54. 尚人

 スマートフォンの終話画面を眺めながら、尚人は不安とも心配ともつかない感情に戸惑っていた。

 今日の未生は明らかに様子がおかしかった。もちろん元々一筋縄ではいかない相手ではある。初対面からいままで、恫喝のようなことを口にしたかと思えば人懐っこく甘えるような態度を見せたりと未生のイメージは一貫しない。くるくると変わる印象に尚人はただ引きずられ翻弄されている。ただ、今日の未生の様子はこれまでに見せたどんな姿とも違っているような気がしていた。

 鈍感な尚人にも、ときたまいま目にしているのが未生の素の姿なのでないかと思うことがあった。例えば家族の話をするとき。とりわけこじれた関係にあるらしき父親の話になると、未生は拗ねたようなふてくされた態度を取る。ああいうときの姿を見ると、もしかしてこういう歳なりの姿が素の未生なのではないかと思った。

 未生は決して口には出さないが、家庭の中で孤立していることを喜んではいない。だから正月の朝も、尚人は栄の帰宅に合わせてマンションに戻らないといけないことをわかっていながら、少しだけためらった。しっかり戸締りをするように言ったら子ども扱いされたことに対して未生は不満そうな表情を見せたが、あのときの彼が尚人の目にはひとりで寂しく留守番をしている子どものように見えたのは事実だ。

 セックスの欲望を満たすため利害の一致だけで結ばれた、愛情とは関係ない関係。でもいくら寝たって満たされた気がするのはほんの一瞬。体はすぐにまた渇き、欲望はどんどん深くなる。

 虚しさと渇望。それを感じているのが自分だけでないということに根拠はない。未生の言うとおり、ただの考えすぎなのかもしれない。それでもさっきの電話口での未生の声を思い出すと尚人はそわそわと落ち着かない。

「ただいま」

 声をかけられてはじめて、そこに栄が立っていることに気づいた。ぼんやりと考えごとをしているうちに時間が経っていたようだ。

「あ、おかえり」

「何、電話?」

 未生との電話を終えた後、尚人は手の中のスマートフォンを握ったままでいたらしい。すでに画面は暗くなっているものの気まずさで尚人は手にしたそれを部屋着のパーカーのポケットにあわてて突っ込んだ。

「うん、冨樫さんと仕事の打ち合わせがあって……。それ何?」

 栄は尚人の動揺など気にも留めずに、手に持っている紙袋を尚人へ差し出してくる。意味がわからないまま受け取り中を覗くと、パックに入った漬物が入っていた。

「地元の名産品だってさ、仕事の付き合いで出た議員のパーティでもらった。ったく、貴重な時間浪費させやがって」

 栄はうんざりした顔をした。青唐辛子入りの野沢菜漬けは尚人の目には美味そうに見えるが、栄は田舎風の漬物を好まない。この漬物を受け取るに至った場が気に食わなかったこともあり機嫌が悪いのだろう。

「パーティ……そういう仕事もあるんだね」

 どう反応しても栄の感情を損ねてしまいそうな気がしたので、無難な答えを返す。

「いろいろうるさいこと言ってきてる議員が、地元の支援者と顔合わせさせたいとかで無理やり呼びつけてきてさ。本当いい迷惑だよ。全員がそうとは言わないけど、変な議員とばっか会ってると偏見持ちたくなるよ」

 栄はコートを脱ぎながら文句を続ける。不機嫌が極まると口すらきかなくなることを知っているから、これだけすらすらと愚痴をこぼせるだけいまの栄はまだ調子が良いように思えた

「ビール出そうか? シャワー浴びてくる?」

「あー、先に風呂行く。でもさ、やっぱ変なことばっか言ってくる議員って私生活もろくでもないんだよな。高卒の田舎社長が間違って成り上がって来たような奴で、今日のパーティでその議員の息子って奴に会ったんだけど、ダウンにデニムだったのには驚いたよ」

 コートに続いて上着を脱ぎネクタイを緩めながら、栄の毒舌は議員本人からその息子にまで飛び火する。

「まあ、若い子ならそういうこともあるんじゃない?」

 尚人自身パーティといえば学会の打ち上げや教授の退官祝いのようなものしか知らないから、国会議員のパーティというのがどういった雰囲気の中で行われ、どの程度のドレスコードが要求されているものなのかもわからない。議員の息子というのがどのくらいの年齢なのかも不明である以上何とも言い難いが、大学にいるあいだはほとんどスーツを着たこともなかった自分を振り返れば、服装が場違いだからというだけでここまで言われる息子とやらに少し同情した。

