寒さのせいか動揺のせいか、尚人の指はもたつきボタンを外すには苛々するほど時間がかかった。水を吸って見るからに重くなったコートとその下に着ていたスーツの上着をまとめて袖から抜くと、まるで殻を失った貝のように頼りない姿が現れる。
続いてベルトを外し、そこでいったん動きが止まる。一瞬だけ上目でこちらを見たのは、本当にこれ以上続けなければいけないのか、どこかでもういいと言ってもらえるのではないか――そんなことを祈るような気持ちだったのかもしれない。だがもちろん栄の心には一片の情けもない。
「何止まってんだよ。続けろ」
乱暴な言葉で促すと、尚人はゆっくりした動作で立ち上がり脚にまとわりつくスラックスを苦労しながら脱いだ。続いて黒い靴下を取り去り、残りはシャツと下着だけになる。
水に濡れたカッターシャツは細身の体にぴったりと張り付き肌の色がうっすら透けている。ボクサーショーツから伸びた脚も寒さで色を失いいまにも膝から床に崩れ落ちそうだが、それも尚人の自業自得だ。
震える指でシャツの小さなボタンを外すのは難しいのだろう、一番上のボタンに手を伸ばしては何度も指を滑らせる尚人の姿がもどかしく、栄は上体を屈めると先ほどバスタブに投げ入れたシャワーヘッドを取り上げた。
今度は水栓をお湯側にひねり、少し待ってから尚人に湯を浴びせる。
「……っ!」
冷え切った体に四十二度の湯は相当熱く感じたのだろう、尚人は押し殺した悲鳴を上げた。だが、この程度で火傷することなどあるはずがない。栄は黙ってそのまま尚人に湯を浴びせ続けた。
栄の目の前で、色を失っていた尚人の肌は見る間に血色を取り戻していった。ボタンを外す指先を温めてやろうとシャワーヘッドを胸元に向けると、尚人の体が不自然におののく。少し遅れて腕の下あたりに薄く透けた布を持ち上げる小さな突起が目に入り、栄は尚人が何に反応したのかを理解した。
ホテルから出てくる場面に出くわし、他の男と過ごしていたことを明言され、それだけでも十分傷つき怒っているつもりだった。それでも頭の中で普段の誠実な尚人と不貞行為とが上手く像を結ばないままでいた。だが――かつてはほとんど反応を示さなかった場所にシャワーを当てられただけで体を震わせる恋人の姿を目にすればさすがに生々しい性的なイメージが浮かぶ。
さっきよりも近い距離からあからさまに胸を狙ってシャワーをかけると、尚人は体を小さくよじって敏感な場所への刺激を避けようとした。その悩ましげな姿に栄は、これ以上ないほどの怒りにも、まだ先があるのだということを思い知った。
尚人はどこかの誰かと寝た。しかもその男は栄とは違うやり方で尚人に触れて、新しい快楽を教え込んだ。その事実が、恋人を寝取られた衝撃や悲しみ以上に栄のプライドをひどく傷つけた。
確かに数か月、半年、もしかしたらもっと長い間、尚人に触れずに過ごした。でも尚人だってその間一度だって栄をベッドに誘いはしなかった。以前と同じように性欲など知らないような涼しい顔で日々を過ごしていたのだ。
好きで尚人を放っていたわけではない。栄がどれほど仕事に時間と体力を奪われているかは、そばにいる尚人だって知っていたはずだ。セックスレスのこともまったく気にしていなかったわけではない。少し仕事に余裕ができたらと思いつつなかなかタイミングが訪れず、やがて男性機能に不安を抱くようになった。そして栄の不安は最悪の形で現実のものとなったのだ。
栄はずっと苦しんできた。それでも尚人のために――尚人の期待を裏切らない男であり続けるために歯を食いしばって綱渡りを続けてきた。だが、そのあいだに尚人がやっていたことと言えばどうだ。相談もなしに大学院をやめ、無神経な態度や言葉で栄を傷つけ、逆に栄から望まざる言葉をかけられれば外泊してプレッシャーをかけてくる。それどころか仕事だと嘘をついてよその男と寝ていた。
尚人を抱けないかもしれない。抱こうとしても満足させてやれないかもしれない。目を背けてきた劣等感が一気に牙を剥く。
