56. 尚人

 賑わう店内の様子から簡単には抜け出せないのではないかと思っていたが、そう時間を置かずに未生はきっぱりと離脱宣言をした。

「じゃあ店長、俺上がりまーす。尚人ごめん遅くなって、あと十分で出るから」

 そう言って手を振られた瞬間に店内の視線が自分の方に集まったような気がして、尚人は気まずく恥ずかしい気分になった。どうしてわざわざ目立つようなことをするのか未生の気が知れないが、きっとそれを言えばただの自意識過剰だと笑い飛ばされるだろう。

 ともかく居心地の悪い店内から先に出て外で待とうと立ち上がり、烏龍茶の代金を払うための伝票を探すがどこにも見当たらない。

「すみません、お会計をお願いできますか? 伝票が見当たらなくて」

 レジに立っていたさっきの女性に声をかけると、「笠井くんの奢りだそうですよ」と笑顔で返された。未生なりにこんなところまで尚人を呼びつけたことを悪いとは思っているのかもしれない。たかが数百円とはいえ年下──しかも学生の未生に社会人の自分が奢られているのは体裁が悪い気もしたが、小さく頭を下げてそのまま店外に出た。

 店内の熱気が嘘のように冬の外気は冷たい。その寒さにむしろほっとした尚人は店に出入りする人の邪魔にならないよう歩道の反対側へ進み、ガードレールに寄り掛かった。

 腕時計を見ると九時前。終電に間に合わせようと思えばかなり慌ただしい逢瀬になるだろう。遅くなりそうだということは栄に伝えているから、最悪電車を逃したってタクシーで帰ればいいだろうか。さすがにそれはまずいだろうか。最初は未生と二人になるだけでも後ろめたかったのに、慣れとは怖いもので尚人にとっての危険行為の基準は徐々に曖昧になりつつある。

 冷たい風が吹き、コートに包まれた身を震わせたところで若い男が店内から出てきた。さっき尚人が座っていた周囲では見かけなかった気がするから、座敷か二階にいた客だろう。長めの髪はほんのわずかにカラーリングされていて、いかにもいまどきの学生といった雰囲気だ。チェスターコートからは黒いスキニーデニムがまっすぐに伸びている。

 酒に酔っているのだろう、顔をいくらか赤くした彼はきょろきょろと周囲を見回し、尚人の姿を見つけるとまっすぐ近づいてきた。

「あなた、笠井といま付き合ってるんですよね」

 例えるならば「タバコの火、持ってますか」と聞くような軽い調子で彼は話しかけてきた。

「え?」

 見知らぬ若者から予想外の内容をぶつけられた尚人は硬直する。違います、ときっぱり答えても不自然かもしれない。何の話ですか? と聞き返してかわすべきだろうか。頭の中には多くの出まかせや言い訳が飛び交うが、上手く言葉が出てこない。

 動揺した顔で言葉を失って、これではまるで彼の言葉を認めているみたいだと気づいたときにはすでにときは遅かった。目の前の青年は人懐っこい丸顔でにこりと笑った。

「邪魔しようとか誰かに言おうとかそういうわけじゃないんで安心してください。実は俺もちょっと前まであいつと付き合ってたんですよね。いや、本命の彼氏は他にいたんで、付き合うっていうのも変な言い方ですけど」

 そう聞いて、正直尚人は驚いた。

 未生の普段の言動や振る舞いからして相手を切らすことはないだろうと思っていた。だが、尚人は前に若い女性と未生との修羅場を目撃していた。映子と呼ばれたあの女性が前の相手だとばかり思っていたのに、目の前の彼も最近まで未生と関係を持っていたというのだ。もちろん彼の言う「ちょっと前」がどの程度前の話なのかはわからないが、素直に受け止めれば未生は尚人の想像以上に奔放な性生活を送っていたということになる。

「えっと、その話と僕と何の関係が」

 精一杯の強がりで絞り出した言葉には、自分自身でも笑いたくなるほどの白々しさが漂っていた。

「あいつが男女関係なく手当たり次第なのは知ってたけど、今回はちょっと毛色が違うなと思って興味が湧いただけです。だってほら、あいつって真面目そうな人って苦手っぽいじゃないですか」

 彼の表情に棘はないものの、こうはっきりとおまえは未生の好みとかけ離れていると断言されると、攻撃されているようで複雑な気持ちになってしまう。

 動揺するのは図星だからだ。言われてみれば、この青年も映子もいまどきの洗練された若者の雰囲気をまとっていて、栄の見立てのおかげでそれなりの品質のものを身につけてはいるもののお洒落とはほど遠い尚人とはまったく別の人種と言っていいほどだ。未生との関係を看破された上に無神経な言葉を投げつけられ、尚人は無駄な言い逃れをする気力すら失った。

「……君は、未生くんとはどのくらい付き合っていたの?」

 あきらめ、というよりはむしろ好奇心が勝ったかもしれない。尚人が小さな声で訊ねると、男はあっさり「半年くらいっすよ」と答えた。

「彼氏と上手くいってない時期に口説かれて、最初は当てつけのつもりだったんですよ。でも、しばらく経って彼氏に浮気疑われたんでその話をしたら面倒くさいから終わらせようってあっさりと。まあ、こっちもちょっと下心あったからかなって気もするんですけど」

