57. 栄

 栄が帰宅したとき、リビングの扉からは明かりが漏れていた。比較的仕事を早く切り上げたからまだ日付は変わっていない。尚人が起きているのも不自然ではないので何も考えずに廊下を進みながら、尚人の声に気づいた。

「……うん、その日なら大丈夫だと思う」

 誰かと電話をしているようだ。いまリビングに入れば邪魔になるだろうかと思い、栄は思わず立ち止まる。結果的にその判断は正しかったとも言えるし、間違っていたとも言える。

「授業が終わるのは八時で祐天寺からだから……そんなにはかからないよ。うん。じゃあ、いつものカフェで」

 立ち聞きするつもりはなかったが、結果的にはそういうことになった。会話の内容に違和感を抱いたのは決して栄の考えすぎというわけではなかったと思う。

 ──授業の後? いつものカフェ?

 尚人は一体誰と、何の話をしているのだろう。

「うん、じゃあね」

 電話が終わりそうになる気配を察して、思わず栄は気配を消した。そのまま足を忍ばせ玄関まで戻ると、大げさな声でいまちょうど帰ってきた風を装う。

「ただいま」

 電話の内容を聞いていたことを悟られないようわざとゆっくりと廊下を歩き、扉を開けると尚人はソファに座って本を読んでいた。

 センターテーブルの上にはスマートフォン。いまのいままで誰かと通話していたようには見えない澄ました姿を見る限り、さっき聴いたやり取りは何かの間違いだったのではないかと思いたくなるほどだ。しかしテレビもついていない部屋から響いてくるのが尚人以外の声であるはずがない。

「おかえり、栄」

 いつもどおりの笑顔で出迎える尚人に、初めて栄は疑念を抱いた。瞬間的にはただの不安。少し遅れて自分が尚人の不貞を疑っているのだということを自覚した。

 疑いと同時にそれを打ち消す気持ちが強く湧き上がる。だって、尚人のことは良く知っている。出会ってからはほぼ十年、恋人同士になってからは八年も経つのだ。

 尚人のことを考える。あまり付き合いが良い方ではなくて、東京での友人関係は大学時代の研究仲間に限られているが、いまでは院をやめた引け目から彼らともあえて距離を置いている。それ以外に尚人が親しくしているのは、あえて言うならば勤務先の家庭教師事務所代表である冨樫だが、先輩かつ雇用主である冨樫に向かってあんなにくだけた話し方はしないはずだ。

 では、尚人は誰と話していたのだろうか。

 疑問を解く方法は簡単だ。直接訊ねればいい。誰と電話していたんだ? 飲みに行く約束でもしたのか? 軽い調子で聞けば、きっと尚人ならば答えてくれる。もしかしたら栄の知らないうちに大学時代の友人との交流を再開しているのかもしれない。だが、どうしても言葉が喉から出てこない。

 最初に聞いていないふりをしてしまったからというのも理由だし、問い正した場合に尚人がどんな反応をするかが読めないこともまた栄の口を重くした。不用意に疑いを口にすれば、今度こそ本当に愛想を尽かして出ていかれてしまう可能性すらある。

 その晩も、翌日の朝も尚人の態度自体には特段の異変はない。だからこそ一層疑心暗鬼になり、栄の中で不安と不審は自己嫌悪とともに堆積していった。だから──残業中の部下相手に、普段なら決して口にしないようなことをこぼしてしまったのかもしれない。

「もー、本当寝不足ですよ。こっちは毎日仕事で忙しいのに、泣きながら一方的に喋ること三時間。勘弁してほしいけど、あんまりにへこんでるから電話切るわけにもいかず」

 国会待機中の夜九時すぎ、ぶつぶつと大井に愚痴をこぼしているのは山野木だ。恋人の浮気が発覚したとやらで涙ながらの電話をかけてきた友人に付き合い昨晩は二時間しか睡眠がとれなかったのだという恨み節に、大井は適当に相槌を打っている。

