59. 栄

「お客さん、このあたりですか?」

 タクシーの運転手に声をかけられて窓の外を見回すが、栄にも土地勘はない。とりあえずその場で降ろしてもらい地図を確認することにした。

 相変わらず動きのない尚人の居場所からは数ブロック離れているようだったので、方向の見当をつけて歩き出す。

 駅から離れた幹線道路沿いは思った以上に薄暗く寂しい。軒先テントの色褪せた定食屋、二重ガラスを使ってなお騒音には悩まされているであろうマンション、成人向けのビデオショップ。栄の生まれ育った地域ともいま暮らしている地域ともまったく異なる雰囲気にいくらか気圧けおされながら少し進むと、淡いパープルの隠微なネオンが闇に浮かび上がった。表に回るとラブホテル特有の料金表パネルが目に入る。この手の施設を利用したことない栄にとっては、間近で見るのも初めてだ。

 本当にこんな場所に尚人がいるのだろうか、考えただけで眩暈がした。

 ここまで来て、栄はまだ信じられない気持ちだった。何しろ他の誰でもない尚人なのだ。内気で奥手で、同性愛者が集まる界隈に足を踏み入れたこともないはずだ。

 付き合いはじめた頃に、栄に同じ性向だと気づいてもらえなければ一生恋人などできなかったかもしれないと照れくさそうに笑っていた姿を思い出す。セックスにもあまり積極的ではなく、体を繋ぐたびに尚人が嫌がったり痛がったりしないよう栄はずいぶん気を遣ってきたつもりだ。もちろん、最近ではめっきり肉体関係も途絶えてはいるのだが。

 GPSの精度が悪いだけで、尚人は実はもう家に帰っているのではないか。そんな現実離れした期待を捨てきれないまま栄はホテルの前に立ち尽くした。やがて中に入りたがっている様子のカップルから不審そうな表情で見つめられ、栄はあわてて場所を移動する。

 建物に出入りする人の顔がわかる距離に居場所を定め、とりあえず尚人が動くのを待つことにした。ときおり出入りする人間は、栄の存在に気付くと気まずそうに足を速める。どう考えても怪しい人物だと思われているに違いない。

 なぜ自分が二月の寒空の下に立ち尽くしてこんなことをする羽目になったのだろう。確かに近年の尚人への態度がいくらか雑になっていたことは認めるが――それも激務のストレスゆえのことで、栄は栄なりに尚人を愛して大事にしてきたつもりだった。何より栄には自分が世の中の大抵の男よりは優れて魅力的であるという自負がある。その自分を振り回しこんな情けない真似をさせている尚人に対する苛立ちは時間とともに増していった。

 一時間近く経っただろうか。アスファルトから寒さが這い上がり、革靴の中の足指の感覚はなくなりかかっている。手袋をもっていないので左手はコートのポケットに入れているが、スマートフォンを握りしめた右手は外に出したまま冷え切っている。電車の中で汗をかくのが嫌で、真冬でも栄は薄手のトレンチコートで通していた。夜が更け寒さの増す野外で平気でいられるはずもない。

 寒さのせいでスマートフォンの電池の減りも早いような気がする。尚人が動き出すのと栄の端末の充電が切れるのどちらが早いだろう、そんな思いが過ぎった十一時過ぎに見慣れたシルエットがホテルの玄関から出てきた。

 頭に血が上り、恋人の姿を認めるのと同時に考えるより早く体が動いていた。暗闇の中突然目の前に飛び出してきた人影に、尚人も驚いたように動きを止める。そして――街頭に映し出された栄を見て、驚愕の表情を浮かべた。

「ナオ、おまえ何やってるんだよ!」

 深夜の路上であることを忘れて栄は怒鳴り声をあげる。

 尚人は逃げなかった。それどころか驚きと動揺のあまり凍り付いたように動かない。目を丸くして栄の顔をしばらく凝視し、震える唇をゆっくり動かす。

「さ、栄……どうして……」

 わかりやすく色を失った顔と怯えきった反応に、問い詰めるまでもなく栄は恋人の裏切りを確信した。

「どうしてじゃないだろ。このあいだ、偶然電話で話してるのが聞こえたんだよ。水曜夜八時にって」

 そして、何も言い返さない尚人に詰め寄る。

「相手はどこのどいつだ、いますぐ連れてこい。くそ、ぶん殴ってやる」

「待って栄、違うんだ……」

 栄がホテルの入り口に目をやると、尚人が急に焦ったような声を出した。しかし相手の男をかばおうとするような言葉は栄の怒りを増幅させるだけだ。

「何が違うんだよ、こんな場所に恋人連れ込まれて黙ってろっていうのか。それともなんだ? いままで何やっても気づかないちょろい男だから、適当な出まかせ言えばごまかせるとでも思ってるのか? すぐ連れてこいって。でなきゃ俺がそいつの顔を確かめに行ってやる」

 そのままホテルの入口へ向かおうとする栄の腕を尚人がつかんだ。

「いないんだ、もう。彼は先に出て行ったから、中に入ったって会えない」

 それは実質的に不貞を認める言葉だった。

 栄は思わず尚人の手を振り払う。汚い――というのがその瞬間の偽らざる気持ちだった。

 愛しているはずの恋人の手に嫌悪を抱くのは初めてのことだ。だがいまの尚人の体はほんの数十分前まで他の男と抱き合っていた体で、その髪も、唇も指も、衣服に隠された何もかもが赤の他人の手で触れられ蹂躙された後なのだと思うと触れることすら汚らわしく思えた。

