51. 未生

 年が明けても、尚人との逢瀬は一週間に一度ほどの頻度で続いていた。未生の若さからすればやや物足りないのが正直なところだが、なぜだか他にも相手を探そうという気にはなれない。

 誘うのはいつも未生だが、尚人の方も以前のような様式美の拒否を見せることはなくなった。電話口で淡々と予定を立て、平日のどこかで尚人の仕事が終わる八時過ぎに待ち合わせる。未生は面倒だとホテルに泊まってしまうこともあるが、尚人は必ず電車のあるうちに帰るから一緒に食事をするような暇もなくホテルに行ってセックスをして、十一時前後には別れるのがルーチンになった。

「なあ、彼氏に勘づかれたりはしないの?」

 今日も事後の余韻もなしにあわただしく身支度をはじめる尚人にそう聞いたのは、少し意地悪をしたくなったからかもしれない。

「忙しい人だから。タクシー帰りも多いし」

「じゃあ、もうちょっとゆっくりしていけばいいじゃんか」

 未生がわざとらしく甘えた声を出しながら裸の肩に触れると、尚人は困ったような表情を浮かべてその手を押しとどめた。

「駄目だよ。タクシーで帰る日もあるっていうだけで、いつもってわけじゃない。部屋を暖めておいてあげたいし、先に帰らなきゃ」

「わかってるって、冗談で言ってみただけ」

 案の定、真に受けて言い訳を紡ぐ。未生はこういうときの尚人を見るのが好きだった。

 いくら未生の腕の中で乱れたって、尚人の恋人への忠誠心は変わらない。未生からすれば一年以上もセックスなしで過ごす生活は想像できず、尚人のご立派な恋人とやらも外で浮気のひとつふたつはしているのではないかと疑いたくなる。だが尚人は一切その手の不安は持っていないようだった。

 そんな尚人の心に小石を投げて、恋人を裏切っている罪悪感や、恋人に抱いてもらえない惨めさを思い出すよう刺激してやるのはちょっとした意地悪。逢瀬の日程も尚人に合わせて、言われたとおりキスマークの一つも残さないようにしているのだから、せめてこのくらいの仕返しをして楽しんだって許されるはずだ。

 今日はベッドに長く引き留めてしまったからシャワーを浴びる暇もない。尚人はタオルで軽く体を拭っただけで、未生に背を向けて床からワイシャツを拾い上げる。袖に腕を通そうとする尚人の薄い背中で肩甲骨が動くのを見て、未生は再び情欲が湧き上がるのを感じた。

「なあ、尚人――もし」

「何?」

 振り返りながらも尚人は身支度の手を止めない。

「もし恋人とのセックスレスが解消したら、二度と俺とは会わない?」

 未生がそう訊くと、一瞬の間があった。

「……うん」

 答えは予想どおりのものだ。体の渇きをいやすために会っているのだから、恋人との関係が復活すれば尚人が未生と会う必要がなくなるのは当然のことだ。

 だが未生の中では経験に乏しい尚人を育ててやっているという気持ちも生まれつつある。拙かった口淫も未生の手ほどきで最近ではだいぶ上達してきたところだ。せっかく自分に都合の良いように育てた相手を飽きる前にさらわれる可能性を思えば面白くない。

 未生の不満げな表情を見てか、尚人は言い訳のように言葉を継ぐ。

「だって……君だって、そういうのは望んでないんだろう」

 確かに、後腐れのない関係を望んだのは未生の側も同じだ。恋人に相手にされない惨めな男相手に歪んだ征服欲を満たすことができればそれで良くて、本気の関係など面倒なだけ。そのことをよく理解しているからこそ尚人との付き合いに心地よさを感じている。でも――。

 でも、に続く心の引っ掛かりが一体何なのかわからないまま未生は笑って尚人を茶化す。

「そりゃそうだよ。ただ、彼氏とのつまんないエッチじゃ物足りなくなるくらい頑張ってるつもりだから、そんなにあっさり言い切られるのもどうかなって思っただけ」

「まったく君は、変なこと言わないの」

 子どもを叱るような口調でそう言って、尚人は苦笑した。

 衣服を整え終わると鏡を覗き込んで髪形を直す。するとついさっきまで未生の下で身も世もなく悶えていた人間とは別人のような、「家庭教師の相良先生」が出来上がった。

「じゃあ僕はお先に。あ、優馬くんは元気?」

「元気って?」

 ドアに手をかけたところで振り返って、尚人は急に優馬の名前を口にした。未生には何を聞かれているのかわからない。ここ数日はアルバイトのシフトが続いていて、優馬とはほとんど会話を交わしていない。

