48. 栄

 終電で帰宅するとリビングに明かりがついていた。ドアを開けると、ダイニングテーブルに座って何やら作業していた尚人が顔を上げる。

「あ、おかえり栄」

「ただいま。ナオ、まだ起きていたのか」

「うん、授業の準備とか書類仕事とか。もうちょっとだけ」

 そう言って尚人は笑う。ここのところ、こんな風に遅い時間まで家で仕事をしている尚人を見かけることが増えたような気がする。

「そうか。たいへんだな」

 声をかけながらも、自分の言葉に心がこもっていないのは誰より栄自身がよくわかっている。せめてそのことが尚人に伝わらないことを祈るだけだ。

 理性では、尚人は尚人なりに苦労しているのだとわかっている。だが心の奥で尚人のいまの環境や仕事を甘いものだと考えてしまうことを、栄はどうしても止められずにいる。先月の家出未遂の後はそんな自分の傲慢さを心底反省したつもりでいたが、喉元過ぎればなんとやらで、日が経つにつれて栄は、自分の腹の奥に再び尚人へのもどかしさが溜まりはじめるのを感じていた。

 再びテーブルに向かい顔を俯けた首筋の白さにふと目が止まった。苛立ちは、たやすく別種の衝動へと変わる。ひどくささやかだが覚えのある衝動に。

 長く一緒にいるといつしか恋人の姿は生活に溶けて、胸が高鳴ることも欲情を誘われることも少なくなっていく。それでも以前の栄が尚人と定期的にセックスをしていたのはそれが恋人としての当然の行為だと思っていたからで、感情云々以前に肉体の昂りを感じる若さや健康さがあったからだ。

 心身の疲れは栄の心をますます鈍くして、尚人に対して変わりない愛情を抱きながらも欲情を掻き立てられる機会は減っていた。だが最近、尚人の何気ない仕草に艶っぽさを感じることが増えた気がする。

 細い首筋に触れようと伸ばした手は、尚人が突然振り向いたのであわてて引き戻した。

「どうしたの? 立ったままで」

 栄の不埒な考えになど一切気づいていない尚人が不思議そうに顔を上げる。気まずさにあわててコートを脱ぎながら、栄は笑った。

「別に何でもない。風呂行ってくる」

「あ、シャンプーなくなりそうだったから新しいの出してあるけど、古い方から使ってね」

「わかった」

 何気ない日常の会話を交わし、尚人に背を向けながら栄の胸は密やかに高鳴っていた。でも尚人に対してこんな風な感覚を抱くようになったのはごく最近の――もしかしたら大井から生殖能力に関する相談を受けたあの日以来のことであるような気がする。尚人が変化したというよりは、栄自身が自らの男性能力に感じている不安がゆがんだ形で表出しているだけなのかもしれない。

 バスルームはまだほんのりと暖かく、床は濡れていた。持ち帰り仕事に時間がかかっているのではなく、尚人もまた帰りが遅かったのだということに、そこで初めて気づいた。

 体を洗うついでに下半身に触れ、ぴくりとも反応しない場所にため息をひとつ。正月に丸々六日間休めば状況は改善するかと期待していたが改善の兆候はない。起き抜けに緩く勃ち上がっていることはあるものの、いざ手を添えてみればすぐに萎えてしまう。

 気になってEDについて検索してみたところ、機能そのものに問題がある場合よりは心因性のケースが圧倒的に多いようだ。代表的な原因はストレスや過労――心当たりならありすぎる。セックスの際に十分に勃起せずに行為に支障をきたすというのが一般的な症状で、朝勃ちや自慰行為での反応すら鈍くなるのはかなりの重症であるという記述と読むとますます気が滅入った。

 切実にセックスがしたいというわけではないが、したくないのとできないのとでは話が違う。何より、まだぎりぎり二十代という若さで性的不能に陥るというのは栄のプライドを大いに傷つけた。

 栄のような総合職国家公務員の人事異動は、大体が通常国会終了後に行われる。今年は夏に総選挙があるから通常国会の延長もないだろうから、泣いても笑っても栄はあと半年ほどでいまの席からは離れられる見込みだ。

 先日人事課長から打診されたポストは出世の登竜門と言われるだけあって楽な仕事とはいえないが、省内の調整が中心となるので、笠井事務所の案件のような対外調整に直接振り回される心労からは解放されるはずだ。いまはそれに期待するしかなかった。

