「何これ、くれるの? 悪いな」
受け取った紙袋の中身を確かめて、冨樫は嬉しそうな顔をした。
「頂き物なんですけど、うちじゃ持てあましちゃうんで。食べてもらえたら助かります」
栄がパーティでもらって来た野沢菜漬けを、尚人は事務所へ持って行き冨樫に渡すことにした。食卓に出したところでどうせ栄は箸をつけないだろうし、尚人だけで消費するには一袋の量が多すぎる。
冨樫は尚人が大学時代の友人と同居していることは知っているが、栄との関係にまでは気づいていないようだ。金持ちの友人の家に貧しい院生が居候させてもらって、卒業後も何となくそのままでいる程度の認識でいるのだろう。事実と比べてもあながち間違ってはいない。
「あ、それ青唐辛子入ってるみたいだからお子さんには食べさせない方がいいかもしれません」
そう付け加えたのは、冨樫の息子がここのところ漬物や佃煮といった渋い副菜で白米を食べることに夢中だと聞いたことを思い出したからだ。尚人と三つしか違わない冨樫だが結婚は早く、息子ももう五歳になる。出産祝いを送ったのもつい最近のことのような気がするのに、他人の子の成長の早さには驚かされる。
そろそろ年齢的にも、同性の友人同士のルームシェアという言い訳は使いにくくなってくる。栄はおそらく職場にはひとり暮らしで通しているだろう。家族の所有する物件ということで家賃手当ては辞退しているから問題はないのだと言っていた。馬鹿正直な尚人はそういう方法があることに気づかずありのままを申請してしまったから、いまさら撤回は難しい。
「了解、先に味見するわ。っていうか息子に食わせるまでもなく、俺と嫁の晩酌のツマミで消えるかもしれないけどな」
冨樫の明るい言葉に尚人は考えごとから引き戻された。
「はは、冨樫さん酒癖良くないんだから、ほどほどにしてくださいよ」
学生時代に数人で飲みに行った帰り、酔っ払って花屋の店先にあった観葉植物の大きな鉢を抱えて離さなかった冨樫のことを思い出す。花屋の店主が万引きだと騒ぐので尚人が代金の三千円を払ってことなきを得たが、酔いが冷めた冨樫は鉢のことなど知らないと言い張った。その鉢植えはいまも尚人が栄と暮らすマンションに置いてある。
「なんだよ、相良おまえ、まさかまだ鉢植えのこと根に持ってるのか?」
「そういうわけじゃないですよ。僕の中では学生時代の楽しい思い出のひとつですから……あ、すみません電話」
ポケットの中で震え出したスマートフォンを手に尚人は立ち上がる。画面には未生の名前が表示されていた。オフィスの外に出て、誰に見咎められるわけでもないのに声を潜めた。
「もしもし、未生くん?」
尚人の今日の最後の授業は夜八時に終わる。その後、いつも使うホテルの近くで待ち合わせる約束になっていた。もしかして急に都合が悪くなったのだろうかと不安を覚える。
「あのさ、悪いけど今日の待ち合わせ場所変更できない?」
尚人の予想は半分当たって、半分外れていた。少なくとも予定がキャンセルにならなかったことに安堵しながら訊き返す。
「いいけど、どこに?」
「急に早い時間の人が足りなくなったからって、バイトに入るよう頼まれたんだよ。八時半には抜けられるはずだけど、どうせ尚人は終電で帰るんだろ? 時間がもったいないから店まで来てよ」
「え、バイト先……?」
「そう、大学近くの居酒屋。いまから住所言うから」
そのまま強引に話を進めようとする未生をあわてて止める。
「待って──未生くん、そういう場所に行くのは」
年齢差といい見た目といい一緒にいることが自然には見えない二人だ。待ち合わせるたびに、外を並んで歩く時間などわずかであるにも関わらず尚人は人目を気にしてしまう。人に言えない関係であることを思えば未生のアルバイト先にまで出向くのは明らかにやりすぎだ。
だが未生は尚人の狼狽を気にする様子もない。
「大丈夫だって、尚人の家とも彼氏の職場とも離れてるし。店まで来るのが嫌なら近くで暇つぶしててくれればいいから」
能天気な言葉に、尚人はそれでも不安だった。だが、今日は未生に会うつもりで家を出て来た。珍しく栄にも、冨樫と飲みに行くので遅くなるかもしれないと伝えてある。ここまで来て予定をキャンセルするのも残念に思えた。
逡巡して、結局は欲望に負ける。大丈夫だ、もしも誰かに見られても何とでも言い訳はできる。家庭教師先の生徒の兄と親しくなって一度食事に行く約束をしたからと言って、誰も奇妙には思わないはずだ。
