40. 栄

 電話を終えた笠井志郎はすっかり集中力を切らしたようだった。栄は素知らぬ顔で資料を手に説明を再開するが、もはや話を聞こうというポーズすら見えない。

「まったく、これじゃ話にならん」

 一体何が話にならないのかについてはまるで説明のないまま資料をテーブルの上に放り出すと、笠井は話を打ち切る態度もあからさまに眼鏡をはずして胸ポケットにしまい込んだ。

「とりあえず、この件は党の方にも一度相談してみるから」

「あ、小野田先生は今回の内容についてはよくご理解を……」

 この期に及んで有力議員からの圧力など、話を厄介にするだけだ。栄は思わず法案取りまとめに尽力してくれた大物議員の名前を出したが、明らかにそれは逆効果だった。はあ、と大げさなため息をついた笠井はじっとりとした目で栄をにらみつける。

「小野田先生はおたくのOB議員だし、そりゃあこの分野には詳しいだろうけど。……君、どこ向いて仕事してるの? 国民の方じゃないの? うちの選挙区の一般国民が困ってるって言ってるんだけど、それより小野田先生が大事なのかね」

「も、申し訳ありません。決してそんなつもりでは」

 栄にだって言い分はある。特例法の案自体はもちろん省で作ったが、部会で承認したのは笠井の所属する与党だし、閣議決定して国会に提出したのは内閣だ。責任は自分たちにもあるものを、まるで役所が勝手に暴走して民意に沿わない法律を強引に作ってしまったかのように言われるのは大いに不満だ、だがもちろんそんなこと口が裂けたって言えるはずはない。

 自らの知識不足を棚に上げて人に無理難題を押し付けるような男にうっかりプライドを傷つけるようなことを言ってしまった自分が迂闊だったのだ。栄は失言を悔やんだ。

「政省令に何か書き込むとか、最悪解釈や運用でどうにかなるんじゃないの? とりあえず年明けにでも一度、現場の意見聞いてもらう機会作るからさ。羽多野、調整しておいてくれ。じゃあ私は昼飯に行ってくる」

「はい」

 借りてきた猫のように羽多野がうなずくと笠井は立ち上がり、言いたいことは言ってやったとばかりに満足げな顔で部屋を出て行った。

 話をしていたのは三十分そこらだが、ぐったりと疲れを感じた。栄は資料をファイルに戻しできるだけ早くこの部屋から出ていこうとソファを立つ。

 だがそのとき向かいに座ったままだった羽多野が栄を見上げて、おもむろに口を開いた。

「クッソむかつく……って思ってるだろ」

 この場で耳にするとは思えない汚い言葉に、栄は驚いて羽多野の顔を凝視した。投げつけられた言葉の意味が瞬時には理解できず、少し経ってようやく自分が揶揄されているのだと認識した。

「いえ、そんな。国民の不安を解消できるよう説明を尽くすのも我々の重要な仕事ですから」

 取り繕った精一杯の笑顔を向けると、羽多野は目を細めて何か考える素振りをみせてから質問を変える。

「谷口くんってどこの大学出てるの?」

「……T大ですけど……」

 そんなことをなぜ聞かれているのか理解はできなかったが、反射的に栄は答えた。

「出身は?」

「都内です」

「親御さん、何やってる人?」

 次々繰り出されるどう考えても業務とは関係のない質問に、ようやく違和感が頭をもたげた。一体なぜこんなことを聞かれて、しかも律儀に答えなければいけないのだろう。出身大学や出身地まではともかく親の職業をこの男に知らせる筋合いなどどこにもなく、だから栄は穏便に話を打ち切ろうとした。

「あの、羽多野さん。何の話でしたっけ」

「素直に言えばいいのに、そんなことてめえに答える筋合いないだろって。……ま、言えないか立場的に」

 性悪な議員秘書に完全に遊ばれているのだと、ここに至って栄は自覚した。

 顔色が変わったのはばれている。羽多野は値踏みするように栄を眺めながらどう考えても嫌味としか思えない言葉を続けた。笑いのひとつも浮かべず口調はひたすらに酷薄だ。

「谷口くんって、顔からお育ちの良さが滲んでるよなあ。あと、プライドの高さも。いくら愛想笑いして頭下げても、隠し切れないくらい高い自尊心が見えてる。難しい受験も公務員試験もクリアして賢いんだろうし、まあプライド高くて当たり前か」

 それから、ちらりと会議室の外を気にして議員がいないことを確認すると、少しだけ声を低くした、

「君、うちの先生と会うのは初めてだっけ。あんまりに馬鹿で驚いただろ」

 何ということを言う奴だろう。もはや開いた口が塞がらない。

 議員秘書がきつい仕事だということはわかっている。議員のために泥をかぶって働き、その仕事の特殊性ゆえに勤務時間は長いが、かといってそれに見合うほどの高給とも言えず、しかも議員が落選すれば同時に仕事を失うという不安定雇用。国会議員自体が主張が強く個性の強いタイプが多い故に振り回されることも多いのか、顔見知りの秘書から愚痴めいた議員への不満も耳にしたことがある。

 だが、自分の仕える代議士に対して「あんまりに馬鹿で」などという暴言を、しかも外部の人間に向かって平然と言ってのけるとは。栄は羽多野の人間性どころか精神状態すら疑った。そして――羽多野が正気であるのだとすれば――栄の失言を引き出して弱みを握ろうとしているのだと思った。

「そんなことは……」

 迷いながら絞り出した返答に、しかし羽多野は一切の容赦をしない。

「取り繕ったって無駄だよ。谷口くんの全身から、『頭の悪いあんたに賢い僕が正しいことを啓蒙してあげます』って態度がにじみ出てんの。だから先生も機嫌悪くなっちゃうんだよ」