「浮気ねえ。まあ、そういうのって気付かない方が幸せってこともあるよな」

 その言葉に、まだまだ恋に夢見る二十二歳の山野木がぎょっとしたように目を剥く。普段なら彼らの雑談など右から左に流す栄も「浮気」という単語についつい耳をそばだてた。

「えっ、ばれなきゃ何やってもいいなんて、大井係長クズじゃないですか? うわ、それ彼女さんが聞いたらどんな顔するかな」

 山野木のあからさまな非難に、大井はあわてたように否定の言葉を口にする。

「馬鹿、一般論だろ。俺の話じゃねえよ。第一、毎日十五時間以上も職場に軟禁されて、浮気する暇なんかどこにもないだろうが」

「いや、どーだかわかりませんよ」

 軽妙な二人のやり取りを聞いているうちに、栄の心にふとした疑問が浮かぶ。

「……浮気って、どういうとこからばれるのかな」

 自覚ないままに口に出していた。その言葉は部下二人の耳に届き、二人は幽霊を見たような顔で栄の方を見る。

「……谷口補佐?」

 そうつぶやいたのは大井。続いて山野木が耳を塞ぐジェスチャーとともに大げさな声を上げた。

「うわ、やめてください。補佐、そんな話聞いて手口考えようとしてるなら本当に絶対にやめてください。わたしたちの谷口補佐へのイメージが」

 若手の女性職員の中で「フリーの適齢期大物」リストの一丁目一番地にラインナップされているのが自分であることを栄も自覚している。ときにはあからさまなアプローチをかけられることもあるが、もちろん異性に関心のない栄としては出来るだけ波風立てないように断るだけだ。そんな態度がなおさらに「イケメン紳士なのに意外と奥手な谷口補佐」として女性陣の評価を上げてしまうのだが、正直迷惑この上ない。

「あ、そういうんじゃなくて。ごめん下世話なこと聞いちゃって。ただの興味本位」

 多少悪印象が付いて女性陣が引いてくれるのならばそれはそれで有難い話ではあるが、女癖の悪い浮気者という噂が立って人事に目をつけられるのも困る。栄があわてて否定すると山野木もほっとしたように笑顔を見せた。

「ですよねえ。女子の夢と癒しを背負う谷口補佐だけはそういうの縁ないと信じてますから」

「山野木、おまえ女子中学生かよ。補佐だって男なんだからさ、たまには下心のひとつふたつ」

 夢見がちな女子の言動にすかさず大井がツッコミを入れるが、山野木はそれこそ害虫でも見つけたかのような冷たい視線を返すだけだ。

「ちょっと、補佐を係長と一緒にするなんて失礼じゃないですか! ……というのはともかく、普通はLINEとか通話の履歴からじゃないですかね。わたしの友人、浮気の証拠抑えるのに携帯のパスコードを0000から順に総当たりで試したって言ってましたよ」

「マジかよ、その執念が怖いわ。でも総務課の内村も、彼女からGPS入れられてるからって飲みに行くとき職場の机にスマホ置いて行ってるからなあ。本当、浮気ってする方も疑う方も果てしない戦いっていうか」

「やめてくださいよ。内村さんのイメージも壊れるじゃないですか」

 すでに自らの手を離れたやり取りをぼんやりと聞きながら、栄は改めて最近の尚人の振る舞いを思い出そうとしていた。

 変わったところは──ある。ときたま仕事や冨樫からの飲みの誘いを理由に帰宅が遅い日がある。しかも、時期を思い起こせばちょうどあの家出未遂があったくらいの時期からだ。それでも外泊とまではいかず、せいぜい日付が変わるくらいには帰ってくるので成人男性ならばあって当然の残業や付き合いだと思っていた。何より普段の尚人の振る舞いには変わりないはずだ。

 でも、本当にそうだろうか。家出未遂の日は遅くまで飲みすぎて漫画喫茶に泊まったと言っていたが、あの尚人がそんな店に自ら入るだろうか。馴染みのないシャンプーの香りを漂わせていた恋人のことを思い出すと背中がすっと冷たくなった。

 その日は国会質問が当たり帰宅が日を跨いだため、栄がマンションに着いたときには尚人はすでに寝室に入っていた。翌日は再び笠井事務所から資料のオーダーが入り、やはり遅くまでの残業を強いられた。

 ようやく栄が人並みの時間に帰宅できたのはさらに次の日で、尚人はちょうど風呂に入ろうとしているところだった。順番を譲ろうかと聞かれたが、リビングのテーブルに置きっぱなしにされている尚人のスマートフォンを見ていまこそがチャンスだと思った。

