44. 尚人

 ようやく繋がりを解かれた尚人は、大きくひとつ息を吐いてからゆっくりと目を開けた。腰には重苦しいだるさがあり、受け入れていた場所は激しい抽挿のせいでひりひりと痛んだ。

 ちらりとベッドの脇に目をやると、フローリングにはぞんざいに口を結んだコンドームが三つ転がっている。尚人は一度もつけなかったはずだからこれは全部未生の分で、少なくとも彼は尚人の中で三度達したということになる。だが未生の普段の強引さを思えば、毎回律儀にゴムを付けてくれることだけでもじゅうぶん紳士的に思える。

 しばらく黙ったまま荒い息を整えていた尚人は、そのうち寒さを感じて身震いした。ブランケットを引き寄せる仕草に気付かれたのか未生が手を伸ばしてエアコンのスイッチを入れる。真冬の部屋の中で空調も入れていなかったのに、抱き合うのに夢中で二人とも寒さを感じずにいたようだ。

「……やろうと思えばまだできるけど」

「ええっ!?」

 上体を起こした未生がそう言うのを聞いて、さすがに信じられずに尚人は驚きの声を上げた。いくらなんでも尚人の体力の方が限界だ。同じ二十代といえ、二十歳になりたての未生と三十代にいまにも足を踏み入れそうな自分のあいだには厳然たる体力の差があるのだとしみじみ感じた。

「そんな殺されるみたいな顔すんなよ。言ってみただけ、やんないって」

 よっぽどひどい顔をしていたのだろうか。未生は笑って手を伸ばすと尚人の汗で湿った頭をぽんぽんと叩いた。年齢差を考えるとこんな人を馬鹿にした態度にはもっと腹が立っても良いはずだが、何かと鈍いとか騙されやすいとかからかわれているうちに気にならなくなりつつある。そのこと自体に釈然としない思いはあるものの、ともかく未生にいまこの場でもう一戦交えようというつもりがないことには安心した。

「それより腹減ったな。あれ、そういえばピザどうしたっけ?」

 指を動かすのも億劫な尚人と比べて未生はいたく元気だ。すっきりした顔で大きく伸びをすると、夕食を食べないままでいたことを急に思い出したらしい。あまりにあっけらかん聞くものだから尚人は呆れかえってしまう。

「受け取ったままリビングに置きっぱなしだよ。君が急に……っ」

 羽根枕が顔の上に落ちてきて、言葉はそこでさえぎられた。抗議のために体を起こすと、床から拾い上げたTシャツをかぶろうとしている未生は悪戯っ子のように舌を出した。

「はいはい、性欲に負けた俺が悪うございました。それはそうとしてシャワー浴びてとりあえずなんか食う?」

 ひどく疲れているのに、そう言われれば確かに尚人も空腹を感じる。今日は朝と昼を兼ねてうどんを茹でただけで、それ以外何も食べていない。壁の時計に目をやるとすでに時刻は十時を回っているから、腹が減るのも当然だ。

「うん」

 答えると、未生は尚人のシャツを投げてよこした。

 未生は一緒にシャワーを浴びたがったが、そんな誘いにうっかり乗ろうものならば再び夕食から遠ざかるのは確実なので丁寧に断りを入れた。一応は家主だからと風呂の順番も譲ったが、未生は驚くほど早風呂で、尚人が中途半端に汚れた下着を再び身に着けるべきか頭を悩ませているうちにあっというまにバスルームから出てきた。

「ああ、それシーツと一緒に洗うから、とりあえず俺の服でも着とけばいいだろ。パンツは多分新しいのあるはずだから出すよ」

 未生はクローゼットからまだパッケージに入ったままの新品の下着を取り出し差し出してくる。

「……ありがとう」

 尚人は素直に礼を言って着替え一式を受け取った。

 家を出るときに、着替えのことが頭をよぎらなかったわけではない。ただわざわざ替えの下着や衣類を持って出るのもいかにもこれから浮気しにいきますという感じがして――それが間違いのない事実であるにも関わらず、どうしても気が進まなかった。

