58. 栄

 ――恋人の居場所を知る方法

 まさか自分がこんな文字列を検索する日が来るとは思わなかった。寝室の鍵を閉めてラップトップの画面を凝視しながら、栄は惨めさと情けなさを噛みしめていた。

 尚人への疑いはどうしようもなく強いものになっていたが、それを正面切ってぶつけるほどの覚悟はできていない。たとえ理屈の通った言い訳を提示されたとして、いまの栄には尚人の言葉を信用することは難しいだろう。とにかく、クロにしろシロにしろ客観的な証拠がない限りは栄自身の納得がいかない。

 ディスプレイに映っているのは、相手に気付かれないようにGPSで居場所を確認できるというスマートフォンアプリの紹介画面。「バレずに恋人の居場所を知る方法」「浮気チェックに」などと扇情的な文言が踊っている。

 尚人の行動を把握したいと思ったときまず頭に浮かんだのが、昼間の部下たちの会話だった。恋人からGPSを仕込まれている同僚がいるという話を聞いて栄は初めてそのようなアプリの存在を知った。だが、聞いた話のケースではカップルが一応は双方合意の上で居場所を共有しているわけで、無断で他人の端末に細工をすることは現実的ではなさそうだ。

 しばらく悩んでアプリの使用を断念したところでふと、尚人のラップトップの調子が悪かった時期に、栄の端末を貸していたことを思い出した。尚人はスマートフォンとPCをクラウドで連携してスケジュールなどの情報を管理している。そして確かそのクラウドサービスには、紛失したスマートフォンを探す目的でGPS情報を取得する機能も含まれていた。

 栄は高鳴る鼓動を抑えつつクラウドサービスのウェブサイトにアクセスしてみる。ID入力のフィールドにカーソルを合わせると、入力候補の文字列がポップアップした。コンピューターに詳しくもなければセキュリティ意識が高いわけでもない尚人は、栄の端末でこのサイトにログインしたときに、おそらくは何も考えずにIDとパスワードをブラウザに記憶させてしまったのだろう。

 いくら自由に見られる状態になっているからといって、こんなことは間違っている。勝手にGPSアプリを仕込むのと何が違うのか。密かに居場所を確かめるなんてあまりに卑怯だ。理性が正論を訴える一方で、自分をそこまで追い詰めているのは不誠実な行動をとっている尚人のせいだという意識も捨てきれない。栄の中でしばし罪悪感と被害者意識がせめぎあい、葛藤の結果、勝ったのは後者だった。

 栄は震える指で尚人のスマートフォンの位置情報を確認する。端末を示すアイコンが地図上に現れ、ぴったりマンションの場所で止まった。GPSの精度が端末の機能の他に気象条件や場所にも左右されることはわかっているが、ある程度信頼はできそうだった。

 自分が良からぬことを企んでいることに気付かれてはいないか、勝手に尚人のクラウドサイトにログインしたことについて本人へアラートが届いてはいないか。その日以降恋人の顔を見るたびに栄はひどく緊張したが、尚人が不審感を抱いている様子はなかった。

 そして次の水曜日。尚人が謎の電話番号の相手と「八時すぎにいつものカフェで」と話していた当日がやってきた。

 起きてきた尚人と出勤前に顔を合わせた瞬間から、本心では問い詰めたくてたまらない。もしも尚人が不貞を働こうとしているのならば、いまだったら止めることができる。何もわざわざ事を荒立てなくたって、今日は早く帰るから食事に行こうと声をかけるだけで献身的な恋人はきっと今夜の予定をキャンセルしてくれるだろう。

「ナオ、今日……」

 ネクタイを締めながら声をかけると、コーヒーを手にして朝刊に目を落としていた尚人が顔を上げる。だがそこまでだった。

 今日でなければまた別の機会に確かめたくなるだけだ。疑いの芽を摘み取らない限り栄の心に平穏は訪れない。とにかくいま一番優先すべきことは、尚人が誰とどこで会っているか、その目的は何かを確かめることなのだ。

「今日? どうしたの?」

「いや……何でもない」

 怪訝そうな尚人から、栄は気まずい気持ちを抱えたまま視線を逸らした。

 夜の八時が近付くにつれ居てもたってもいられなった栄は、業務用PCの横に自分のスマートフォンをセットして数分おきに画面を眺めた。仕事になどまったく集中できない。尚人は本日最後の生徒の家にいるのか、位置情報はここ二時間ほど祐天寺に留まっていた。

 何度もリロードを繰り返していると、ふいに居場所を示すアイコンが動いた。バスだかタクシーだかわからないが、祐天寺からそのまま上方へ、明らかに電車のルートとは異なるルートでゆっくりと移動を開始するのを眺めながら、栄の心には黒雲のような不安が湧いてくる。

 自宅に帰るのならば中目黒から日比谷線に乗り換える、もしくは渋谷に向かうのが早いはずだ。もしも事務所に寄って帰るつもりだとしても、方向はまったく異なっている。尚人が栄に黙って、知られたくないような相手と待ち合わせていることはほとんど確実だった。

