45. 未生

 スマートフォンを手にした尚人の表情に狼狽が走るのを見て、未生は電話の相手を察した。と同時にいくらかの驚きを感じる。最初に寝た夜に尚人からの電話に一切反応しなかった男が向こうから連絡してくるなんてどういう風の吹き回しだろう。

「出ろよ。俺は外すから」

 そう言って未生はさっとソファから立ち上がった。

 別にそこまでしてやる必要はないのかもしれないが、未生の視線のあるところで恋人と話をするのは尚人にはハードルが高いに決まっている。

 未生自身は特に尚人と恋人の関係を裂くようなつもりはない。むしろ尚人が浮気を疑われることがあれば、せっかく手にした新しいおもちゃを早々に手放す羽目になるかもしれず、未生にとってもそれは望まざる展開だ。いくらか躊躇する気配はあったが、尚人は未生の申し出にうなずいた。

「うん、ありがとう」

 そう言うとすぐに尚人は通話ボタンをタップした。

 リビングの扉を開けて冷え切った廊下に踏み出しながら、未生は一瞬だけ振り返った。何となく、恋人と話すときの尚人がどんな顔をするのかが気になったのだ。

 そのときの感覚をどう言葉にすればよいのかわからない。

「……もしもし栄。ごめん、ちょっと……キッチンにいて」

 幾ばくかの後ろめたさ、だがそれをはるかに上回る嬉しそうな表情が尚人の顔にあふれた。笑顔を浮かべているときすらどこかに陰のある男のこんな顔、未生は一度だって見たことがなかった。

 未生の知る憂鬱そうな表情、怒りに満ちた表情、悲しみを堪える表情――そのどれとも違っている、恋人に話しかける尚人はまるで別人のように見えた。僕は恋人を愛しているから、尚人がそう言い切ったのは嘘でも強がりでもなかったのだと、未生は思った。

「そう、ご家族は元気? 良かった。……その時間に帰ってくるなら夕食は一緒に食べられそうだね。え、おせち? わかった、楽しみに待ってるよ」

 扉に嵌め込んである磨りガラスに姿が映らないように、でも尚人の声が聞こえるように。ドアのすぐ横にしゃがみこんで未生は、自分には決して向けられることのない柔らかい声に耳をそばだてていた。

「うん、じゃあまた明日」

 電話が終わりそうな気配にはっとして、あわててその場を離れる。盗み聞きしていたなどと気づかれるのはさすがに体裁が悪い。避難はぎりぎり間に合ったようで、未生がトイレのドアを閉じると同時に廊下に向けて呼ぶ声が響いた。

「……未生くん? ありがとう、電話終わった」

 その声はついいままで恋人に向けられていたのとはまったく異なる、穏やかだがどこか冷たい未生がよく知るものに戻っていた。

 未生があえて少し時間を置いてからトイレの水を流してリビングに戻ると、尚人は気まずそうな表情で「ごめん」と謝罪の言葉を口にする。

「何で謝るんだよ」

 何に苛立ったのか理解できないまま、未生は思わず問い詰めるような口調になる。

「え……、何となく」

 尚人は尚人で、突然不機嫌になった未生に戸惑うように目を伏せる。そんな態度を見れば逆に自分の狭量さが情けなく感じられて未生はあわてて話を変えた。

「良かったじゃん、彼氏からあけおめコールもらって。なんだかんだいって上手くいってるんじゃねえの」

「どうだろう。最近仕事が落ち着いているせいもあって、優しいのは優しいんだけど」

 未生の皮肉めいた気持ちを言葉から覆い隠すことには成功したのか、もしくはそれに気づかないほど尚人が鈍いのか。人ひとり分くらい空けて、なんとも微妙な距離感で隣に座る尚人は物憂げに首を傾げた。

「それでもセックスはしてくれないって?」

「うん、まあそんな感じ」

 だから尚人は未生の呼び出しに応じてここに来る。ただ体の渇きを癒すために。恋人との体の関係が復活すれば自分がお払い箱になることはわかっているのに、なぜだか未生はけしかけるようなことを口にしてしまう。

「真正面からねだってみたらいいんじゃねえの」

「そういうのは求められてないと思う。彼は何でも主導権を握りたい方だから」

 尚人が心底そう感じているであろうことは、やたらと消極的なセックスへの姿勢からもわかる。口淫の経験が少ないのも、自らの快楽をねだることに慣れていないのも、これまで尚人が恋人と寝てきた中ではそれが望まれる姿勢で、そういう方法しか知らないからなのだろう。

「尚人はそれで不満ないんだ」

「ないよ。彼の方が何だってよく知ってるし判断力もある。任せておけば間違いないから」

 それを信頼と呼ぶのかはよくわからない。ただ尚人のようなふわふわと自信なさげなタイプには有無を言わさず手を引いていくような男の方が似合っている気がするし、他ならぬ未生自身も尚人のそういう部分につけこんでいるという自覚はあった。

「人の言うこと聞いてれば楽しいって俺にはわかんないけど、まあ割れ鍋に綴じ蓋みたいなもん? そいつは素直に言うこと聞いてくれる尚人が好きってわけなのか」

「……別にそういうわけじゃないと思う。彼もあんまり積極的に出会いを求めるタイプじゃないから、偶然近くで見つけた同類が僕だったって感じかも。一緒にいて安らぐとか、一緒に――夢に向かって頑張れるって言ってくれたことはあったけど」

