41. 尚人

「そういえば、ナオは今年も正月は帰らないのか?」

 思い出したように栄に訊かれて、尚人は首を振った。

 今年も残すところは三日になり、栄は昨日が御用納めだったが尚人は三十日まで授業の予定が入っている。とはいえすでに年末の帰省をはじめた生徒も多いので帰宅時間は普段より早く、今日は珍しく九時前に二人で食卓を囲んでいた。

「え、うん別に予定はない。栄は……今年も実家に?」

 食事は久しぶりに栄が作ってくれた。専門店で買ってきたパンチェッタとチーズを使ったカルボナーラは学生時代からの得意料理だ。

 尚人は栄と付き合いはじめるまで、本物のカルボナーラは牛乳も生クリームも使わないということを知らなかった。それどころかカルボナーラが家でも作ることができるメニューだということに驚いた。尚人の実家ではスパゲッティといえばナポリタンかミートソースと相場は決まっていたのだ。

 育ってきた環境の違いというのか、食事をはじめとする生活様式の多くの部分で、地方都市の中流家庭で育った尚人と、都内の洗練された家庭で育った栄の「当たり前」は異なっていた。最初は戸惑うこともあったが、いまではずいぶん栄のスタイルに馴染んだと思う。

「大晦日と元日だけはな。帰りたくもないけど、ここの家賃のこともあるから。親孝行というか、労働力での借金返済みたいな」

 栄はそう言って笑う。

 栄の実家は文京区に代々暮らす法曹の一家で、正月には親類一同が本家に集まることを慣習にしている。法律家でなく行政の道を選ぶにあたっては家の中で多少のごたごたがあったようで、栄はいまも普段はあまり実家には寄り付かないが、正月だけは別だった。栄は栄なりに名のある家の長男なのに家業を継がないことへの罪悪感を抱えているのだろう。

「あ、栄。そういえば家賃のことだけどさ」

 恋人は冗談めかして「借金返済」と言ったが、尚人はその言葉に前々から気になっていたことを切り出す。

「前にも何度か話したけど、僕ももう学生じゃないんだからもう少し多めに入れるよ。さすがにこんな場所に住まわせてもらって、五万円っていうのは」

 このマンションは栄の父親の持ち物だ。コンパクトな2LDKではあるが、この立地だと賃貸であれば月に三十万はくだらないだろう。それを月に十五万円で借りているのは破格と言っていい。

 最初から尚人は栄に家賃は折半したいと言っていた。だが、当時すでに就職していた栄は「社会人と学生の傾斜配分」を主張して譲らず、最終的には尚人が折れた。普段から栄にはそういうところがあって、食事でも何でも奢りたがるし、誕生日のプレゼントも必ず尚人より高額のものを準備する。尚人はそれを栄の愛情の証なのだとありがたく受け止める一方で対等でない関係への違和感を拭いきれずにいる。

「ああ、いいんだよナオは。奨学金の返済もあるし、まだ就職してから一年も経たないんだから」

 今日も栄はいつもと同じように尚人の申し出を一蹴する。確かに栄と比べて尚人の収入は多いとは言えないし、奨学金という名の借金返済中の身ではある。正論と優しさに気圧されながらも「でも」と言い募る尚人に栄はさらに畳み掛ける。

「それにうちの親、俺がここにひとりで住んでると思ってるから。親の物件に十五万も入れてるんだから十分だって。……それにしても、ナオもたまには帰省すればいいのに」

 栄はそう言って話題をそらした。つまり、尚人の話を聞く気は一切ないということだ。これ以上訴えたところで家賃負担増額の件は決して受け入れてもらえないどころか、あまりしつこくすれば怒り出すかもしれない。

 せっかく穏やかな日々が続いているところにわざわざ波風を立てるのも気がとがめて、尚人はこれ以上の交渉をあきらめた。それに、情けないが栄が指摘する通り尚人が経済的に楽でないことは事実で、何年も実家に帰省していないのは家族や親類と顔を合わせることを気詰まりに感じていることのほかに、割高な航空券を買うのに躊躇したのも理由のひとつだ。