 問題は、どこで何をしようとしているかだ。苛々と端末をにらみつけていると内線電話が鳴った。

「はい、谷口です」

「谷口補佐、局長空きました」

「え、こんな時間に?」

 局長付からの電話に、栄は思わず訊き返す。

「はい。局長は明日も国会で早いので、できれば今日中にお話を聞いておきたいとのことです」

 施行期日まであと三ヶ月あまりとなった特例法の準備状況について局長に説明しておく必要があると考え、秘書室へアポイントメントを申し込んだのは午前中のことだ。外出や他の課室からの先約が詰まっていたため終業時間までに呼び込まれることはなく、てっきり説明の機会は明日以降に持ち越されるのだとばかり思っていた。それが、よりによってこんなタイミングで――。

 舌打ちしたい気持ちをなんとか堪え、資料一式を手にすると栄は立ち上がった。スマートフォンはポケットに入れるが、もちろん上司への説明中にそんなものを眺めている余裕はないだろう。

「谷口くん、悪いね遅くに」

「いえ、まだ待機もかかってますから。今日中にお話できて良かったです」

 局長と向かい合ってソファに腰掛けると、栄は心にもないことを口にした。

 資料を示しながらよどみなく進捗を説明するあいだも気持ちは完全に上の空だ。横目で時計を見ては、あれから何分経ったか、尚人はいまどこで何をしているか、そんなことばかりを考えていた。

 一通り説明を終えたところで思い出したように局長が訊く。

「ところで特例法といえば、笠井先生の件はどうなってる? 既存事業者の関連でかなりしつこく対応を迫られていると聞いているが」

 栄はため息を吐いた。最初に呼び出されて二か月ほどが経とうとしているが、いまだに三日に一度は羽多野秘書から電話がかかってくるし、資料要求やレク要求も頻繁だ。

「相変わらずです。ただ、与党議員なのでさすがに国会でどうこうとまではないかと思いますから、ひたすらお付き合いするしかないかと」

「苦労をかけるけど、よろしく頼むよ。ベテラン議員の心証を損ねて良いことはないからね。もちろん違法行為を求めてくるようなことがあれば別だが」

 時間の無駄なので幹部から手を回して何とかあきらめる方向に持っていって欲しいというのが本音だが、それを口にすることは栄のプライドが許さない。それに笠井や羽多野のやり方は理不尽なクレームと変わらない。上を出したところで収まるどころか、ますます奴らをつけあがらせる危険性すらあった。

 栄は局長の言葉に黙ってうなずいた。どうせ泣いても笑ってもあと半年弱でいまのポストからは離れる。そうすればあの無能議員とも、横柄な秘書とも距離を置くことができる。

 打ち合わせを終えて局長室を出ると、自席に戻るのが待てない栄は廊下の隅でスマートフォンを取り出す。最後に尚人の居場所を確認してからすでに三十分以上が経っていた。

 おそるおそる画面を覗くと座標はさっきとはまた別の方向に移っていた。「いつもの駅前のカフェ」で待ち合わせると言っていたから、落ち合った相手とそこから再び移動をしたのだろうか。

 栄にとっては馴染みのない界隈。友人と待ち合わせるにしても不自然に思える場所――駅から離れた幹線道路沿いの場所で動かないアイコンを見て、ひどく嫌な予感がした。

「お疲れさまです。十分くらい前に国会質問出揃ったって連絡ありました。今日はうち、被弾なしです」

 オフィスに戻ると明るい顔で大井が報告してくる。すでに山野木のラップトップは閉じられ、退庁したようだった。

「あ、うん」

 心ここにあらずの状態でうなずいた。心臓は激しく脈打ち、どうしようもない不安が体中にみなぎっていく。心を落ち着けようと給湯室に行き顔を洗うが、戻ってきても尚人の居場所はさっきの位置から動いていなかった。履歴を確認するとすでに三十分以上もそこにとどまったままでいる。栄の不安は大きくなるばかりだった。

 尚人はここで誰と、何をしているのだろう。

「……嘘だろ」

 震える指で地図を拡大して、栄は思わずそうつぶやいた。

「谷口補佐、どうかしたんですか?」

「いや……なんでもない」

 仕事上のトラブルでもあったのかと振り返る大井に、呆然としたままで首を振る。それから再びまじまじと画面上に浮かび上がっている文字を眺め、栄はゆっくり立ち上がるとラップトップの画面を閉じた。

「ごめん大井くん、用事があるのを思い出した。俺、今日は帰らなきゃ」

「待機もかかってないし別にいいっすけど。ていうか補佐、顔色が悪いですけど大丈夫ですか」

 返事もせずにロッカーからコートを取ると、それを羽織りもせず栄はオフィスを飛び出した。エレベーターで出くわした知り合いに「最近どう」と声をかけられるが一切耳には入っていなかった。

 庁舎の正門を出て、すでに終電後を見据えて行列を作りはじめているタクシーに駆け寄った。

「すみません、ここまで」

後部座席に飛び込むと、運転手に自分のスマートフォンを手渡した。画面には尚人の居場所を示した地図。老眼気味なのか、運転手が胸ポケットからメガネを取り出し小さな画面を覗き込む、その時間すらもどかしい。

「お客さん、一般道路使います? それとも首都高?」

「どっちでもいいです! 急いでるんで、とにかく早く着く方にしてください。金はかかっても構いませんから」

 鋭い声で告げると、客の機嫌が悪いことを察したのか「わかりました」と一言返事をして、運転手は雑談なしに車を発進させた。

 栄は手元に戻ってきたスマートフォンの画面を凝視する。さっきから――いや局長室に入る前から一時間ほどもまったく動かないまま同じ場所に留まっているアイコン。その真下にある建物は、あきらかに逢引目的に使われる類のホテルだった。