 広いバスルームには家族それぞれの好みに合わせているのか数種類のシャンプーやボディソープが並んでいた。栄に髪の匂いを指摘されて以来ホテルでも汗を流すだけで石鹸の類は使わないようにしていたが、どうせ栄が戻るのは明日の夕方以降だ。家に帰ってからシャワーを浴び直しさえすれば問題ないだろうと思った。

笠井家の面々のお気に入りであるらしきシャンプーはどれも尚人には見覚えのないボトルだったので、順番に蓋を開けて香りを確かめて、迷った挙句に未生の髪からにおってくるのと同じ香りのするシャンプーを手のひらに出した。

 未生のスウェットは尚人には少しサイズが大きくて、袖と裾をそれぞれ一度ずつ折り返す必要がある。着替えを終えて目をやると洗面台にドライヤーが準備してあったのでありがたく使わせてもらうことにした。すぐ隣で尚人と栄のマンションにあるものより一回り大きなファミリー用のドラム式洗濯機が回っているところからして、未生は先ほどの行為でどろどろに汚れたシーツも手早く取り換えてしまったのだろう。

 子どもの頃のお泊り会はともかく、よその家のバスルームやドライヤーを借りるというのはあまりないことだ。落ち着かない尚人は髪の毛がほんのり湿ったままでドライヤーを切り上げた。

 リビングに人影がないので明かりのともったキッチンに足を向けると、ちょうど未生がオーブンを開けようとしている背中が見えた。

「お風呂、ありがとう」

 声をかけると、オーブンミトンを着けた手で天板を持った未生が振り返った。

「お、ちょうどいいタイミング。ピザ温まったとこ」

 天板の上では数時間前に届けられたピザが生き返ったかのように食欲をそそる香りを放っている。電子レンジでなくオーブンで温め返すとはなかなか芸が細かい。洗濯の手際の良さといい、一切家事とは縁のなさそうな未生がまめに立ち振る舞う姿は正直意外だった。

「あ、飲み物冷蔵庫に入ってる。俺、手が塞がってるから適当に取って。ビールもあるからさ」

 そう言われて冷蔵庫の扉を開く。食料品のたくさん詰まったいかにも家庭らしい雰囲気を漂わせている冷蔵庫は尚人のマンションのものとはまったく違っているが、下の方の段には見慣れた銘柄のビールが数本並んでいた。

「……未生くんは?」

 正直飲みたい気分ではあった。激しい行為で喉はからからだし、さっきまでの自分の痴態や、恋人の留守に不貞を働いていることを思えば素面ではやっていられない。ただ気になるのは未生のことだ。

「俺に気を遣うなよ、酒は飲むんだろ? 前にも酔っぱらって電話してきたじゃん」

 尚人の遠慮を察した未生はそう言うが、尚人の頭に引っかかっているのは別の一件だったりする。

「あの日はちょっと嫌なことがあったからで、普段から飲むわけじゃないよ。それに君、酔っぱらい嫌いだって言ってただろ」

 このあいだ、尚人の勤務先の入っているビルの真ん前で未生と修羅場を繰り広げていた女性は、彼が酔っぱらいを嫌っているのだと言っていた。あの若くて見目もよい彼女に未生が愛想を尽かしたきっかけの一つが、酒に酔ってかけた電話なのだと。あのときから尚人は、自分が前に酒に酔った状態で未生に電話したことを内心気にしていた。

 だが未生は軽い調子で尚人の懸念を吹き飛ばす。

「あー、確かに酔っ払いは嫌いだけど、あのときの尚人は別に泥酔してたわけでもないし。気にするほどでもなかったからな。ほら、じゃあ一本ずつ飲むんならいいだろ」

 その言葉に押されて尚人は二缶のビールを手に取った。そしてふと思い立ってつぶやく。

「つまり、本当に君との縁を切りたければ、泥酔してればいいってことか」

「はは、できもしないくせに。そんなになるまで飲むようなタイプじゃないだろ」

 普段やりこめられてばかりの尚人にとっては些細な逆襲のつもりだったが、未生は真に受ける様子もなく笑い飛ばしてしまった。

 尚人がビールの缶を、未生がピザと取り皿を持ってリビングに移動した。さすがに焼きたてにはかなわないものの、直火で温め返したピザの味は、空腹との相乗効果で尚人には十分美味しく感じられた。

