49. 栄

「谷口、今度の水曜に中森なかもりと飲むんだけど時間あればおまえも来いよ。定時退庁日だし、いまの予算委の感じだったら国会も当たんねえだろ」

 自席にふらりと立ち寄った同期の矢頭やがしらから「中森」という名前を聞いた瞬間、栄はあまり面白くない気分になった。

「国会以外にもいろいろあるんだよ。無理だと思う」

「そっか。中森、去年の秋からシンガポールに赴任してるんだよ。せっかくの一時帰国なんだけどな」

 仕事を理由に断ったものの、簡単にあきらめる気もない矢頭は打ち合わせ用に置いてある丸椅子を引き寄せ栄の机の横に陣取ってしまう。長い付き合いでこの男の飲み会セットへの執念が並々ならないことを知っているから気が重い。

 中森は栄や矢頭の同期の男だが、二年前に産業開発省を退職した。大学時代の先輩からヘッドハンティングされて外資系証券会社に転職し羽振りが良いという噂は聞いている。

 頭の回転が速く社交性にも優れた中森のことは、ライバルのひとりだと思うと同時に尊敬できる同僚として一目おいてもいた。だが、いくら条件が良いとはいえあっさりと役所の仕事を捨てて民間に行った中森に失望した栄は、彼が退職して以来はあえて連絡を取ることをせずにいた。

「でも俺、いま本当に忙しいんだよ。法制局や議員の対応が急に入ることもあるし。悪いけど中森にはよろしく伝えといてくれ」

 中森には会いたくないと正面切って言うのも憚られて、栄はなんとか多忙でこの場を乗り切ろうとする。だが、そこに大井が余計な口を挟む。

「谷口補佐、たまには行って来たらどうっすか。俺や山野木に用事あるときはいつも補佐が譲ってくれるじゃないですか。もしやばいことが起きたら連絡するかもしれませんけど、ちょっとしたことならこっちで片付けますよ」

 大井からすれば普段から部下を優先して残業を引き受けがちな栄への気遣いのつもりなのだろう。久しぶりに帰国する同期と会えるようにという親切が、この時ばかりは大きな迷惑になっていることなど気付くはずもない。

「ほら、係長くんもそう言ってるんだし、決まり。な」

 満足げに矢頭が栄の肩を叩いた。

「え、でも」

「大丈夫ですって、長い国会、たまには息抜きしないと持ちませんよ」

 めいっぱいの善意で大井に畳み掛けられるとどうすることもできない。結局栄は意思に反して水曜日の飲み会には参加することになり、矢頭は満面の笑顔で帰っていった。ひと目があるからため息を吐くこともできず、栄は書類に集中する振りで下を向き肩を落とした。

 中森のことが嫌いなわけでも、恨みがあるわけでもない。終身雇用とか勤務先への忠誠とか、そんな考えが時代遅れだということだって百も承知だ。それでも去っていった同僚に裏切られた気持ちは消せない。

 そういえば尚人の家出未遂の原因もこんな感じだったな、と思い返す。准教授の職を射止めた友人を祝う会に出たくないという尚人に、それはアカデミアの世界に未練があるからだろうと言ってひどく怒らせた。人のことならば何とでも言えるが、中森と会うことを心底憂鬱に感じているいまの自分を思えば、あのとき無神経に投げた言葉が尚人にとってどれだけ酷だったかが理解できる気がした。

 

水曜日、早く上がって良いと言われていたものの何だかんだと理由をつけて職場に居座った挙句、栄は一時間ほど遅れて約束の店に到着した。心の底ではこういう日こそ国会質問が当たったり笠井事務所から急ぎの依頼がきたりすればいいのにと思っていたが、もちろんそんなうまい話はない。

「お、谷口! 久しぶり」

 個室の座敷に上がると、すでに矢頭と中森はビールを終えて日本酒にシフトしていた。それなりに洗練された和食と日本酒の品揃えが自慢の店は、中森のリクエストに合わせて選んだ店だ。