「火曜の授業のとき風邪気味みたいだったから」

 言われてみれば朝見かけたときに咳をしていただろうか。記憶を手繰るが確信は得られなかった。

「普通に学校も行ってるみたいだし、大丈夫なんじゃねえの」

 そう返事をしながら内心では尚人の観察眼と気遣いに感心した。優馬も毎週の授業を楽しんでいるようだし、本人は不本意にやっている仕事だと言っているが、きっと尚人は子ども相手に物を教えることに向いているのだろう。賢くて穏やかで優しい。優馬にとっても、自分より尚人のような兄がいたほうがよっぽど幸せだったに違いない。

 翌日、アルバイトのない未生は早めに家に帰った。

 政治団体のパーティーとやらで父親も真希絵も遅くなると聞いていたし、そのためだろう優馬も友人の家に泊まりにいくことになっている。普段はできるだけ自宅に寄り付かないようにしている未生だが、誰もいない日は話が別だ。大音量で音楽を聴くこともリビングの大画面テレビで好きな映画を観ることも自由にできるのだから、この隙に家に帰らない理由はない。

 だが、未生の束の間の自由は無神経な電話でさえぎられる。固定電話が鳴るのをしばらく無視して、ようやく止んだと思ったら今度は携帯電話が鳴った。羽多野貴明、という名前が画面に表示される。

「もしもし」

「あ、未生くん。悪いけどいますぐ資料を持って赤坂見附のNホテルまで来てもらいたいんだ。先生が白い紙袋に入れたままリビングに置き忘れてきたって言ってる」

 どうせろくな用事ではないだろうと思いながら電話に出ると、父の政策秘書である羽多野は一方的に要件を告げた。

「やだよ。忘れ物ならあんたが取りに来るか、他の誰かをよこせばいいだろ」

 未生はそう即答した。

 羽多野は三十代後半の男で、笠井志郎の政策秘書として笠井家に出入りするようになってから四年近くが経つ。秘書にしては若く長身で清潔感もあるいい男だが、目つきが鋭くて抜け目がなさそうなタイプだ。きっと仕事もできるのだろう。以前の秘書はもっと年かさのベテラン風の男だったが、どうやら父の所属する党の判断で若くて切れのある秘書が当てがわれたらしい。

 羽多野は未生にとっても気の抜けない人間だ。父と未生の不和を知った他の秘書が、自宅にやってきても未生の存在を空気のように扱うのと対照的に、羽多野は顔を見れば未生に話しかけ、それどころかときにはこんな風に雑用すら頼んでくる。

「今日のパーティーは規模も大きいし、スタッフは全員手が離せない。君のことだ、どうせ親のいない日に限って家にいて、だらだらとテレビでも観ているんだろ」

「絶対に行かないからな」

 羽多野の指摘は図星だったが、だからといって父のために働く気などない。未生がもう一度力強く拒絶すると、ふう、と電話越しにため息が聞こえた。

「じゃあ、タクシー代とは別に一万出すから」

「そんなはした金で動くかよ」

「じゃあ、二万。言っとくけどこれは笠井先生の頼みじゃなくて、俺が個人的に未生くんにバイトを頼んでるんだからな」

 金額を吊り上げられ、この仕事は父のためではないというエクスキューズを得た未生は即座に頭の中で電卓を叩く。タクシーでホテルを往復するだけで、居酒屋一週間分のアルバイト代が稼げるというのはそれなりに魅力的な話ではあった。

「……仕方ねえな」

 羽多野はこの手の駆け引きには長けている。どういうキャリアを経て秘書になったのかは知らないが、頭は切れる一方で、真面目一辺倒でなく酸いも甘いも嚙み分けた振る舞い自体は嫌いではない。父の秘書でなければむしろ好感を持っていたタイプかもしれない。

 部屋を見回すと、確かに白い紙袋がソファの脇に置き去りにされている。中には書類らしきものが入っているがハトメと紐でしっかり閉じた封筒の中に入っているので内容まではわからない。書類の一つや二つ、今日でなければ死ぬというわけでもないだろうにと未生は思うが、彼らの世界には彼らの事情があるのだろう。

 父親にもその仕事の関係者にも興味はないので、ホテルに着いたらパーティ会場には入らず羽多野を呼び出し書類を渡すつもりだ。ドレスコードなどお構いなしに、未生は部屋着のパーカーの上にいつものダウンジャケットを羽織って家を出た。

 幸い道路はそう混んでおらず三十分弱でタクシーはホテルに着いた。ロビーで電話を掛けるが羽多野は出ない。舌打ちをしてその場にとどまっているとすぐにコールバックがあった。

「着いた。ロビーにいるから書類取りに来いよ」

「未生くん、悪いけど俺、身動き取れないんだ。ガーデンタワーにある宴会場なんだけど、フロアまで来れば案内札出てるから」

「は? そこまで届けなきゃいけねえの?」

 思わぬ返事に面食らうが、そうする間にも誰かが羽多野に話しかける声が電話に交じる。身動き取れないほど忙しいというのは嘘ではなさそうだ。

「受付のとこにいるから持って来て」

「……割増料金取るからな」

 捨て台詞を吐いて電話を切った。本当ならば役目を放り出して帰りたいところだが、渋々ガーデンタワーへの通路を探す。

 未生が知るホテルといえばせいぜいラブホテルくらいで、この手のシティホテルには馴染みがない。ロビーにいるうちはまだ良かったが、内部に足を進めるにつれて周囲にはかしこまった服装の人が多くなる。ダウンジャケットにデニムの自分が場所から浮いているような気がして、一刻も早く荷物を手放したい未生は足早に羽多野のいる宴会場を探した。

