47. 栄

「ですから、あなたは説明を果たしたっておっしゃいますけど、そこを着地点にされたら困るんです。地方が大事だって言うなら一方的な説明だけでなく既存の産業や地元の声もちゃんと受け入れてくださいよ」

 狭い会議室で、身を乗り出してくる男の顔が近い。潔癖気味の栄としては唾が飛んでくるのではないかと気が気ではないが、そんな素振りを見せたが最後、場は収拾不能なレベルで炎上するだろう。

「ええ、ご意見は承って……」

「ご意見として、じゃ困るんだ! 対処するって約束してくれ」

 栄が何を言おうと言うまいと、相手の要求をこの場で飲めない以上どうしたって場は荒れる。わかっていて適度に打たれるのも仕事で、しかし議員対応はともかく普段はこの手の陳情は係長の大井の担当だ。なのになぜ栄がわざわざ出向いてきているかといえば――それは、この場をセッティングした笠井志郎議員事務所が、わざわざ「是非とも谷口補佐から直接説明を」と名指ししてきたからに他ならない。

 野党の国会質問にせよ、国会議員からのレクや陳情対応依頼にせよ、この業界では何を言ったかよりも誰が言ったかが重視される場面は多々ある。よりポストが上の人間を引きずり出すことを勝ちと見なす駆け引きの中で、今回一番の貧乏くじを引かされたのが栄だったというわけだ。

 今日は笠井志郎の選挙区の中小企業主が十名程、わざわざ栄相手に特例法の救済措置を求めて上京してきている。ところが議員本人は大事な会議があるとかで席を外してしまい、部屋の隅には笠井の代理として羽多野秘書が座り、袋叩きにあう栄を澄ました顔で眺めている。

 思えば、一度は「その日は予定が入っている」と部下の代理対応を申し出たにも関わらず、だったら日程を変えるとまで言って栄をこの場に引きずり出したのも羽多野。前回のレクチャー後に理不尽に絡まれたことも併せて考えると、羽多野はただの性格の悪い議員秘書のレベルを超えて栄に個人的な嫌がらせをしてきているのではないかと思いたくなる。

 秘書の経歴までは公表されていないので、羽多野がどういう背景を持つ人物なのかはわからない。公務員をこてんぱんにすることに喜びを感じるようなタイプは野党にはたまにいるが、与党議員の秘書としては珍しい気もする。だが、栄のみならず事務所のボスである笠井議員のことまでも影でぼろくそに言っていることを思えば単に性格が悪いだけなのかもしれない。

 そろそろ予定されている陳情の時間は終わりかけている。気の利く秘書ならここらで「そろそろお時間ですので」と場を収めにかかってくれるところだが、羽多野が一切動こうとしないので栄は椅子から立つこともできずに苦情の雨にさらされ続ける。

「あのね、君みたいに都会で、人の税金で食ってる若者にはわからないだろうけども、我々には歴史もあれば自分たちの仕事への意地やプライドもあるんだよ」

 リーダー格の男がそう言って机を叩いた。税金で食ってるくせに――この仕事をはじめてから何度言われたかわからない言葉はいまでは栄の心にちくりとも刺さらない。

 目の前にいる人々の気持ちならば、栄にだって理解はできる。彼らに恨みがあるわけでも、彼らをいじめたいわけでもない。意地やプライドだけでいつまでも食っていけて、国際競争にも勝てるというならばいくらだって支援してやる。

 だが実際はどうだ、歴史を振り返ればこれまで様々な産業が栄えては衰退していったし、世の中の流れはプライドや信念で食い止められるほど甘くない。いつの時代も乗り遅れるほど傷は大きくなり、だからこそ余計な苦しみを生まないよう制度で支援しようというのは、こうまで激しい言葉で責められるほどおかしなことだろうか。

 予定の時間を十五分過ぎてようやく羽多野が動いたときには心底ほっとしたが、どうすることもできない要求の数々について「後日検討の結果を伝える」と半ば無理やり宿題を押し付けられた。検討の結果はゼロ回答以外にありえないから、再び彼らの怒りに油を注ぐことは目に見えている。

