話にならん。ひとりで残るっていうから好きにさせるしかないさ。じゃあまた後で連絡するから」

 みお、と。響きだけだと女の名前のようにも聞こえるが、笠井のプロフィールには二人の息子の父親だと書いてあった。ということは、それが長男の名前なのだろうか。

 笠井議員にもその家族にも一切興味などない。だが、息子の扱いに手を焼いている妙に人間臭い議員の姿と同時に、笠井未生という名の響きはなぜか栄の頭の中に妙に印象深く残された。

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