「……私の説明能力が稚拙なのは反省しますが、そんな悪意を持った捉え方をされるのは不本意です」

 確かに笠井の言うことに栄は反感を持った。だがそれは羽多野が言うような意地の悪い意味合いではなく、理論的で理性的な判断をした上で笠井が理不尽なことを言っていると判断したまでだ。だが羽多野は栄の反論を一刀両断する。

「悪意も何も、事実だ。自分は正しいことをやっているから話せばわかる、理解されるっていう甘えた万能感。でもさ、君が馬鹿だって思った笠井先生の、あれが一般市民の姿だからな。難しい経済理論も法律も知らず自分の利害や感情で動く。で、それに振り回されるのが君ら公務員」

「……わかってます」

 そして羽多野は駄目押しのように言った。

「法案作って賢いつもりになってるけど、結局のところは馬鹿だと見下している人たちに使われるのが君たちなんだ。くだらないプライドはさっさと捨てたほうが身のためだと思うけどね」

 もう限界だった。これ以上この男の話に付き合えば、栄の鍛え上げた外面だって崩れてしまう。頭の片隅に、議員秘書を殴りつけて新聞沙汰になる自分の姿が浮かぶが――もちろん栄には、それを何としても避けようとする理性は残っている。

「すみません、次の予定があるので失礼します」

 出来るだけ羽多野の表情を見ないように、これ以上心を乱さないよう細心の注意を払いながら栄はそう告げた。

 羽多野もさすがに引き際を心得ているのか、攻撃の手を緩めてよそ行きの顔に戻る。

「まあ特例法の件はよろしく頼みますよ。先生も選挙前で神経質になってるから、いろいろ無茶言うかもしれないけどね。年明けには一度地元の人間と意見交換の場をセットしますから」

「承知しました」

 背後で扉が閉じた瞬間、カッと体中が怒りで熱くなる。理不尽な要件で呼ばれて、無能な議員に理不尽な要求をされた上に秘書から人間性を否定するような言葉すら吐かれる。一体なぜこんなことになるのだろう――。

 込み上がる怒りは猛烈だ。でもここではだめだ、まだ我慢しなければならない。栄は速足で議員会館を後にすると、地下鉄の駅へ向かい薄暗いトイレの個室に駆け込むと、潔癖気味の自分が普段ならば決して触れないだろう壁を思い切り殴りつけた。拳に痛みが走るが気にせずに二度、三度と力を込めてタイルに拳を叩きつける。そうでもしないと正気を保てそうになかった。

 腹立たしい。腹立たしい。何であんなことを言われるんだ。たかが議員秘書風情に。どれだけ馬鹿でも無能でも議員にはまだ民意があるが、その秘書などただの雇われ人に過ぎない。なのに議員がバックにいるだけで偉そうにあんな。

 夢中になって壁を殴り、気づけば栄の右手の甲にはうっすらと血が滲んでいた。

 

 どうにか怒りを沈めて職場に戻ると机の上にメモがあった。山野木の整った字で、人事課へ折り返し電話が欲しいとのことだ。すぐに折り返したところ、手が空いているときに会議室に来るように言われた。

 呼び出された小会議室には、人事課長が待ち受けていた。人事課長は栄が入省一年目に仕えたかつての上司だった。

「どうだい、最近」

 まず掛けられたのは当たり障りのない言葉。わざわざ人事課長に呼び出されるというのが、ただの雑談目的でないことはわかっているが、栄も気付かない振りで応じる。

「ええ、法案もなんとか上がりましたし。あとは施行までトラブルなしに進められるよう準備しています」

 もちろんついさっき笠井志郎とのあいだで繰り広げられた不穏な会話については話さない。ほんの少しでも不安要素を悟られれば今後の人事に響きかねない。確かに笠井は厄介な議員だし、秘書の羽多野に至っては人間のクズだが、しょせん成立した法案の話だ。わざわざここで話題に出す必要性は感じられなかった。

 栄の愛想笑いに、人事課長は笑顔を返す。

「そうか、君のところは本当に忙しかったし、ずっときついポストばかりよく頑張ってくれていると感謝しているよ」

「仕事ですから」

 そこで咳払いをひとつ。愛想笑いが消えるのを見て栄は、ここから先が課長が自分を呼んだ本題なのだと察する。そして予想通り、誰もいない会議室で声を潜めて課長は栄に告げた。

「ちょうど六ヶ月後は異動のタイミングだろう。まあ、人事は水物だから絶対とは言えないけど、何もなければ君には次の異動でそれなりのポストを考えているから、もうちょっとだけ頑張ってくれ」

 そして人事課長は栄に、幹部への登竜門とされる政策系の重要ポストの名前を耳打ちした。そのポストを経験した者は早い段階で課長、審議官を経て局長からそれ以上の席すら狙えるという――この役所にキャリア官僚として入省した人間のほとんどが夢見るであろうポスト。

 栄だってそうだ。周囲に負けないようひたすら努力して激務に耐えて、何なら人を蹴落としたって就きたかった役職。いま、目の前にその道が開けているのだ。

 ――嬉しい。なのになぜだか栄の胸の奥にはぼんやりとした不安がうずまいていた。

「頑張ってくれよ、君の代では谷口くんがエースなんだからさ」

 有難いはずの言葉に、胃がキリキリとねじれる。だがその痛みに気付かない振りをして栄は頭を下げた。

「はい。ご期待に沿えるよう頑張ります」