「来年は考えてみるよ。ただ、うちは兄さんのところが小さい子ども三人も連れて帰るから、親もそれで手一杯で。僕まで帰省するとかえって迷惑なんだよね。車社会なのに免許もないから、運転手すらできないし」

 もっともらしい理由を並べ立てたところで、尚人は栄がすでにフォークを置いてしまっていることに気づく。皿の上のパスタはまだ半分近くも残っていた。

「栄、もう食べないの? 残ってるけど」

「あー……今日はもういいや」

 家の中では食べ物にうるさく気にくわないものは容赦なく残す栄だが、今日のカルボナーラの出来に特段の問題はない。

「体調でも悪い?」

 巷ではインフルエンザや、ウイルス性の胃腸炎も流行っている。もしや具合が悪いのではないかと身を乗り出す尚人に栄は心配するなと手を振った。

「そういうんじゃないよ。ここのところ飲み会続きだったから、ちょっと胃の調子がおかしくて。それに正月に実家で山ほど飲み食いさせられるんだし、前後は節制しないとな」

 明るい口調にむしろ不安な気持ちになった。そもそも、ここ数年で目に見えて痩せた栄に節制が必要だとは思えない。

 尚人は栄の手元の缶ビールに目をやる。

「じゃあ、せめて家にいるときくらい休肝日にした方がいいんじゃない?」

「まあそれはそうなんだけど、仕事で飲むのと家でナオと晩酌するのはまた別物だしな」

「そう……」

 心配の言葉は軽くあしらわれて終わる。栄の体調は気がかりだが、自分との晩酌が特別だと言われれば悪い気はしない。尚人はそれ以上何も言えなくなった。

 ここ最近の栄は優しい。あんなに毎日不機嫌で、ちょっとしたことで尚人を無視したり当たり散らしていたことが嘘のように穏やかだ。まるで昔に戻ったかのような栄の態度は尚人を喜ばせると同時に、不安にする。

 仕事が落ち着いているから――それだけが栄の豹変の理由でないことに、尚人は気づいていた。

 栄は、十日ほど前の尚人の外泊の理由を勘違いしている。前夜の口論で怒った尚人が家出をしようとしたのだと勘違いをして寝ずに待っていた栄は、見たことないほどしおらしい様子で自らの言動を謝り、頼むから出て行かないでくれと懇願した。そしてあの日から栄の態度は変わった。

 もちろん恋人の変化は尚人にとっては歓迎すべきことだ。冷たくされるよりは優しい方が嬉しいに決まっている。なのに――素直に喜べない理由など考えるまでもない。

 罪悪感。

 尚人は栄以外の男と寝た。あの晩、栄が尚人の不在を心配しておそらく一睡もせず過ごした夜に、自暴自棄になった尚人は未生に抱かれて、未生の隣で眠っていた。その罪悪感が尚人の心を重くしている。

 それだけではない。尚人はあの後も二度、未生と寝た。

 憔悴した栄の姿に自分の愚かな行為を反省した気持ちに嘘はないつもりだった。もう決して恋人を裏切ったりはしない、未生とも他のどんな男とも浮気なんてしない。そう自分に誓ったはずだった。

 だが、その一週間後に未生は尚人の職場の近くに現れた。そこで知ったのは未生という男が尚人が思っていた以上に低俗でひどい人間だということだった。尚人は偶然にも未生が以前の恋人――というよりは体の関係のみの相手といった方が正確なのだろうが――にひどい言葉を投げつけ、誠実さのかけらもないやり方で縁を切ろうとする場面に出くわした。しかもこともあろうか、未生は彼女の心を引き離すために尚人を利用しさえした。

 許せないと思ったし、尚人の理性は未生を拒もうとした。しかし未生に囁かれ触れられれば情けないことに体は快楽を思い出す。強引な誘い文句を脅しだと自分に言い聞かせ、尚人は未生から連絡があるたびに出向くことを止められない。

