42. 尚人

 大晦日の朝、栄は一泊分の荷物を持って実家へ向かった。例年のこととはいえ尚人をひとり残して行くことに申し訳なさそうな様子で、だからこそ尚人は何でもない振りをして笑った。

 一昨日の晩、寝室にやってきた栄が途中で行為をやめたことは尚人の心の中に漠然とした不安となって引っかかっている。

 疑われているだろうか。いや、そんなはずはない。心はただ揺れる。あれはきっと栄の優しさだ。仕事のある尚人の体に負担をかけまいと慮ってくれただけなのだと。だって栄は抱きしめて、尚人が必要だと言ってくれたではないか。

 だから――自分と栄の関係はセックスなんてなくたって大丈夫。

 だから、こんなことやめなければいけない。

 わかっているのにスマートフォンに表示される未生の名前を見ると、それだけで体の芯に熱が生まれる。

「もしもし、尚人?」

「……もしもし」

 電話を取るといつも通りの未生の軽薄な声が聞こえてくる。普段と違うのは尚人がリビングにいて、誰の気配も気にすることなしに未生と話をしていることくらいだろうか。

「何だよ、年末なのに電話出られるのかよ。エリート彼氏はどこに行ったんだ?」

 むしろ未生の側から栄の存在に言及してくるのだから、ある意味では残酷だ。誘われれば尚人が断れないことを知りながら、わざと罪悪感を煽ってくる。

「……留守にしてるよ。毎年大晦日と元日は実家に帰るから」

 こんな時期にわざと電話してくるのも、きっと尚人がどれだけ栄に軽んじられているか探りを入れているのだろう。未生には好んでそういうことをする傾向があった。

「へえ、帰省か」

「そんな大げさなものではないけどね。実家は都内だし」

 本当は寂しさを感じているのに、つい未生相手だと見栄を張って強がってしまう。未生の誘いに乗ること自体が栄との関係が上手くいっていないことの証左なのに、それでも未生に対して少しでも、自分は栄に愛されているのだと主張したい気持ち。完全にどうにかしている。

「まあいいや、ちょうどいいじゃん。今日会える? 最近、遅くなると彼氏が心配するとか言ってあんまり長い時間取れてないし、ちょうどいいだろ」

 未生はそのまま軽い調子で尚人を誘うが、尚人は躊躇した。

「……未生くん、あの、前から言っているけどこういうのは」

 なんのための電話であるかはわかっていて応じた。心のどこかでは未生からの連絡を待ち望んですらいたのに、いざとなれば怖気付く。そこをさらに押されてようやく重い腰を上げるのはいまでは恒例の儀式のようなものだった。

「そうだ、彼氏いないなら尚人のマンション行っていい?」

「駄目に決まってるだろ!」

 いくら栄がいないからといって、ここに未生を呼び入れるなんてありえない。尚人は思わずむきになった。

「わかってるって冗談冗談。……こっちもちょうど誰もいないから、うち来ればいいよ。飯は出前でも取ればいいし」

 未生はふざけた申し出をあっさり撤回すると、代わりに自分の家に来るよう言った。だが未生は親兄弟と一緒に住んでいて、だからこれまで二人が会うときは必ずホテルに行っていた。

「誰もいない……?」

「優馬たち、クソ親父の地元に行ってるから」

 面食らった尚人に未生は家族の不在を告げた。そういえば年内最後の授業で笠井家を訪れたときに、優馬も「年末はおじいちゃんの家に行くんだ」と楽しそうに話していた。だが、せっかくの家族揃っての帰省なのに未生だけ家に残っているというのだ。

「君は行かないの?」

「行くかよ、そんなとこ。じゃあ、七時か八時くらいには来れるだろ。後でな」

 兄に懐いている優馬は寂しがっているのではないか。そんなことを考えながら訊ねると未生は一転機嫌悪そうに吐き捨て、一方的に待ち合わせの時間を決めてしまう。

「あ、待って未生くん!」

 君の家に行くことはできないと言うつもりだったのに、そんな間を与えないままに未生は電話を切ってしまった。尚人は通話の終わったスマートフォンを握りしめてため息をつく。