 だが栄は、尚人がドレスコードを無視した若者の肩を持ったのが面白くないらしい。眉間に皺を寄せて、ますます議員と息子への非難を強めた。

「服装だけじゃない。態度も悪いし通ってる大学は名前も聞いたことないようなとこらしいし……まあ親父が親父だから、血は争えないんだろうな」

「うん……」

 これ以上口を挟むと、栄の不機嫌のゲージは上がり続けるだけだ。尚人は話を早く終わらせたくて、ただうなずいた。

 栄のこういうところには、正直尚人はついていけない。有能かつ努力を積み重ねた結果いまの立ち位置にいる栄は、他の人間に対する要求が高い。誰だって努力すれば栄と同等とまではいかずともある程度の成功が得られると信じて疑わず、学歴や経歴で安易に人を判断する。それは尊敬と愛情の対象である恋人の中で数少ない、尚人にとって受け入れがたい部分だった。

 だが――それは尚人の心が清廉で公正であるからではない。それどころか以前の尚人は、そのような栄の短絡的な物の見方に戸惑いながらも「そういうものなのか」と肯定的に捉えようと努めていた。尚人の受け止めが変わったのは他でもない、自分自身がアカデミアの世界から落伍することで初めて栄の失望を受ける側の立場になったから。だから尚人には、面と向かって栄の考えの偏りを指摘することができない。

 バスルームへと消えた栄のコートを取り上げ、丁寧にブラシをかけてからコートラックにかける。窮屈な気持ちのまま、ふと未生に会いたいと思った。寂しそうな様子が気になっているから、もちろんそれは理由の一つ。でも多分、それだけではない。

 栄のことは尊敬しているし愛している。

 ただ、ときどき息苦しくなる。

 栄は本当は尚人のことをどう思っているのだろう。キャリアトラックを外れた、栄の理想に適わない自分だから、栄の欲望の対象から外れてしまったのではないか。このままではいつか栄に見放されてしまうのかもしれない。不安を抱けば抱くほど、こんな卑屈な自分を知れば栄はますます尚人に失望するだろうと、さらに新しい不安が頭をもたげる。完全なる悪循環だ。

 未生は厄介な人間だ。彼を甘く見て気を抜けば、きっと手酷いしっぺ返しを受ける。強引な態度で人を脅し、可哀想な人間に欲情すると公言し、恋人のいる人間と平然と口説いて寝る。最近では当初のような強引な態度はなくなったが、それは尚人が未生の求める関係をなし崩しに受け入れているからにすぎない。もしも彼の意に沿わない態度を取れば、彼は再び豹変するだろう。

 でも――以前のように未生を憎らしく思えないのはなぜだろう。

 彼が何らかの事情を抱え家族の中で特殊な立ち位置にいるであろうことに気づいたから。それでも弟の優馬にだけは優しい兄であることにほだされたから。週に一度ほどのセックスで与えられる肉体的な快楽があまりにも鮮烈だから。それだけではなく、尚人が未生と過ごす時間に気楽さを感じているのは確かな事実だった。

 最高の学歴とキャリアパスを歩む恋人に釣り合う自分でいなければいけないという気負い。アカデミアの世界から落伍したことへのコンプレックス。未生はそれらとはまったく関係ない場所にいる。尚人の経歴を「よくわからないけどすごいのだろう」程度に捉えそれ以上の関心は示さない。優馬が気に入っているのだから良い家庭教師なのだろうと適当な根拠で評価してくれる一方で、何かと尚人の人間性を小馬鹿にするようなことを口にする。

 鈍い、騙されやすい、世間知らず。その割に口が悪い。顔を合わせる度に投げかけられる言葉の大部分は文字にすればただの暴言でしかない。でも――そうやって正面切って欠点を並べ立てながら、しかしそれを特段改善すべきものと考えているわけでもなさそうに、未生はただ面白がって笑っている。未生といるときは、有能で大人らしく物分かりの良い自分を装わなくてもいい。それだけで尚人の心も体も軽くなる。

 明日の約束をした。一緒に居られるのはたったの二時間程度なのに、それをいまから待ち遠しく思っている尚人がいる。だが、それと同時にこの気持ちがどれほど危険なものかもわかっている。

 例えば、もしも、もしも尚人が未生に惹かれたとして――その先にあるのは破滅だけだ。