「下心?」

「あわよくば彼氏と別れて笠井を本命にしてもいいかなって下心。そういうのあいつ敏感だから、面倒なことになりそうだと思われたんじゃないですか……」

 そこで話が打ち切られたのは、着替えを終えて出てきた未生が二人の姿を見つけたからだ。

「……樹!? おまえ何やってんだよ。店にいたのか?」

 大声に振り向くと、未生の表情にはすでに怒りが浮かんでいた。樹と呼ばれた若者は気まずそうに舌打ちして言い訳をする。

「別に笠井に会いに来たわけじゃないって。飲み会が偶然ここの店だったんだよ。で、偶然この人見かけたから笠井の知り合いかなって思って」

「まさか、尚人に余計なこと吹き込んだんじゃないだろうな」

 大股で近づいてくると未生は尚人と樹の間に割り込むように立った。こういうところは意外にも単純というかわかりやすいというか、樹との間にやましい過去があったと自ら告白しているようなものだ。

 尚人だったら図星でうろたえるところだが、樹は意外と図太い。明らかに腹を立てて詰め寄る未生に対して不満げに言い返す。

「濡れ衣やめろよ。ちょっと世間話してただけだって。そもそも俺、いまゴーちゃんとラブラブなんだから笠井にちょっかい出す暇なんかないし」

「ったく、信用ならねえよ。飲み会に来ただけだっつうなら、さっさと店に戻れ」

 強い口調に肩をすくめ、樹は渋々店内へ戻っていく。そうするともちろん、気まずいのは残された尚人だ。

「あいつと何話してたんだ」

「……世間話」

「嘘つけ。あいつ口が軽いんだよ、絶対ろくでもないこと吹き込んだに決まってる」

 樹にぶつけ損ねた怒りが沸々と湧き上がっている未生は、尚人にまで攻撃的な態度を取る。これ以上刺激するのも良策とはいえない気がして、尚人は多少話をぼかしながらも大枠としては樹と話した内容をそのまま告白することにした。

「彼が、前に君と付き合ってたって……でも本命の恋人に疑われるようになって、別れた話を聞いた。それだけだってば」

「ふうん」

 それでもまだ未生は疑わしい顔をしている。

 尚人の心の中では、まだ樹の声が反響していた。真面目な人間は苦手、面倒なことになりそうだとあっさり終わらせる。もちろんそれらはすべて関係をはじめる前に未生から直接聞かされていたことで、あのときは尚人も一切気にしていなかった。だって、未生に対して心が揺れるだなんて想像だにしていなかったから。

 樹の声だけでない。思い出すのは映子の泣きそうな顔。彼女もまた、浮気相手だったはずの未生に本気になって恋人と別れて来たと言っていた。そしてその結果、はたから見ても残酷としか思えないほどの言葉を投げつけられて終わった。あのときの尚人はただ映子が哀れで、未生のことをひどい奴だと思った。でも、いまではとてもではないが、かつてのような客観的な立場ではいられない。

 だってあれは、あのときの映子は──ひとつ間違えれば将来の尚人の姿だ。

「あーあ、何か最初からケチついて面白くないけど、まあいいや。時間ないんだからさっさと行こうぜ」

 まだ不満そうではあるが、未生はひとまず話を終えることにしたらしい。タクシーを探して歩き出す後を追いながら、尚人は唇を噛んだ。

 心が揺れていることには、決して気付かれてはいけない。気付かれればその瞬間に未生と自分の関係は終わってしまう。栄のことを大事に思う気持ちに嘘はないけれど、いまはまだ未生と過ごす時間を失いたくはない。狡くても、間違っていても、それが尚人の偽らざる気持ちだった。

 だから尚人はわざとらしく笑う。

「そうだよ、終電までには帰らないといけないんだからさ。今週末は彼も土日両方休めるみたいだから、明日は早めに起きてどこかへ一緒に出かけようと思って」

「何だよ、これから俺と寝るっていうのに惚気かよ」

 あきれた顔の未生。でもこんなのはただのポーズで、本当は未生にとって栄の存在が安心材料であることを尚人は知っている。

 栄という恋人がいるからこそ、尚人は未生にとって面倒でなく安全な相手として──そして、愛してやまない恋人にセックスすらしてもらえない哀れな人間として──価値を持っている。つまり、尚人が未生に見捨てられたくないのならば自分の価値を守り続ける必要がある。たとえそのために嘘や偽りを重ねる必要があるのだとしても。

「だって、君との関係はそういうのとは違うじゃない。利害の一致、だろ?」

 心にもない言葉を吐くと胸の奥が軋む。

「うん……そうだな」

 そう言った未生の声はひどく冷たく聞こえた。でも次の瞬間にはいつもの軽い調子に戻っていたので、きっとそれも尚人の聞き間違いだったのだと思う。

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