かすかに残っていた理性が崩れ去り、栄は再びシャワーヘッドを投げ出すと濡れた床の上を一歩踏み出した。殴られるとでも思ったのか反射的に半歩ほど下がった尚人に手を伸ばすと、胸倉をつかんで一気にシャツの前を左右に力いっぱい引く。瞬間、衝撃から身を守るように尚人がぎゅっと両眼を閉じた。
布の裂ける嫌な音。続いて弾け飛んだシャツのボタンがタイルに飛び散る音がバスルームに響き渡った。
栄はそのまま強引に尚人の体から濡れた布を取り去ると、ぷつんと赤く勃ち上がった乳首を容赦なくつねった。
「痛っ……」
さすがの尚人も今回は悲鳴を堪えることができない。指の中の弾力をひねりつぶすように力を入れると、尚人の表情はますます苦しそうに歪んだ。栄はそれを当然の報いだと思った。
尚人は自分が何をやったかを思い知るべきだ。尚人は栄を酷く傷つけたのだから、それ相応の報いを受けるべきだ。このくらいの羞恥も痛みも、栄の苦しみに比べればきっと大したものではない。
自分の行為を当然のものだと正当化すると、不思議と口元が笑みに似た形に歪んだ。
「おまえのここ、前はこんな風にならなかったよな? 触っても感じないって言ってたじゃないか。なのに、何でシャワーが当たったくらいでこんなにしてんだよ」
一度指を離してから今度は爪先でそこを弾くと、尚人の唇からこぼれる声に苦しみとは違う甘ったるい響きが混ざる。
「あ……っ」
その声に、栄は尚人がもはや決して以前の尚人ではないということを思い知る。栄の知らないところで誰かが尚人の体を作り変えてしまったのだ。
「こういうこと誰に教えられたんだ? さっきまでそいつに弄ってもらってたのか? 触ってほしいなら言ってくれれば、俺だっていくらでもしてやったのに」
敏感な粒を今度は親指と人差し指で挟み、コリコリと転がす。逃げを打つ尚人は後ろによろめいて、壁に背を付けたところでそれ以上の退路を失った。
嬲るような言葉に唇を噛むだけで何も言い返さないのは栄の言葉が図星だからなのか、それとも口からはしたない喘ぎ声が零れることを恐れているからなのかはわからない。いや、きっとその両方だろう。
裸の首筋、鎖骨、胸から腹を舐めるように眺めまわすが、キスマークのようなものは見当たらなかった。ずさんな尚人もさすがにあからさまな証拠は残さないよう気を遣っていたのだろうが、その小賢しさがむしろ憎らしい。
腹立たしいことに、悪意しかない愛撫にすら尚人の体は反応する。胸の粒をしつこく弄っているうちに頬は紅潮し、かすかに腰を引くような動きを見せた。視線を下にやるとボクサーショーツの前が膨らみはじめている。
「何、勃ててんの? いまの自分がどういう状況かわかってんのか?」
栄は片足を持ち上げて、尚人の膨らみかけた股間を膝でぐっと押した。
「ごめん……」
何に対して謝っているのかはわからないが、尚人は泣き出しそうな顔でそう絞り出す。だが、泣きたいのはこっちの方だ。
「さっきまでどっかの誰かと寝てたのに、ちょっと胸弄られただけでまた勃起するなんて、どういう体だよ。俺と寝るときはいつも処女みたいな顔してたのに、ずいぶんな変わりようだな」
羞恥に赤く染まる体をさらに煽る声は自分のものではないような気もする。
尚人が前の尚人ではなくなってしまったように、裏切りを知った栄ももはや以前の栄ではない。ずっと理知的で紳士的で社会的に尊敬されるような男であろうとしてきた。尚人もそれを望んでいるのだと信じてきた。でも、そんな栄では物足りないと尚人が判断したならば、もはや自分がどうあることが正しいのかもわからなくなる
「下も脱げよ」
ようやく尚人の胸元から手を離し、栄はそう言い放つ。ひどくつねられたり弾かれたりしたせいで両方の乳首は真っ赤に腫れ上がっていた。
「汚いから洗えって言ったの、聞こえてなかったのか」
その言葉に尚人は下着を脱ぎ、苦しそうな表情を浮かべたまま栄の前で全裸を晒した。
あまりに久しぶりに見る恋人の裸体。頭の隅にごく僅かながら残された冷静な部分は、尚人はこんな体をしていたのか新鮮な驚きを感じている。だが、驚きはすぐに怒りに取って代わられて、栄は床に落ちていたボトルを拾い上げてこぼれずに残っていたボディソープを尚人の体に垂らした。