 風呂から上がるとすでにリビングに尚人の姿はなかった。仕事道具一式も併せて消えているところを見ると、作業を終えてすでに寝室に行ったのだろう。栄は冷蔵庫からビールを取り出すと、まだほんのりと尚人の温もりの残るダイニングチェアに腰掛けた。

 以前は帰宅の遅い栄をわざわざ遅くまで起きて待っていた尚人を見ると、その気遣いが負担で苛立った。なのに今は尚人の姿が消えていることにほんの少し失望している。

 あのときから――少なくともあの前後から尚人は変わったような気がする。先ほど感じたような色気の話ではなく、どことなく振る舞いから受ける萎縮した雰囲気が弱まったような。一挙一動に怯えられれば面白くないが、堂々とされればまた不安になるなんて、我ながら自分勝手だ。

 栄はずっと、優しく真面目だが内気で不器用なところのある尚人を自分が見出してやったのだと思っていた。尚人は確かに愛おしい恋人ではあるが、知的能力でも体力でも、それこそ出自や経済力含め何もかもにおいて栄が優位に立っている。あまり認めたくはないが、それもまた栄が尚人という人間を側に置く理由の一部だった。

 わざわざ恩に着せるつもりはないが、文武に優れた栄への尊敬の眼差しや、地方の中流家庭育ちの尚人が知らない洗練された生活スタイルに対する驚きなど、恋人の素朴な反応はいつだって栄を気分良くさせた。もちろん栄には劣るものの尚人だって世間から見れば十分に羨ましがられるレベルの人間で――そんな尚人が自分を頼ってそばにいるという事実は栄の虚栄心をいつだって満たす。

 その尚人がアカデミアの職をあきらめるというのは栄にとって一つの事件だった。それに加えて先日の家出未遂。尚人を選んだのは栄で、尚人をそばに置いているのは栄で、決して恋人が自分から栄の元を去るようなことはない。そう心の奥で信じ込んでいた栄の慢心に、尚人の突然の行動は大きな傷をつけた。

 尚人に対する愛情に変わりがないのと裏腹に消えることのない不満。だが、いまは気分のままに当たり散らすことで尚人が栄を見限るという最悪の可能性すら無視することができない。だから栄は、決して尚人を逃さないよう必死の思いで残酷な言葉を喉の奥に押しとどめる。

 体だけでも繋げば自信を取り戻せるのではないかという気持ちはあるが、肉体がそれを許さないのだから仕方ない。仕事だけでなく私生活についてもどん詰まりだった。

 手元のビール缶はすでに空になっている。平日は一本だけと決めているのに今日はいつも以上に酔えず、しばらく逡巡してから結局栄は冷蔵庫まで歩いていくと二本目の缶ビールを取り出した。

 冷たいだけで味なんてろくにわからないビールを飲みながら、スマートフォンを取り出して特段目的のないネットサーフィンをする。履歴画面に「ED」の文字を見つけて再び憂鬱な気分に襲われながら素人くさい健康情報サイトに飛ぶと、画面の隅に医薬品個人輸入の広告を見つけた。

 病院に行ってみようかという気持ちはあったが、大井も言っていたようにこの年齢で勃起不全のため医者を訪ねるのは心理的にかなりハードルが高い。仕事の多忙さを鑑みれば、仕事の合間に職場近くのクリニックに行くことくらいしかできないだろうし、万が一そこで知り合いに出くわすことを想像すると死んだほうがましだった。

 知識として、個人輸入の医薬品は安全性が保証されておらず、ときに偽薬すら紛れていることは知っている。もちろん純正品だったとしても、診療も処方もなしに手に入れた薬を素人判断で体に入れることは危険だ。それでも栄の指は目指す商品のページへ向かい、購入者の口コミ投稿を確かめて、いつの間にか購入画面にたどり着いていた。

 ちょっと買ってみるだけ、実際に飲みはしない。自分自身にそんな言い訳をしながら一番容量の少ない薬の、一番少ないパケットをショッピングカートに入れる。尚人に気づかれないよう国際宅配便の職場近くの営業所留めで受け寄れるようにして決済を終えると、ビールの残りを飲み干して寝室へ向かう。

 一週間ほど経って小さなクッション付き封筒に入った薬の箱を手にしてみると、達成感どころかひどく虚しい気持ちになった。たったのビール二本弱で、あの日の自分は存外に酔っていたに違いない。