46. 未生

 食事の後に尚人を再びベッドに押し込んで、そこからいつまで抱き合っていたのかは記憶にない。未生は体力には自信がある方だが、それでも最後は電池が切れるように眠りに落ちていた。

 セミダブルベッドの隣ではまだ尚人が寝息を立てている。寝顔くらいもう少し安らかだっていいのに、悪い夢でも見ているのか眉間にしわを寄せて何やら難しそうな顔をしている。

 朝の光に照らされる尚人の寝顔は新鮮で、未生はつい目を奪われた。起きているときにじっと見つめれば恥ずかしがるかうっとうしがるかのどちらかだ。眠っているいまは尚人という人間を観察する絶好のタイミングだった。

 首から裸の肩、胸にかけては男にしては目立って華奢な部類だ。一度も脱色も染色もしたことがなさそうな細く黒い髪といい、いかにも真面目に机ばかり見て生きてきたという感じがある。

 繊細そうな外見といい、スペックに似合わない自己評価の低さといい、一体どういう環境でどんなふうに育てばこんな人間に育つのだろう。もちろん尚人は尚人で未生に対して同じようなことを思っているのかもしれないが、ともかく知れば知るほど相良尚人というのは未生とは正反対の人間だった。

 まなじりがうっすら赤いのは泣いたから。これ以上は無理だと懇願されれば逆に情欲がかきたてられ、最後の方はかなりひどくしてしまった記憶がある。だが、尚人だって心底嫌がっているようには見えなかった。奥まで突いてやれば受け入れる場所は未生をきつく締め付けて、喉からは甘い声がこぼれた。

 もうしばらく寝かせておいてやろうと思ったが、未生が動く気配を感じたのか尚人がゆっくり目を開ける。

「……あれ。いま、何時?」

 起き抜けに隣に未生の姿を見つけても、尚人はもう驚かない。

「十時前。まだ寝ててもいいだろ」

 未生がそう声をかけると眠そうに一度は目を閉じかけるが、そう時間を開けず再びまぶたを上げる。無茶をした体が辛いのか、起き上がるときには軽く顔をしかめた。

「……帰らなきゃ。部屋を片付けておきたいし」

 恋人の帰宅は夕方なのだと言っていたが、早めに帰って部屋を片付けて、自宅のシャワーで他の男の痕跡を完全に消して……尚人の立場としてはそう時間に余裕はないのかもしれない。未生は起き上がった男を引き止めることをやめた。

「じゃあ、軽く汗流して着替えれば? 昨日洗ったやつ、乾いてるだろうし」

「ありがとう、そうするよ」

 シャワーを浴びて出てきた尚人は、昨晩着てきた洋服一式を身に着けている。形状記憶ではあるようだが乾燥機にかけっぱなしだったシャツの襟はいまいちぱりっと見えない。尚人自身も気にしているのか神経質そうに何度か襟の先を指で引っ張った。

 未生は冷蔵庫から適当に取り出したものをダイニングテーブルに並べながら、リビングに入ってきた尚人に声をかける。

「パンとヨーグルトくらいだけど、朝飯食って行けよ」

 そう言って尚人の返事を聞く前に食パンをトースターに入れる。真希絵がこだわって買ってくる食パンは近所で評判のブーランジェリーのもので味は抜群に良いはずだ。

 尚人は少し迷うような様子を見せたが、既に準備が整いつつあるのを見て断るのも失礼に当たると思ったのか、小さくうなずいた。

「じゃあ、いただくよ。……それにしても昨日から思ってたけど、未生くんが家事するのって意外だな」

 付け加えられた余計な言葉に未生は肩をすくめる。家事というほど大したことは何もやっていない。この程度で感心されるなんて、一体自分は尚人からどういう人間だと思われているのだろう。

「馬鹿にしてるつもりかよ。洗濯っていったって投げ込むだけで乾燥まで全自動だし、ピザ温めたりパン焼くだけってのは料理のうちに入らないだろ」

「でも、そういうこともやらないタイプに見えたから。って言ったら怒る?」

 言いたいことをすべて口にしてから「怒る?」と付け加えるのは狡猾というよりはおそらく天然。未生に向けてはこれだけ言いたいことを奔放に口にする尚人が一体どうして恋人相手にはセックスひとつねだることができないのか。