「……ちょっと待って、メモ取るから」
尚人は事務所に戻ってペンとメモ帳を手にすると、未生の告げる店名と住所を書き取った。
「すみません、話の途中で」
本当に自分の判断が正しかったのか自信のないまま、打ち合わせを中座したことを謝罪しながら冨樫の部屋に戻る。
「別に雑談だったし構わないよ。それに相良、最近なんか雰囲気が明るくなったんじゃないか」
「そうですか? 自分じゃ特に」
突然の予想外の指摘に尚人は戸惑った。以前の自分が暗かったとも、いまの自分が明るいとも思わない。相変わらず仕事のこと、栄との関係含めて悩みは多い。何か変わったことがあるとすれば、それは未生と会うようになったこと。
「自分で気づいてないなら、なおさらいいよ。わざとそう振る舞ってるってわけじゃないってことだから」
冨樫は尚人を褒めたつもりなのだろうが、気持ちは複雑だ。そんな風に思われる理由がもしも未生との関係にあるのなら、自分はどんどん間違った方向にのめり込んでいっているということだ。栄のことは大切で愛しているつもりなのに、それだけでは物足りなくなっていく。
笑顔で適当な相槌を打ちながら尚人は、奈落がじわじわと足元に迫っているのを感じていた。
*
未生のアルバイト先は、飲屋街の片隅にある個人経営らしき居酒屋だった。最寄駅で降りてマップアプリの示すままに歩き、場所自体はすぐにわかったが入り口の扉には磨りガラスが嵌め込まれているので中の様子はわからない。
中に入るつもりはなかったが、本当にここで良いのかと入口をうろうろしているところでちょうど背後から仕事を終えたサラリーマンらしくグループがやって来た。
「どうぞ、お先に」
彼らは尚人が店に入ろうとしていると思ったのか、声をかけてくる。
「いや、僕はそう言うわけじゃ……」
あわてて進路を譲るため横に飛びのいたつもりだが、勢い自動扉が開いてちょうど入り口あたりにいたバンダナ姿の男と目が合った。
「いらっしゃいませ!」
威勢の良い声にうろたえる。中に入るつもりはなかった。でも、この状態で引き返すのはあまりに不審者じみているだろうか。いつも通りの優柔不断で視線を泳がせたところで、カウンターの内側に立っていた未生が顔を上げた。
「あ……尚人!」
「何だ、笠井くんのお友達? ほら、寒いでしょう入って入って」
「いや、ですから僕はその」
あっさり未生の知り合いだと認定されて、店内に引きずり込まれる。一見あまり広くなさそうな店内だが、端の方に階段と下駄箱があるということは二階にも座席があるのだろう。
「店長、俺今日その人と飲みに行く約束なんで、これ終わったら帰りますから。尚人はそこへん座って待ってて」
「わかったって、すみませんねシフト足りなくて急に笠井くんにお願いしちゃって」
店長と呼ばれた男はなぜか尚人にまで謝る。ひどく居心地が悪い気持ちで尚人は曖昧な愛想笑いを浮かべた。
金曜夜なので店内はほぼ満席で、かろうじて空いていたカウンターの端に腰掛ける。飲み屋にひとりで来ることなどないので、どう振る舞うべきかわからない。店長はすぐに忙しそうに厨房へ消え、手持ち無沙汰の尚人はバンダナで髪をまとめエプロンを着けた未生の姿を目で追った。
尚人といるときの厭世的で気だるげな態度とは裏腹に、未生はてきぱきと店の中を動き、常連と思しき客の一団とは愛想良く会話を交わす。こんな姿もあるのだと驚いていると、店員らしき女性が尚人の隣に立った。学生アルバイトというにはやや年かさだ。
「何か飲まれますか?」
言われてみれば、いくら未生を待っているだけとはいえ居酒屋に入って椅子を借りているだけというのもあんまりだ。
「えっと、じゃあ……烏龍茶をいただけますか」
感じ良く笑った彼女はすぐに烏龍茶の入ったグラスを持ってきた。
「烏龍茶どうぞ。いま入れ替わりのスタッフも来たんで、笠井くんもじき上がれると思いますよ」
「ありがとう。……彼はここのアルバイトは長いんですか?」
「大学入ってからだから、確か二年目ですね。学生バイトは入れ替わりが激しいから、それでも古株なんですよ。店長──夫なんですけど、彼も笠井くんにはずいぶん助けられています、それに……」
彼女は尚人にそっと「笠井くん目当てのお客さんもいるんですよ」と耳打ちした。言われてみれば、未生に親しげに話しかけている客の多くは若い女性であるようだ。尚人はますます自分がここにいることが場違いな気がして身を小さくした。