 断るのは簡単だ。このままコールバックしてそう告げればいい。未生はそれでも聞かないかもしれないけれど、尚人がここから動かずにいれば最終的にはそれで終わる。なのに、未生の声を聞けば――もうすでに、体が熱い。

 たった一度だけのつもりだったのに、夜を重ねるほど欲しがる気持ちが強くなる。やめなければいけないという思いと相反して未生からの連絡を待ち望む本能。そんな自分が恐ろしくて、でもコントロールが効かない。愛しい恋人を裏切って、むしろ憎らしいくらいの相手に抱かれて喜ぶ低俗な自分を嫌悪しながら、尚人の気持ちは決まっていた。

 いざマンションを出たところで、これもお呼ばれの一種なのだから手土産の一つでも必要なのではないかと思い立つ。

 近所にも気に入っているデリや菓子店はいくつもあるが、駅までの道すがら確かめるとどこもすでに年内の営業は終えているか、正月用のオードブル販売しかやっていないかだった。尚人は地元での買い物をあきらめて、乗り換えついでに渋谷のデパ地下に足を向けた。

 正月用の買い物でごった返す人をかき分けながら広い店内を歩く。

 惣菜――は、ピザを取るつもりだと言っていたから不要だろうか。サラダくらいはあっても良い気がするけれど、未生のような若い男は生野菜なんて喜ばないかもしれない。ワインとつまみ――そういえば、このあいだ若い女の子に別れを告げていたときに酔っ払いは嫌いだと言っていた。あんな見た目だが意外と下戸だとか? うろうろと二周もフロアを回って、尚人は手土産一つ決めることができない。

 そういえば、尚人は未生のことをよく知らない。

 もちろん住んでいる場所や家族構成は知っている。父親との折り合いが悪いこと、同性異性に関わらず奔放に肉体関係を結ぶがどれも刹那的な快楽と相手への征服欲を目的とするどこか歪んだものであること。それに、尚人は未生の体を知っている。温度、重さ、肌触り、どんなキスをしてどんな風に触れてくるのか。

 ――あ、まずい。

 疼くような感覚にあわてて頭から不埒な妄想を追い出す。

 ともかく、そういったことは知っているけれど、尚人は未生がどんな食べ物が好きなのか、何をすれば喜ぶのか、酒は飲むのか、そんなことすら知らない。最初の時以外は、栄に怪しまれないよう仕事が終わった後で待ち合わせホテルに行き、日付が変わる前には帰宅するようにしているから、一緒に食事することもゆっくりと話をすることもなかった。

 記憶の限りを掘り起こして、コーヒーの苦味が苦手だと言って抹茶ラテとチーズケーキを頼んでいた姿を思い出す。苦いものが駄目だなんて、意外と可愛いところもある。尚人は以前栄が美味しいと褒めていたパティスリーでいくつかカットケーキを買った。

 毎週通っている道、毎週押しているインターフォンなのに緊張してしまう。七時か八時と言われたのであいだをとって七時半に未生の家を訪れた。万が一他に誰かがいたらどうしようと頭をかすめるが、ドアが開いて現れたのは間違いなく未生だった。

「これ……口に合うかわからないけど」

「え、ケーキ? 何もいらないって言ったのに」

 尚人がケーキの入った箱を手渡すと、未生はちらりと中を覗く。特に喜んでいる様子もないので尚人は少し失望した。

「こう見えて一応大人だから、手土産くらい」

「おまえとは違って常識はある、って言いたいわけ?」

 笑いながらケーキの箱を持ってキッチンに向かう未生の背中を見送りリビングに立ちすくむ。部屋の中は空調が効いていて、未生は薄手のTシャツの上にカーディガンというくつろいだ姿だった。尚人もいそいそとコートを脱ぐ。