「おお、久しぶりだな」

 おおげさに喜ぶ気にもなれず、かといってつまらなさそうな顔をするわけにもいかない。栄は何とも微妙なテンションで挨拶をして中森の隣に座った。正面から顔を見るよりは隣の方がまだ気が楽なのではないかという無駄な足掻きだ。

 おしぼりを持ってきた店員にグラスビールを頼み、乾杯を終えると矢頭は機嫌良さそうに栄が来る前の話題に戻ろうとした。

「いまさ、中森の仕事のこと聞いてたんだよ。やっぱ民間っていうか外資は違うよな、給料倍で実労働時間は半分くらいだって」

「さすがに半分は言い過ぎだよ。外資でも上にいく奴はハードワーカーだし。ただ、メリハリきいてるし個人の裁量権が大きいから、人の巻き添えで延々残業させられるとか、説明資料作りで徹夜とか、ああいう不毛な作業がないだけで気は楽かなあ」

 休暇中なのでカットソーにジャケットというカジュアルな服装の中森は謙遜するが、実際は矢頭の言葉がそこまでおおげさということもないのだろう。案の定、忙しい仕事の合間を縫ってわざわざ裏切り者の自慢話を聞きに来たようなものだ。栄は面白くないが、話の流れは止まらない。

「いいなあ、そういう話を聞くとマジで転職考えちゃうよな。三十過ぎまでならまだ転職市場でも何とかなるかな」

「でも、外資ってステップアップしてナンボだからずっと同じところにいると無能だと見なされるし、安定性って意味じゃ厳しいぜ」

「安定っていうけど、今の働き方じゃ私生活ボロボロのまま早死にしそうだよ。谷口なんかひどいぞ、去年の国会時期、休日出勤あわせると超勤二百時間超えって言ってなかった?」

 突然、しかもいまの職場の悲惨さの代表例として話を振られて栄は面食らった。

「あ、ああ。まあ……でも今はそれほどでもないし」

 思い出したくもないくらい辛かった昨年の国会時期だが、いざ中森を目の前にすると意地を張りたくなる。強がりを言ってから、それでもやはり後ろめたくて目の前の冷酒に手をつけた。相変わらず胃の調子は悪くて食欲はない。お通しにも手をつけず、ただ酒だけを喉に流し込む。

「何がそれほどだよ。いまも某K議員案件で無茶言われて苦労してるって聞いたぜ。おまえみたいな家柄も良くていい大学出てるイケメンが何の因果でこんな目に合わされるのか。もしかして陰で泥舟脱出を目論んで司法試験の勉強とかしてないか?」

「してないって。希望して入った役所だし、確かに仕事はきついけどやりがいはあるし……。第一この年齢から法曹とか、何の冗談だよ」

 何とか笑おうとするが、本当に笑えているかは自信がない。

 谷口栄はこっそり法曹への転職を目論んでいる――というのは入省直後から定期的に省内で囁かれる噂の定番だった。周囲も上司も栄の祖父や父親のことは知っている。有名な弁護士事務所の長男が好き好んで役人をやっていることが信じられない人間も少なくないのだろう。

「やめろよ矢頭。谷口は俺たちと違って真面目なんだから。それにイケメンと転職は関係ないだろ」

 中森が褒めているのか馬鹿にしているのかわからないフォローを入れると、ずいぶん酒が回ったらしい調子で矢頭が続ける。

「確かに入省したころは夢も理想もあったけど、現実知るとやっぱりな。世のため人のためって思って役人になっても、実際の仕事って正義どころかただの利害調整じゃん。何するにも賛成派と反対派の話聞いて、血反吐吐いて妥協点作ったつもりが結果どっちからも恨まれる……みたいな」

