53. 未生

 帰りは電車を使ってタクシー代を浮かせるという手もあったが、慣れない環境に身を置いたせいかひどく疲れていたので車を拾った。後部座席に座ると、未生はダウンジャケットのポケットに放り込んでいた栄の名刺を取り出して、もう一度食い入るように眺める。

 どうやら自分は尚人の恋人について見くびっていたようだ。未生の貧困な想像力の中では、難しい大学を出て役人になるような人間というのはいくら紳士的なエリートであってもどこか垢抜けず退屈で、せめて男としての外見的な魅力くらいは自分の方が勝るのだろうとたかをくくっていた。極端な話、吊るしのスーツに七三分けメガネ姿を想像していたと言っていい。

 だが実際に目にした谷口栄の姿は、未生の予想とはまったく異なっていた。身長は同じくらい、顔だって未生とタイプは違うが整った美形だ。羽多野も指摘したように激務のせいなのかやや疲れて痩せては見えたものの、元々はスポーツで鍛えていたであろうことは体格からも想像できる。着ているものの質やセンスだって、髪形や振る舞いだって、垢抜けないどころか未生より圧倒的に洗練された大人の男のものだった。

 どうして一年以上も渇いた体を放っておかれてなお尚人は恋人を思い続けるのだろう。話を聞いている限り、尚人が恋人を思う感情の深さに見合うほど大切にされているようにも思えない。なのになぜあんな顔で、あんな声で、恋人について話すことができるのか未生には理解できなくて、だからこそ気になってはいた。

 これまで関係を持った相手の恋人に対してこんな気持ちになったことはない。むしろ、恋人の裏切りに気付かない間抜けな男を内心でせせら笑って、美味しいところだけを掠め取っているのだという優越感すら感じていた。だが、今の自分はどうだ。砂を噛むような気持ちで未生は谷口栄の名刺を見つめる。

 もしいまの未生が栄に勝てる何かがあるとすれば、それはただ尚人に肉体的な――刹那的な快楽を与えることができているという、それだけ。いくら抱いても、新しい淫らな行為を教えても、尚人の心は一切揺るぎない。愛情の向かう先はあの男、栄だけなのだ。

「お客さん、着きましたよ」

 その言葉で、タクシーが自宅前に着いたことに気付く。代金を払って家に入るが、もう呑気に映画鑑賞などという気分にはなれなかった。とりあえずシャワーを浴びて部屋着に着替えて、夕食に出前でも取ろうかとメニュー表を手に取るが食欲は不思議なほど湧いてこなかった。ふと時計に目をやると、時間は九時半過ぎ。尚人はもう仕事を終えているだろうか。

 無性に声が聴きたくなって気づいたら電話をかけていた。羽多野は、栄はあの後職場に戻るのだろうと言っていた。今日もあの男の帰宅が遅いのだとすれば、尚人はいまごろひとりでいるに違いない。

「もしもし?」

 三度のコールの後に返事があった。いまでは聴き慣れた声なのに、ただ電話に出てもらえたというだけのことに妙に安堵した。

「もう家?」

「うん、さっき帰り着いたところ」

 家にいるのに電話に出るということは、栄はまだ帰っていないのだろう。

 昨日までは、自宅にいる尚人と電話で話したところで特に何かを感じることはなかった。だが今はどうだろう。尚人がいま自宅マンションにいて、そこは栄と共に暮らす場所だと思うとやたらと胸が騒ぐ。

 さっき目にした男と尚人が同じ屋根の下で――セックスこそないものの――穏やかな生活を積み重ねているのだという想像は生々しい。

「なあ、いまから会いたいって言ったら来れる?」

 思わず未生はそう口にしていた。

「……無理だよ、何時だと思ってるのさ」

 言葉の真意を測りかねるような短い沈黙の後、尚人は笑いながら答えた。いつも通りの未生の悪ふざけだと判断したのだろう。だが、あしらわれたことで未生はむしろ意地になってしまう。

「どうしてもって言っても? どうせ彼氏、今日も遅いんだろ?」

「そういう問題じゃないって、この間も言ったはずだ」

「たまには外泊くらいしたっていいだろ。相手は一年以上もおまえのこと放っておいてるのに、尚人ばっかりあいつのために部屋温めたり、いろいろ」

 食い下がる未生の様子が普段と違うことに気づいたのか、電話口の尚人の声から笑いが消えた。

「未生くん、どうかしたの? 今日は何だか……」

 その言葉にはっと正気に戻った。栄に出会った動揺から尚人の声を聴きたくなったこと。栄に対する自分の優位を確かめたくなって尚人に無茶を言ってしまったこと。こんな時間から尚人が出て来るわけがないのに。