「俺は後でいいよ。ちょっと職場に連絡しなきゃいけないこともあるし」

「そう? じゃあお先に」

 尚人の足音が遠ざかり、少し経ってから栄はトイレに行く振りをしてバスルームの様子を伺う。恋人はすでに入浴をはじめているようで、そっと脱衣所の扉を開けると磨りガラスの向こうから水音が響いてきた。

 よっぽど時間のない場合を除いて尚人はしっかりと湯船に浸かる。少なくとも二十分程度の時間が栄にはあるはずだった。

 リビングに戻り、栄は高鳴る心臓を抑えながら尚人のスマートフォンを手に取った。待ち受け画面には夜桜の写真。ろくろく一緒に過ごす時間もない中、昨年の春に夜桜見物に出かけたことを思い出す。花見の準備をしていたわけではないから座る場所もなくて、宴会客のあいだを歩きながらコンビニエンスストアで買ったビールを飲んだだけ。それでも尚人は嬉しそうで、何度もレンズを満開の桜の枝に向けていた。

 画面に触れるとロック画面が浮き上がる。顔認識はもちろん通らない。パスコード入力画面に尚人の誕生日を四桁の数字にして入れてみると、画面がぶるぶると震えてコードの不一致を伝えてきた。

 誕生日でないとすれば何だろう。昼間に山野木が言っていた、ひたすら「0000、0001……」の順番に総当たりを試したという話を思い出すが、栄にはとてもではないがそんな時間はない。そこで、あまり期待せずに自分の誕生日を入力してみたところ、すうっと画面が切り替わった。

 待ち受け画面は一緒に行った花見風景、パスコードは栄の誕生日。それで栄の心はいくらか和らいだ。このままスマートフォンからは何も見つからず、昨日のことはただの考えすぎだったと思えればそれでよいのだと思った。

 だが、そんな期待は無残に打ち砕かれた。

 メッセンジャーアプリにこそ怪しげなチャットは残っていなかったが、通話履歴画面を開いた途端、画面の半分ほどを埋め尽くしている同じ番号が栄の目に飛び込んできた。昨日栄が聞いてしまったと思われる時刻の通話履歴も、その番号とのあいだで行われたものだった。

 あえて電話帳に登録していないのか相手の名前は表示されていない。だからこそ不安が増幅した。だって、こんなに頻繁にやり取りする相手をわざわざ氏名登録しないなんて、まるで怪しんでくださいと言っているようなものだ。

 栄はまだ着たままだったスーツのポケットから自分のスマートフォンを取り出すと、尚人の通話履歴画面を写真に撮った。念のためメーラーやSNSアプリも確認してみたが、それらからは特に不審な交友関係を疑わせるものは見つからなかった。その時点で尚人が風呂に行ってから十分以上が経っていたので、用心してスマホを元の場所に戻す。心拍は早く、怒りと混乱で手が震えていた。

 まだ何も決まったわけではない。しかし尚人が簡単には素性を知られたくないような相手と頻繁に連絡を取り合っていること──それどころか栄に黙ってその人物と会っていることは確実だった。

「栄、いまお湯抜いて溜めなおしてるから、あと十五分もすれば入れるよ」

「あ……悪いな」

 寝間着に着替えて髪を濡らしたままリビングに戻ってきた尚人は、もちろん栄の胸の奥に根付いた疑いには気づいていない。

 いつだって誠実で、栄のことを信頼し尊敬し愛してくれているはずの尚人。栄は恋人の人格を八年間一度だって疑ったことはない。だが、いま目の前にいるこの男は本当に栄の知っている尚人なのだろうか。栄は普段と変わらない恋人の柔らかな笑顔を、初めて恐ろしいと思った。

 その後寝室に入ってから、先ほど撮った写真に残っていた例の電話番号にコールしてみた。もちろん素性の知れない相手に自分の情報を晒す気にはなれなかったので非通知で。案の定というべきか、いくらコールしても相手が電話にでることはなかったが、栄の心には言いようのない怒りが燃え上がっていた。

 いま、この世界のどこかにこの着信音を聞いている人間がいる。そしてその人物こそ、栄から尚人を奪い去ろうとしているかもしれないのだ。