 それから矢頭は半分真剣な口調で、良い転職のコネがあったら紹介してくれるよう中森に絡みはじめた。栄はただうんざりして、時計ばかりを気にしていた。

 店にいたのは二時間程度だったが、実際以上に長く感じた。会計を済ませ店外に出て、やっと解放されると思ったところで中森が少し気まずそうな顔で切り出す。

「あ、久々の日本で、俺行きたいとこあるんだけど」

 どうやら一次会で済ませる気はないらしい。これ以上付き合う気がない栄は仕事を理由に脱出しようとスマートフォンを取り出した。

「どこだよ」

 矢頭が訊くと、中森はささやくように「いや、日本の女の子に飢えててさ」と言った。そういえば中森が風俗店好きだという話は在職時代から有名だった。日本酒をかなり飲んでいるようだったが、よくもここからそういう店に行こうという気になるものだ。栄は呆れるが、矢頭は乗り気のようで身を乗り出してくる。

「俺行く。谷口はどうする?」

「行かない。そういうの苦手って前も言っただろ」

「そういえばおまえ潔癖だったよな」

「それに、谷口みたいなキラキラした男、俺たちと違って金払わなくたって女に不自由はしないだろう。それどころかお金払うから抱いて~とか言われそう」

 返事をするのも馬鹿らしくなるような言葉ばかり吐く酔っ払い二人の姿が視界から消えると、ほっとすると同時に急に疲れが出た。

 やっぱり今日の飲み会には来るべきではなかった。仕事で感じる疲労とはまったく違うタイプの、しかしダメージは栄の奥深くを蝕むようだった。何より嫌なのは、転職の話題で盛り上がる二人に嫌悪を感じながらも心の奥では多少なりとも中森を羨んでいる自分自身だ。

 栄の方が良い大学を出ているし、公務員試験の成績だって上位だった。なのにいまの栄は笠井志郎のような政策知識もなく権力だけ持っている議員や、その威を借りた秘書に小間使いのように使われるだけ。一方の中森は自分の裁量で仕事をして栄の倍近い金額を稼いでいる。どうしたって気持ちは揺れる。

 晴れない気持ちで夜の街を歩く。栄がこんなにも憂鬱な気持ちでいるとは思いもせず、同期二人はいまごろ目当ての風俗店にいるのだろうか。

 栄は夜の店の類が苦手だった。入省直後に数ヶ月間の地方研修に行ったが、地方の夜には他に遊びもないのか大体は飲み会の後に女性のいる店に誘われた。あまり断ると人間関係に差し障るので二回に一回は付いていくようにはしていたが、女性らしい柔らかい体を寄せられることも甘い香りも一切魅力的だと思えない。

 スナックやキャバクラどころか、風俗店に誘われたときには驚いた。世の中の一部にはそういう店に同僚や友人同士で行くというコミュニケーションの方法があることを、栄はそのとき初めて知ったのだ。あからさまな嫌悪が顔に出たのか、誘われたのはその一回だけだった。

 時間はまだ十時過ぎ。まっすぐ帰るか気分転換にどこかでひとり飲みなおすか。そう考えたところでふと財布に忍ばせている薬のことを思い出した。少し前に海外から個人輸入した、いわゆる勃起不全の治療薬。

 安全性の問題など、勢いに任せて購入しものの服用のハードルは高い。セックスがしたいというよりは、自分の男性機能が器質的には正常であることを確かめたいだけだ。薬で勃起するのであれば問題はストレスだけで、仕事の負担が減ればEDも自然治癒するのだと期待することができる。

 だが、そんなものを飲んで大事な恋人との行為を試すことには抵抗があるし、自慰に使うというのも何となく惨めだ。栄は手に入れた薬をどうするか決めかねていた。

 ――もしこれを夜の街で使ったらどうだろう。魔が差すような考えは薬を買ったときと同様、酔っているせいだろうか。だが、少なくとも商売でやっている人間相手ならば、もし薬を使った挙句に失敗しても後腐れはないし精神的なダメージも最低限で抑えられる。

 栄は振り返る。飲み屋街の少し先、角を曲がればそこには隠微なネオンが輝いていることを知っている。

タイトルとURLをコピーしました