 宴会場のある階でエレベーターを降りると、スーツ姿や着物姿の男女がそこらをうろうろしている。同じフロアにいくつも宴会場があるようだが、案内板から「笠井志郎君を励ます会」というセンスのかけらもないといよりむしろマイナスに振り切っている文字列を見つけて、未生はそちらへ向かった。

 しかし入口の近くまで来ると場違いさのあまり足が止まってしまう。本当にここでいいんだろうか、受付をに羽多野がいなかったら、どうすればいい。戸惑いながら周囲を見回したところで、エレベーターを降りたばかりの若い男がこちらへ向かってくるのが目に入った。

 周囲のほとんどがいかにも政治関係者らしい中年以上の男女の中で彼のたたずまいはやや浮いている。トップがやや長めの爽やかなツーブロックヘア、色合いは地味だが布地も縫製もよく体形に合ったスーツをきれいに着こなしている。少しやつれた感じはするが、いかにもエリート然としたひと目を引く美青年だった。若いだけに少しは話しかけるハードルが低く感じられて、未生は男に近づいた。

「すみません、笠井志郎議員のパーティー会場ってここでいいんですか?」

 突然声をかけられたことに少し驚いたように男は目を丸くして未生の方を見た。それから手に持っていた招待状らしき二つ折りの紙と宴会場の名前を見比べて答える。

「……ええ、招待状には鳳凰の間だと書いているので、多分ここだと」

 戸惑った風なのは、未生のような場違いな人間がパーティーの場所を聞いてきたことを不審に思ったからだろうか。ともかく会場が間違っていないと確信できたのは収穫だ。

「ありがとうございました」

 未生は男に礼を言うと足早に受付へ向かう。ちょうどタイミングよく来賓客への挨拶を終えた羽多野が未生の姿に気付いたようだった。

「未生くん、悪い悪い。どうしても今日これが必要で」

 紙袋を受け取った羽多野は周囲から見えないようにそっと封筒をそっと差し出しながら「色付けといたから」と未生にささやく。ここまで届けさせた追加料金を上乗せしてくれたというのだ。さすができる男は違う、と未生は内心でガッツポーズした。

「せっかくだから何か食べていけば? 家に帰ってもひとりだろ」

 封筒をポケットにねじ込んだ未生に向けて羽多野は立食パーティーに混ざることを提案するが、当然そんな誘いを受けるはずがない。

「いいよ、こんなとこで飯なんか落ち着かないから」

「そうか……あ」

 うなずいた羽多野の視線が不意に未生を飛び越える。つられてそっちに目をやると、ついさっき宴会場の場所を教えてくれた男が立っていた。その男は羽多野の姿に気づくと一瞬だけ嫌なものを見たような表情をして、それから会釈をした。

「谷口くん、受付してから入ってくれ」

 そう声をかけられ嫌々といった様子でこちら近づいてくる。彼は羽多野の知り合いだったのだろうか。そんなことを思いつつ場を立ち去ろうとするが、谷口と呼ばれた男が未生に目を留め不思議そうな顔をしたことに羽多野も気づいたようだった。

「どうした? 二人は知り合い?」

「違います、ただ、さっきそこでパーティの場所を聞かれたので」

 すると合点したように、羽多野は谷口に向かって未生の紹介をはじめた。

「ああ、こちらは笠井議員の息子の未生くんなんだ。忘れ物を届けにきてもらったところで」

「先生の、息子さん……」

 谷口が口の中で小さく繰り返す。だが、この男が父や羽多野とどのような関係だろうが未生には興味などない。そのまま立ち去ろうとするが、羽多野は未生に向かって半ば強引な口調で谷口を紹介した。

「で、未生くん。こちらは先生がお世話になっている産業開発省の谷口さんだよ」

 その言葉に谷口は内ポケットから名刺入れを取り出す。

「谷口と申します」

 未生は父の関係者に挨拶される筋合いはない。谷口の名刺など欲しくもないが、ビジネスマナーの教科書に載せたいような美しい姿勢で差し出された紙片を振り払うほど常識知らずにもなれなかった。

 マナーも何も知らない未生は右手を伸ばし、谷口から名刺を受け取る。

 ――産業開発省 地域産業局 地域開発支援課 課長補佐 谷口栄

目が滑りそうな漢字だらけの肩書きなどどうだっていい。だが、紙片の中央に大きな文字で印刷された名前に未生は目を奪われた。