 受験シーズンが近いことなどを理由にいまはまだ帰宅が遅くなる理由を栄には疑われていない。だが、いつか栄は尚人を疑うだろうか。それとも年が明けて再び栄の仕事が忙しくなれば、尚人の帰宅が何時になろうが気にかけることすらなくなるだろうか。

 翌日も仕事のある尚人はリビングに栄を残して一足早く寝室に引き上げた。授業のスケジュールとアラームを確認してベッドに入ろうとしたところで、扉がゆっくり開く。

「ナオ」

 栄が尚人の寝室に入ってくることは珍しい。何か言い忘れたことでもあるのだろうか、デュべを捲り上げる手を止めて尚人が顔を上げると栄はそのまま黙って歩み寄ってくる。

「栄……?」

 何か用事でも? と訊ねる口は突然のキスに塞がれた。

 一度、二度。何ヶ月ぶりだかわからない口付けに、尚人は驚きで動けないままでいた。それを了承と取ったのか栄の手が尚人の背中に回る。ゆるく唇を開けば栄は舌を差し込んできて、冷たい手は寝間着の下に忍び込む。

 どういう風の吹き回しか、一年以上ぶりに栄は尚人を抱こうとしている。それは確かなことだった。ずっと忘れていた恋人の唇、恋人の手。懐かしいはずなのに違和感を抱いてしまうのは、自分の体が未生に慣らされつつあるからだろうか。そんなことが頭をよぎって思わず体が強張った。どうしよう。どう振る舞えばいいだろう。

 未生は約束通り尚人の体のどこにも跡はつけていないはずだ。でも性悪なあいつのことだ、もしかして首裏や背中や、尚人には見えないような場所に痕跡が残ってはいないだろうか。あんなに望んでいたはずなのに栄のキスや愛撫を嬉しいと思えない。むしろ尚人は恐怖に震えた。

 しかし、はじまったときと同様に栄の行為は唐突に終わる。

「栄?」

 不意に離れた体を追いかけるべきか一瞬迷って、尚人はそれ以上動けなかった。

「ごめん、ナオは明日も仕事だもんな。続きはまた今度」

 栄はそう言って笑うと尚人の髪を撫でた。

「あ……うん」

 尚人は上手く笑いかえすことができない。本当ならば栄を引き止めるべきなのかもしれない。でも、自分の態度が不自然だから栄がその気をなくしてしまったのかと思うと、どうしても動くことができなかった。

 邪魔してごめんな、と言って尚人に背を向けた栄はふとサイドテーブルに目を落とし、再び振り返る。

「そういえばナオ、前ここにあったカレンダー」

「カレンダー?」

 栄の言葉に心臓が飛び跳ねた。

 毎日印をつけてセックスレスの日数を数えるのに使っていた卓上カレンダーは、区切りである三百六十五日を過ぎたところで捨ててしまった。栄は長いあいだ尚人に興味を示さずこの部屋に入ることもなかったから、あの存在を知られているというのは尚人には予想外だ。後ろめたさに鼓動が激しくなり、すでに抱擁を解かれていたことに感謝した。

「いや、前にカーテン閉めに入ったときに卓上カレンダーがあったような気がして」

「あ、うん……仕事のスケジュール管理に使ってたんだけど、もう年末だから」

「そっか。そういえば、俺も来年のスケジュール帳買わなきゃな」

 幸いカレンダーを処分したところで不自然ではない時期だ。栄は特段尚人の嘘を追及することなくうなずいた。

 じゃあおやすみ、と手を振って部屋を出て行く恋人を見送りながら、尚人は罪悪感と恐怖でどうにかなりそうだった。栄は本当に何も気づいていないのだろうか。それとも尚人の様子がおかしいことに感づいて鎌をかけてきているのだろうか。

 あんなに待ち望んだ恋人のキスを喜ぶことすらできない自分が情けなくて堪らない。もう決して未生には会うまいと、もう何度目になるかわからない決意を尚人は再び頭の中で繰り返した。でも、いくら後悔したところで自分の体がいともたやすく理性を裏切ることを尚人は知っていた。