「簡単なことは昔からやってたからな。……あ、尚人コーヒー好きなんだっけ? でも俺、これは使い方わかんないや」

 怒る気にもなれない未生がカプセル式の電動コーヒーメーカーを前に首をかしげると、尚人は水でいいよと笑った。

「僕がコーヒー好きだなんてよく覚えてるね。でも、君はコーヒー飲まないんだろ」

 尚人は尚人で、コーヒーの苦さが好きでないという未生の言葉を覚えていたようだ。さすがに水というわけにもいかないので、冷蔵庫からオレンジジュースを出した。

「……彼氏、今日帰ってくるんだっけ。で、休みは三日まで?」

 パンにバターを塗りながら未生は訊く。

「うん。今年はカレンダーの並びも良くないし、四日から仕事。君の大学はいつから?」

「来週。でもすぐ試験で、その後また春休みだけど。祝日もあるしな」

 未生の通う程度の大学では、期末試験もそう難しいものではなく、日頃の講義にきちんと出席してさえいればまず単位を落とすことはない。名目ばかりの試験を終えれば二ヶ月近くの春休み。気持ちはすでに半ば、長い休みに入っている。きっとT大のようなエリート校では事情が違っているのだろうと思うが、尚人は呑気な未生の言葉に懐かしそうに目を細めた。

「そうだったね。僕もつい最近まで大学にいたはずなのに、すでに長期休暇って懐かしい感じがするよ……あれ? そういえば未生くん、もしかして来週成人式なんじゃない?」

 ふと尚人がこぼした言葉に未生は思わずトーストを取り落としそうになる。

「なんで尚人がそんなこと知ってるんだよ」

「優馬くんが、君が最近二十歳になったばかりだって」

 当たり前のようにそう言われて納得はするが、自分のあずかり知らぬところで弟と尚人のあいだで情報交換がなされていると思うとどことなく面白くない。

「俺のいないとこで余計な話するなよ。それに成人式とか興味ないし、行く気もない」

「……実は僕も出てない。住民票を実家に置きっぱなしだったから、そのためだけにわざわざ帰省するのも面倒だったし」

「だろ。女なら振袖着たいとかあるのかもしれないけど、くだらない」

 それに、未生にはわざわざそういった場で会いたいような相手もいない。区役所から届いた案内状は、真希絵から手渡されてすぐゴミ箱に投げ込んだ。

「ふふ、成人式か」

 二枚目のトーストに手を伸ばしながら、尚人が小さく笑う。

「何が面白いんだよ」

「いや、大人びて見えるけど未生くん若いんだなって思って」

 普段見せることのない年上らしい物言い。決してそれは未生を馬鹿にした風ではなかったけれど、言われた側としては嬉しくもない。

「若さなら十分思い知らせてやっただろ。それともまだ足りない?」

 茶化すような口調でわざと艶めいた視線を送ると、尚人の耳元がかすかに赤らんだ。

 簡素な朝食を終えると、尚人を玄関まで送った。

「優馬くんたちはいつ戻ってくるの?」

「知らねえ。聞いたけど忘れた。明日か明後日じゃね」

 興味がないから、耳を右から左に抜けていった。いっそずっと戻ってこなかったって、未生にとっては望むところだ。

「戸締り気を付けてね」

「なんだよそれ、おかんかよ」

 親か先生のような心配をする尚人に肩をすくめながら未生は手を振った。またね、とは決して言わない。名残惜しい仕草も見せない。未生がもしも声をかけなければこれでおしまいになるだろうか。それともどこかの段階で渇きに耐えかねた尚人から連絡してくるのだろうか。