 わざわざ過去形を強調した尚人に向かい、未生はうんざりした風なため息を吐く。安らぎとか、夢に向かってとか、自分は死ぬまで口にしそうにない言葉だ。

「俺そういう青くさいの、マジ無理」

「はは、あの頃は僕たちも若かったしね。それに、栄ももう、そういうのはないんじゃないかな。いまの僕は――彼とはつり合いもとれてないし」

 懐かしそうに笑ってから、尚人の表情がすうっと曇った。

「なんで?」

「栄はたいへんな思いをしながらも学生時代からの夢をかなえて頑張っているのに、僕はドロップアウトしてしまったから」

「ふうん」

 つまり、前に話していた大学院をやめてしまったことが尚人の心だけでなく二人の関係にも影を落としていると言いたいのだ。

 だったら何だというんだろう。日本で一番難しいと言われる大学を出て官僚になった男と、同じ大学の院を途中でやめた男の価値観など、未生の理解をはるかに超えている。

 未生は愛も恋も自分には関係ないものだと思っているくらいだからそもそもの理解も乏しいが、愛情というのは大学院をやめたとか将来設計を変えたとか、そんなことで減じたり消えたりするものなのだろうか。さらに言えば、学歴や仕事で価値を測られこんなに望んでいるのに抱いてすらもらえないにも関わらず、尚人がまだ栄という男に執着している意味もよくわからない。

 ただ、さっきの電話口での表情や顔を見る限り――尚人から恋人への愛情だけは疑いようのない事実だ。

 愛していない人間とだってセックスができるということは、逆に考えれば、セックスがないからといってそこに愛情が存在しないとは限らない。普段は他人の恋人を寝取るときに感じる優越感が、なぜかいまだけは未生から遠くなる。

 ついさっきまで尚人を抱いていたのは自分だ。あんなに乱れて、身も世もなくすがり付いて甘い声を漏らしていた。なのになぜ、たった一本の電話にこんなにも強烈な疎外感や敗北感を感じてしまうのだろう。

 映子のように面倒なことになるのは困る。でも、実際目の前であんな顔を見せられるのは面白くない。未生の中にはなんとも理解しがたい感情がわだかまる。

 苛立ちながらも未生はさっき、恋人と話をする尚人のはにかむような表情をずっと見ていたいと、甘く柔らかな声をずっと聞いていたいと思った。そんな自分自身がわからないから、未生は言葉とは違うものへ逃げることにした。

「さて、腹もいっぱいになったし、上に行こっか」

 空っぽになったビールの缶をピザの空き箱に投げ込んで、未生は立ち上がる。「上に行く」という言葉の意味は正しく伝わったようでソファに座ったままの尚人はぎょっとした顔で見上げてきた。

「え、もうしないって」

 胸のもやもやを打ち消すように、未生はわざといたずらっぽく、そして軽薄に尚人に向かって笑いかける。

「どうせまた次からはまた二時間制になるんだから、今日のうちにやり貯めしようぜ」

「……本当に、君って」

 呆れた素振りの尚人がまんざらでもないことはわかっている。

 未生の部屋のベッドに移動して、替えたばかりの新しいシーツに横たわる。抱き寄せて尚人のまだかすかに濡れた髪に鼻をくっつけると、よく知っている香りがした。

「俺のシャンプー使ったんだな」

「どれを使えばいいかわからなかったから」

 その言葉に、なんとなく征服欲が満たされた。

 尚人とのセックスはいまのところすごく良いというのとは違っているが、これまでに経験したことのない新鮮味を感じる。

 手練れた相手ばかりと寝てきた未生にとってはこれまでひとりの男しか知らず、しかも一年も夜の生活から遠ざかっているという尚人は天然記念物だ。一度抱けばたがが外れる、という予想は半分当たっていて、まだためらいや恥じらいはあるものの少し強引に誘えば必ずやってくるし抱き合えば求めても来る。心を満たすのは恋人、体を満たすのは未生。このくそ真面目に見える男は彼なりに何かを割り切ろうとしているのかもしれない。

 何かと主導権を握りたがるという紳士的でエリートな恋人もおそらく淡白で、しかもけっこうな潔癖であるようだ。未生からみればつまらないセックスしか知らない尚人にあれこれ教え込むのは楽しい。さっきは初めての口淫に涙を流して身悶えたが、受け入れる場所を舌でほぐしてやったらどんな顔をするだろう。想像すると、三度も出したにもかかわらず再び自分の下半身に血流が集まるのを感じた。

 未生はセックスが好きだ。人を組み伏せて、求めたり求められたりして、まるでこの世に自分しかいないみたいにしがみつかれると一瞬だけ別の人間に――自分が価値のある人間になれたような気がする。

 尚人は明日の夕方には恋人の、栄と呼ばれる男の元へ帰る。そのことを思うとふと魔が差した。目元を真っ赤に染めて浅い息を吐く尚人はいまなら気付かないのではないだろうか。後ろから首筋に唇を当てる。陽に当たらないのか、薄くて白い肌。だが、歯を当てようとしたところで、伸ばされた弱々しい手に阻まれた。

「跡は、駄目だって」

 思わぬ強い声は、尚人の恋人への忠誠。

 自分より哀れな人間を見るための行為なのに、いまこの瞬間だけなぜだか未生はひどく惨めな気持ちになった。