 セックスだけで繋がった二人なので、いざ未生と並んで座れば特に話すようなこともない。気づまりな雰囲気の中でただビールとピザを口に運ぶ。やがて沈黙に耐えかねたのか未生がテレビをつけるが、いくらチャンネルを変えたところで映るのは面白味のない年越し特番ばかりだった。それでも部屋にノイズが流れはじめたことと、ビールの酔いがいくらか回りはじめたことで尚人の心は幾分楽になった。

 うっかり立ち入ったことを口にしてしまうのも酒のせいだろうか。尚人は優馬の写った写真に目をやり、つぶやく。

「どうして一緒に行かないの? 優馬くんは君が一緒だと喜ぶと思うよ」

 普段のやり取りからも、優馬が年齢の離れた兄を慕っていることは伝わってくる。未生だって弟には優しいのだから、せっかくの正月休みくらい付き合ってやれば良いのにと考えてしまう。

 だが未生はあっさりと尚人の言葉を否定する。

「喜ばねえよ。俺がいると雰囲気悪くなるもん。第一俺はあいつらのこと父親とも母親とも思ってないから一緒に出掛ける筋合いはないよ。まあ、優馬は何の罪もないガキだから、わざわざいじめたりはしないけど」

 未生と優馬は母親違いの兄弟だ。未生は何らかの事情で生みの母親と離れており、そのことにより父親との折り合いが悪く、継母である真希絵に対しても冷淡な態度を取っている。

「君のお母さんのことを聞いたら怒る?」

「そんなことまで知りたいくらい、俺のこと好きになった?」

 尚人の興味本位の質問を、機嫌を損ねる代わりに未生は笑顔で茶化した。だから尚人もそれ以上の深入りはやめておく。

「冗談言わないで。それに万が一そんなことになったら、君は僕に興味をなくすだろう?」

 このあいだ、映子と呼んだあの女性を冷たく突き放したように――。

「未生くんって厄介な人だよね。君に嫌われたければ、君を好きになればいいなんて」

 もちろん未生はそれを否定しない。それどころか「そうだな」と言って笑いさえするものだから、尚人はそれ以上もう何も言えなくなった。

 いくらか重い空気が漂いはじめたところで、ピザを食べつくした未生が思い出したように言う。

「――そういえば、ピザじゃなくて蕎麦にでもすればよかったな。もう日付が変わるとこだ。ってもカップ麺くらいしかないけど」

 その言葉にテレビ画面に目をやると、すでに年越しのカウントダウンが始まっていた。この家にやってきたのが七時半だったことを思えば、自分たちは三時間以上も夢中に抱き合っていたのか。そう思って顔が熱くなるのをごまかすように尚人は蕎麦の話に便乗した。

「未生くんの家は、蕎麦は年越しのタイミングで食べる派なんだ」

「は? だって年越し蕎麦なんだから、それ以外にいつ食べんだよ?」

 質問の意味がわからないとばかりに眉をひそめる未生に、尚人は続ける。

「いや、うちは大晦日の夕食に蕎麦を食べるんだ。ずっとどこの家も同じだと思っててさ。今の恋人と出会って日が浅い頃に何かの拍子に年越しそばの話になったんだけど、彼の家も夕食と別に夜中に蕎麦食べるって聞いてびっくりしたなあって」

 尚人の家では年越し蕎麦が夕食だと聞いた栄は、大晦日の夕食がそんなに質素なのは信じられないと言って驚いていた。栄の家では大晦日の晩は全員が居間に揃い、一年間の健康と無事に感謝を述べる挨拶をしてから普段より豪華な夕食を囲む。そしてちょうど紅白歌合戦が終わるころに母親がキッチンに立ち、蕎麦を茹でるのだと。

 そういえば栄はいまごろ、小石川の実家で家族と蕎麦をたぐっているのだろうか。ちょうどそんなことを考えたとき、尚人の電話の着信音が鳴った。

「あ、電話……」

 脱ぎっぱなしにしていたコートのポケットを探る。取り出したスマートフォンの液晶画面には、栄の名前が浮かび上がっていた。