「よく洗えよ、汚い男の痕跡がなくなるまで」
いくら洗ったところで裏切りは消えてなくならないことはわかっていたが、そう言わずにはいられない。すると尚人はボディスポンジを手に取り、栄の冷たい視線を浴びながら体を擦りはじめた。
「後ろを向け」
体の前面が泡に覆われたところでそう指示する。そこで尚人の後孔がまだ薄赤く染まっているのが目に入った。ひどく生々しい情交の跡が栄の眼前に明らかになる。キスマークを許さない尚人も、この場所に残る痕跡までは消しようがない。
やがてどこを凝視されているのか気づいたのだろう、恥ずかしさに身をすくめた尚人のそこが、まるで誘っているかのようにひくついて震えた。
「ナオ、何回いったの?」
もはや栄の側に羞恥も矜持もない。ただ尚人を痛めつけたい。罰を与えてやりたい。そんな気持ちだけに突き動かされて、普段ならば決して口にしないような露悪的で下品な言葉を次々と吐き出す。
「黙っててもわかんないだろ。突っ込んで、真っ赤になるまで出し入れしてもらってよがってたんだろ? 俺、愛する恋人のことだから全部知りたい。教えてくれるまで終われない。なあ、何回射精したんだよ」
「……に、二回」
逃げきれないと思ったのか、消え入りそうな声で尚人が答える。
尚人が黙っていたならば答えるまでねちねちと責め立てただろう。だからと言って、こんな答えが聞きたかったわけでもない。
「へえ、二回もいったんだ。おまえ中イキ得意じゃなかったけど、ここで咥えるの上手くなったんだな。で、相手もこの中でいったのか?」
「ゴムは着けてたから」
「そういうこと聞いてるんじゃねえよ!」
馬鹿正直な答えに苛立った栄は声を荒げた。そのまま尚人を床に引き倒し、ボディソープの原液を指につけると震える後孔に差し込む。
「……うあっ」
突然の挿入に尚人が呻く。驚くのも無理もない、普段ならばローションを使い指にコンドームを被せ、用心深すぎるほど丁寧にやっていた行為だ。だがいまの栄には遠慮も優しさもない。
「なんだよ、哀れっぽい声あげたら俺がひるむでも思ってるのか? いまさら騙されるわけないだろ。ほら、奥までしっかり洗ってやるから尻上げろよ」
「……っ」
尻たぶをひとつ叩くと、尚人は声を殺しながら四つん這いの姿のままで腰を持ち上げた。ボディソープの滑りに助けられ指がスムーズに抽送をはじめると、そのうち尚人の痛みに喘ぐ声が濡れはじめる。こんな状態でこんな目に遭わされて、尚人はそれでも感じているのだ。
記憶を頼りに指を曲げて弱いであろう場所をぐっと押すと、小さな悲鳴と同時に尚人の足のあいだにあるものがぐっと角度を増した。
「ホテル、二時間はいただろ? 他に何してたか教えて。ずっと仲良くおしゃべりしてたわけないもんな」
言葉もなくふるふると首を振るので、お仕置きのようにぎゅっとペニスを握る。
「言えってば、ほら」
「別になにも特別なことは……ああっ」
もはや尚人も、苦しんでいるのか感じているのかわからないようだ。そして他ならぬ栄自身も尚人をいたぶることに対して倒錯した喜びを感じつつあった。
さんざん自分を苦しめ翻弄して裏切った恋人に、いま自分が感じている怒りは正当な感情で、やっているのは正当な行為。悪いことをした尚人を洗い清めて躾け直して、心から反省させなければいけない。
不思議とここに至っても、許せないことをした尚人と別れようという考えは浮かばない。むしろプライドを傷つけられたことで栄の中で尚人への執着はこれまでにないほど膨れ上がっていた。
バスルームで服を着たままびしょ濡れになっている自分と、その前で裸に剥かれ四つん這いの惨めな姿で許しを請う恋人。異様な光景を認識したところで、腹の奥に熱を感じた。
ちらりと目を落とし、栄は自分が勃起していることに気付いた。もうずいぶん長いあいだいくら触れても反応を返さなかったそこが、いまでは痛いほどに張り詰めていた。