 出入りを見張るあいだに目の前を通り過ぎて行った人影を思い出す。あの中に尚人の浮気相手がいたのか。それとも実はその男はまだホテルの中にいて、尚人はただ相手をかばっているだけなのか。いずれにせよ許しがたい。

 ちょうどそのとき口論を聞きつけたのか、ホテルのはす向かいにあるマンションの窓が開いた。怪訝な顔を向けてくる住人と目が合った瞬間に頭のごく一部分だけが正気を取り戻し、栄は舌打ちをしてホテル内に入ろうとする足を止めた。下手に騒ぎを起こしてパトカーでも呼ばれようものなら、自分の社会的地位にも大きな影響がある。その程度を計算する理性はギリギリ残っていた。

 電話番号は押さえてあるのだか相手の男については後でだって聞き出せると思い直し、栄は尚人に背を向けた。

「帰るぞ、ナオ。話は家で聞く」

 返事はなかったものの、数メートル進んでから不安になって振り返ると、うつむいたままの尚人は栄の後をとぼとぼと着いてきていた。

 そのまま幹線道路を歩き、タクシーを拾うと尚人を後部座席に押し込む。並んで座ってそれから三十分ほど、死んだような顔の尚人は一言も口をきかなかった。栄も黙ったままじっと窓の外を眺めていた。

 マンションの扉が開くと、後ろから尚人の尻を力まかせに蹴とばした。ここまで歩くあいだも怯えと緊張で膝を震わせていた尚人はあっさりと前につんのめり、靴を履いたままで叫び声を上げず玄関に倒れ込んだ。

 栄は革靴を脱ぎ捨て倒れた尚人の体を跨ぐと、腕をつかんで強引に引き起こす。他人とセックスした恋人に触れていると思うと吐き気がするが何とか我慢した。そのまま腕を強く引くと、中腰の姿勢で何度も転びそうになりながら尚人は栄の後を追った。

 脱衣所に入り、そのままバスルームの扉を開けると尚人を洗い場に突き飛ばす。よろめいた尚人が膝をつき顔を上げると、栄は黙ったままシャワーヘッドを手にして、そのまま水栓レバーをいっぱいまで引き上げた。

 ざあっ、と音がしてシャワーヘッドから強い勢いで水が噴き出し、尚人の顔や髪に襲いかかる。もちろんそれだけではない、脱ぐ暇すら与えられなかったウールのコートが水を吸って色を濃くし、履いたままの靴も見る間に無残にも濡れそぼっていく。真冬の冷え切ったバスルームで、栄は無言のまま長い時間をかけて恋人の全身に冷水を浴びせ続けた。

 突然の冷水攻めに驚きの表情を浮かべたのも一瞬で、尚人はすぐにあきらめたように目を伏せた。体を固くして冷たさに耐えようとしているのだろうが、見ていて滑稽なほどに体はがたがたと震えていた。栄自身も跳ね返った水でひどく濡れてしまったが、怒りのせいか寒さは一切感じなかった。

 尚人の全身が十分に濡れたのを確かめてから栄はシャワーヘッドを湯船の中に投げ込んだ。空いた右手でボディソープのボトルを取りしゃがみこんだままの尚人にノズルを向けると、まるで精液のような白濁したせっけん液が濡れた髪やコートを汚した。

「……ナオ、おまえ汚いよ」

 心のままに冷淡な言葉を投げかけるが、尚人は返事をしない。

「いままで何回こんなことやってきたんだよ。よその男と寝て素知らぬ顔で帰ってきて、この家の中を汚い体で歩き回って、汚い手で家の中のものに触って、笑いながら俺と喋ってたのか!?」

 裏切りはいつからはじまって、何度繰り返されてきたのか。尚人と相手の男は何も気づかない馬鹿な栄を陰で笑っていたのだろうか。なのに自分だけ馬鹿みたいに不用意な言葉で尚人を傷つけたことを反省して、嫌われたくなくて、捨てられたくなくて、ひたすら我慢を続けていた。こんなのまるで道化だ。

「黙ってないで、何か言えよ!」

 何も言わず紫色の唇を噛みしめるだけの尚人が苛立たしくて、栄はボディソープのボトルを床に叩きつける。緩んだボトルの蓋が外れて中身が飛び散った。

「……ごめん」

 ようやく絞り出された言葉はそれだけ。栄の憤りや悲しみや惨めさと比べれば、あまりにちっぽけだった。

 怒鳴りたいのか、殴りたいのか、すべてを聞き出したいのか。自分でもよくわからない。尚人はいまにも泣きだしそうな表情をしているが、泣きたいのはこっちの方だ。

 ふと目をやると、スラックスが濡れて肌に張り付いたせいでコートの裾から伸びる尚人の脚のラインがくっきりと浮き上がっていた。長らく見ていない恋人の裸体が栄の脳裏に蘇り、なぜだかわからないが体の芯に熱が点るような気がした。

「脱げよ」

 栄は言った。

「全部脱いで、どこかの誰かに抱かれてきた汚い体を俺の前でちゃんと洗え。じゃないと風呂場の外には出さない」

 畳みかける言葉に、尚人がそっと視線を上げて栄の表情を伺う。本気であることを確認してからもいくらか躊躇したが、最終的に尚人は唇を噛んだまま震える指をコートのボタンに伸ばした。