「なんでもない。ちょっと困らせてやろうと思っただけ。真に受けるなよ」

 体裁の悪さを隠すように未生は口調を軽くした。だが、普段は鈍感で単純な世間知らずに見える尚人ですら、いま日の未生の態度には強い違和感を抱いたようだ。

「いま、家?」

 気まずい沈黙の後で、尚人がそう訊ねてきた。

「……ああ」

 未生はうなずく。

「他には誰もいないの?」

「ああ」

 再び短い肯定を返すと、尚人は小さく息を吐いて言った。

「……今日これからは無理だけど、明日ならなんとか時間作れるかも」

 明日は金曜。それが尚人なりに精一杯の妥協の言葉であることは明らかだった。

 二人の逢瀬は平日の中でも、ほとんどが月、水、木のどこかに限られる。優馬の授業の後に未生と待ち合わせることには抵抗があるから、という尚人のこだわりで火曜日はNG。金曜の晩は、実際に栄が早く帰ってくるかどうかは別として尚人にとってはすでに「恋人と過ごす週末」の一部に組み込まれているため、未生と会うことはしない。

 当初と比べると拒否の態度は和らいだが、尚人はその真面目さゆえか自身の中で決めたルールをきっちり守りたがる傾向がある。今日に限ってそれを曲げようと申し出てくることには、ささやかな嬉しさと、それ以上の戸惑いを感じる。

「普段は金曜は嫌って言ってるじゃん」

「うん、そうなんだけど。でも、なんだか今日は……」

 そこで尚人は言いよどむ。

「なんだか、何だよ。気持ち悪いから全部言えよ」

 歯切れの悪さに苛立った未生が続きを促すと、尚人は声のトーンを下げて、つぶやくように続けた。

「君がちょっと、寂しそうだから」

「そんなこと……」

 反射的に言い返そうとするが、言葉の続きが出てこない。

 再びの沈黙。そして、ためらいながら口を開いたのは尚人だった。

「最近たまに思ってたんだけどさ、未生くん。僕は君と体を重ねれば重ねただけ、寂しくなるような気がする。多分、僕だけじゃなくて君も……」

「何言ってるんだよ、俺は寂しくなんか……。尚人は彼氏と違う奴に抱かれて思うところあるのかもしれないけど」

 突然の尚人の言葉に、未生は激しく動揺した。何かがおかしい。自分と尚人の関係は何か決定的な部分で、当初に思い描いていた軌道を外れはじめている。いや、もうとっくに――。

 未生にとって尚人を抱くのはただ、恋人に相手にしてもらえない哀れな男をからかうだけの遊びであるはずだった。弱った他人を軽く扱うことで少しだけ自分が強い人間なのだと思うことができる、それはこれまでの遊び相手を前にしたときと同じだ。

 だが尚人は、そんな未生の中に何を見ていると言うのだろうか。ふと背中を掠める恐怖。だから未生は無理やりのように目をそらす。

「尚人は頭良いからって変なこと考えすぎるんだよ。まあ暇なのは確かだからさ、何か話してよ。前に電話に付き合ってやったじゃん、あのお返しだと思って」

 これ以上話を核心に持って行きたくはない。でも、電話は切りたくない。尚人の声をもう少し聞いていたいし、尚人の時間をもう少し自分のものにしておきたい。矛盾だらけの気持ちは空虚な言葉に変わる。

「うん、いいよ」

 普段ならば、「嫌だよ」の一言で電話を切ってしまうであろう尚人がやけに優しい。でも、尚人が自分に与えるのはほんの束の間の時間で、例えばいまこの瞬間に栄が帰宅すれば簡単に電話は切られてしまう。

 尚人が愛しているのは谷口栄。あの、凛々しくて洗練されていて、何もかもに恵まれているような男。

「彼氏のこと聞かせてよ。良いとことか、好きなとことか、全部」

 思わずそう口にしていた。

「やだよそんなの、恥ずかしい」

 自分に向けられているのではない甘い声がくすぐったい。

 ――尚人はいままでに寝てきた誰とも違う。

 未生は漠然とそう思った。

 いくら抱いても尚人の気持ちは揺らがない。未生のことなんて、ただ体の渇きを癒す相手以上の何とも見てはいない。尚人の中にあるのはただ、恋人への素朴な信頼と愛情。わかっていたし、そもそも未生こそがそういう関係を、面倒な感情のやり取りを排した関係を望んでいたはずだった。

 でも――。

 尚人が恋人のことを話すのを聞くのが好きだ。栄のことを話す尚人を見ていると、誰かを強く確かに思い続ける気持ちというものを信じたくなる。たとえそれが自分に向けられるものでなくたって。

 もしかしたらそれは、できることならば自分が成り代わって愛されたいという気持ちといくらか似通っているのかもしれない。ただ未生は、自分と他人のあいだに恋や愛が成立するなどと微塵も思ってはいないから、欲しがろうとはしない。

 愛おしそうに栄の話をする尚人のことが好きだ。それはまるでガラスケースの中にある綺麗な宝石。まぶしくて、まぶしくて、でも決して未生の手に触れることはない。

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