 ケーキを冷蔵庫にしまった未生はリビングに戻ってくると、そのまま尚人の腕を引いてキスをした。思わず体を押しのけると不機嫌な顔を見せる。

「何だよ、セックスしに来たんだろ」

「……で、でもこんないきなり」

 もちろん尚人だってそのつもりだった。でもホテルでもないのにコートを脱ぐなり抱き合うなんてあまりにも即物的だ。

「シャワーでも浴びる?」

「それは、もう済ませてきたから」

 違和感をどう言葉にすれば良いのかわからず体を固くする尚人を見て準備がまだだと思ったのか、未生はバスルームを指で示す。でも、尚人は家を出る前に風呂は終えてきた。

「じゃあ、ムードとか作った方がいいってこと? まさか好きだとか愛してるとか言われたいわけじゃないだろ」

「そういうんじゃないよ。ただ」

 未生はしつこくいいよどむ尚人に呆れたように息を吐くと、お手上げとでも言いたげに一旦は手を離して尚人を開放する。そしてニヤリと笑った。

「まあいいか。いつもの御休憩二時間と違って今日はいくらでも時間あるしな。後でドロドロになるまで抱いてやるよ」

「……っ」

 赤面する尚人を面白そうに眺め、未生はマガジンラックを探るとそこからデリバリーのメニュー表を取り出して渡す。

「じゃあ長丁場の前に腹ごしらえするか。尚人はピザと寿司どっちがいい? ほらメニュー」

「あ、う、うん。じゃあ、ピザで……」

 別にピザが食べたかったわけではないけれど、どちらかといえばピザの方が寿司よりは安くなるだろうという計算が働いた。年長で社会人だから毎回タクシー代やホテルの勘定を多めに出そうとするのに、未生はかたくなに断る。きっと今日の食事代も割り勘を主張してくるだろうから、学生の未生にとって負担が少ない方が良い。

 特段の好みはないので人気上位から二つをハーフ&ハーフにして、店への電話は未生がかけた。ほんの二十分ほどでピザは届き、インターフォンが鳴ると未生が玄関に出て行く。その間、尚人は落ち着かない気持ちでソファに座って待っていた。

 真希絵の家事が行き届いているリビングはいつも通り整っている。しかしテレビボードに置かれたフォトフレームや、置きっ放しの優馬の学校のプリントなどふとしたところに家族の生活感がかいま見えて、尚人は急に自分が何をやっているかを自覚する。

 恋人を裏切って、家庭教師先の生徒が留守の隙に上がり込んでその兄と関係を持つ。一体どこから間違えてこんなことになってしまったのだろう。尚人は罪悪感に居たたまれなくなり、マンションに逃げ帰りたくなる。

 ピザの箱を手にした未生が玄関から戻ってきて、暗い顔をしている尚人に気づくと満面の笑顔を見せた。

「またそうやって暗い顔してる」

「そういうこと、嬉しそうに言わないで」

 未生には罪悪感は一切ないのだろうか。恋人のいる人間ばかり口説いて渡り歩いて、家族がいないあいだに招き入れた家でセックスする。とても理解できない。だが、尚人があからさまな不快感を示せば示すほど、未生は楽しそうだ。

「あんたがむきになるのが面白いからな。いま、彼氏のこと考えてた?」

「それもあるけど……君の家族のこと考えたらやっぱりここに来るのは良くなかったって」

 ちらりとフォトフレームに目をやる。精悍な風貌の中年男性と真希絵、優馬の三人が小学校の門の前に立っている。優馬が小学校に入学したときに撮られた写真なのだろう。もちろんそこに未生の姿はない。

 尚人の視線を追って同じ写真に目をやった未生はピザの箱をテーブルに置き、尚人の耳元に口を寄せた。

「優馬たちに見られてるみたいな気がする?」

「そういうわけじゃないけど、やっぱり」

 くすぐったくて体をよじると、今度は腰に手を回された。さっきは食事の後でゆっくりと言っていたのに、尚人の戸惑う姿に未生は突然欲情したらしい。

「ちょっと、嫌だって」

「尚人が罪悪感で暗い顔してるの見たら、ムラムラしてきた」

 未生はそう言って尚人をソファに押し倒した。ここでは嫌だ、せめて寝室に行きたい、そうつぶやく尚人の声は弱々しく、未生は当然聞き入れてくれない。