 とにかく先のことは先のこととして、いまは一つの修羅場が終わったことに安堵するしかない。二酸化炭素濃度が高そうな会議室から一刻も早く脱出しようとする栄の背中に、羽多野の声が飛んできた。

「あ、そうだ谷口くん。次回だけど……今度は電気部品の会社の人たちが」

 さすがに栄も頭に血がのぼる。今日出てきてやっただけでもありがたく思って欲しいくらいなのに、笠井事務所はこの不毛な会合をまだ続けるつもりなのか。とても付き合いきれない。

「申し訳ありませんが、次の予定に遅刻してるんで失礼します」

 無礼は承知の上で、栄は振り向きもせずそのまま部屋を後にした。

 

「ったく、参りましたよ。時間は厳守でお願いしますって言ってあったのに、時計見ても全然動かないし」

 庁舎に戻っても苛立ちがおさまらず、つい愚痴が口からこぼれる。比較的我慢強い栄がそういったことを口にするのが珍しいのか、斜め後ろに座っている課長が申し訳なさそうに声をかけてくる。

「谷口くんには面倒かけて悪いね。このあいだ小野田先生に会ったからちょっと聞いてみたんだけど、特例法の件は党としては原案で承認していると。ただ笠井先生の場合は選挙区の事情があるから、ないがしろにせず話だけでもよく聞いてあげてって」

 要するに、いまの栄は与党の有力議員お墨付きでのサンドバッグ役というわけだ。同じ政党に属していても全員が一枚岩でないことなどわかっているし、小野田議員や課長の立場だってわかる。だがその煽りを一身に受ける側としてはどうにもやりきれない気分だった。

「……でも正直、業務に支障が出そうです」

 毎日のように羽多野からかかってくる電話に資料要求、今日の陳情。下手をすれば二回戦もセットされるかもしれない。笠井事務所への対応作業は、ただでさえ多忙な栄のスケジュールを圧迫している。

 どうにか上の方で話をつけて笠井議員を説得してもらえないか。そんな期待を捨てきれない栄だが、得られたものは課長のため息ひとつだけだった。

「ただなあ、笠井先生も次で四期目だろ? これまで目立った役職には縁がなくきたけど、次の選挙の結果次第じゃどこかの政務官くらいはやるんじゃないかって話だからなあ」

 与党内での立ち位置には当選回数が大きく物を言う。秘書から馬鹿だ無能だと陰口を叩かれる政策音痴の議員でも、衆議院しかも選挙区で当選四度ともなれば無役とはいかない。要するに課長は、笠井志郎が今後要職についた場合を見据えて関係を悪化させるなと言っているのだ。

 もしもあれが政務になったとして、その下で働く役所の人間には同情する。せめてうちの省にだけは来ないで欲しいものだ――と思うがもちろん口には出さなかった。

 栄が心の奥に押しとどめている毒を代わりに吐いてくれるのは大井だ。

「ったく課長、名指しで谷口補佐を取られると、そのあいだこっちに皺寄せがくるんですから、いい加減勘弁して欲しいですよ。あーあ、いっそ笠井議員に不祥事でも出れば大人しくなってくれるんですかね」

 特定の議員案件に悩まされているときに誰もの頭をよぎるであろう黒い妄想を、大井はたやすく口にする。

「おいおい大井くん、怖いこと言うんじゃないよ」

 課長は苦笑するが、栄としては笑う気にもなれない。あの話の通じない議員やひたすら威圧的で感じの悪い秘書と二度と会わずにすむのなら、不祥事のひとつやふたつ――と思いたくなるくらい、いまの自分は疲れている。そこに追い打ちをかけてくるのは山野木の声。

「谷口補佐にお電話です。笠井事務所の羽多野秘書から」

 ――噂をすれば、だ。

 さっき話しかけられたのを振り切って出てきたから、要件の続きを電話でしようというのだろう。もちろん羽多野のことだから言葉の端々には嫌味や皮肉をくまなく織り交ぜてくるに違いない。

 栄は居留守を使うべきかどうか本気で迷った。