 キッチンに戻って皿やコップを食洗機に放り込むと、誰もいないリビングでソファに寝そべる。尚人の姿が消えた部屋は広く、急に気温が下がったように思えた。

 尚人はこれからマンションに戻り、恋人の帰りを待って部屋を暖め掃除をするのだろう。きっと、昨日電話を取るときに見せたような嬉しそうな顔をして。

 尚人があんなにも焦がれる恋人。確か「栄」と呼んでいた。ありふれた名前というわけでもないが、それだけで特定できるほど珍しくもない。どんな男なのか見てみたいと興味をそそられるが、手掛かりはあまりに少ない。それに、姿を見たところできっと何もかも未生とは違っているに決まってる。

 ぼんやりしているうちに再びうとうとと眠りに落ちて、電話の着信音で目を覚ます。発信者名も確かめず電話を取ったのはきっと、寝ぼけていたからだ。

「もしもし?」

「お、いまどこにいるんだよ」

 飛び込んでくるのは耳慣れない、しかし懐かしさも感じる声。少し考えて電話の相手が古い友人の小池であることに気づく。未生の記憶に刻み込まれているのは声変わり前の少年の声。すっかり大人になった電話の向こうの男のものと重ならなくて、毎回戸惑ってしまう。

「どこって、家だよ」

「家ってどこの?」

「東京」

 未生が生まれ育った町に戻ってきていないことを知ると、小池はあからさまにつまらなさそうな声をあげた。

「なんだ、戻ってきてねーの? 正月なのに」

 その声には酒が混ざっていて、背後では他にも複数の人間が楽しそうに話している声が聞こえる。きっと正月の宴会の最中に酔った勢いで電話をかけてきているのだ。小池にはそういうところがあって、もう十年近くも顔も見ていないのに、思い出したように年に一、二度連絡をよこす。

「戻んねえって。別に用事ないし」

 酔っ払いの相手をしたくない未生は、既に電話を取ったことを後悔していた。だが、鈍感なのかあえてなのか小池はひたすらに明るい。

「なんだよ冷たいな。たまには顔出せって。あ、成人式くらいは来るんだろ? 来週、飲もうぜ」

「おまえさ、俺の住民票こっちにあるってことわかってる?」

 確かに未生は小池と同じ小学校に通っていたが、いまは東京の住民だ。尚人のように進学で上京して住民票は地方に置いたままというケースとも違う。成人式のためにわざわざ子どもの頃過ごした町に戻るなどということはあり得ない。

「ああ、そうか」と納得した様子の小池はそんな簡単なことにすら気づいていなかったのだろう。

「いや、いくら疎遠になったとはいえ幼馴染だからさ。おまえも二十年のうち半分以上はこっちで育ってるわけだし、飲み会だけでも来る気になったらいつでも連絡しろよ」

「……どこだろうがそんなの行く気ないし。前から言ってるけど、俺、酔っ払い嫌いなんだって。切るぞ」

「あ、野島」

 未生が強引に話を終えようとすると、電話の向こうの男は急に真面目くさった声を出した。

「なあ、そっちで上手くやれてるのか? 正直俺も周りも、後悔はしてるんだ。家が大変な状況で、おまえが学校に来なくなってからも何にもしてやれなかったし……」

 酔っ払いはこれだから嫌だ。湿っぽい思い出話ばかりが好きで、それも自分の心残りや後悔を葬るための自己満足。一方的に思い出したくもないことを掘り起こされる側の迷惑など考えもしない。

「切るぞ、酔っ払い」

 未生は有無を言わさず電話を切る。

 野島――という懐かしい呼び名。確かに未生はかつてそう呼ばれていた。野島未生と笠井未生、どちらの名前も好きではないけれど、父親の姓でないというだけで、まだ野島の方がましにも思える。

 目を閉じれば浮かんでくるのは寂れた地方都市の景色。幹線道路とその周囲に点々と並ぶチェーンの量販店や飲食店。一時間に片手ほどしかやってこない列車。生活音が簡単に筒抜ける安普請のアパートと、キッチンの床で膝を抱えている子どもの姿。

 いまの自分のことは好きではない。でもかつての自分を思い出したくもない。未生は二階の自室に駆け上がると、これ以上何も考えなくてもすむようヘッドフォンを耳に当てて大音量で音楽をかけた。