61. 尚人

 バスルームの床に裸で四つん這いになり、腰を高く掲げる屈辱的な格好をさせられたまま尚人は目を閉じきつく唇を噛んで耐えていた。

「本当に、前はセックスなんか全然好きじゃないって感じだったのにな、ナオ」

「あ……っ」

 指先がつうっと性器の先端をなぞり、こらえきれない喘ぎが唇から漏れた。そこが完全に勃ち上がり潤んでいることは見るまでもなくわかっている。

「それとも相手が俺なのが面白くなかっただけなのか?」

 内部に挿入された指を蠢かせながら栄は続ける。その声は聞いたことがないほど冷たかった。

 頭が混乱して、何が起きたのかはいまもよくわかっていないのが正直なところだ。ホテルの外に出たところで、突然近づいてきた男が栄だと気づいた瞬間は心臓が止まるかと思った。驚き、動揺。だが、すぐにあきらめに似た気持ちも滲んできた。

 恋人を裏切って他の男と外で会うなんてこと、いつまでも破綻せずに続けられるはずがない。そんなことは考えるまでもなくて、だからこそ尚人は最初「一夜だけ」の関係を望んだ。やめられなかったのは未生の強引さと――何より、尚人が未生と会うことに心地良さを感じるようになってしまったから。

 栄がどうしてここにいるのかはわからなかった。未生との電話のやり取りを聞かれていたようだが、ホテルの場所は口にしていないはずだ。後をつけられていたのか、それとももっと別の方法なのか、だがたとえ栄が多少卑怯な方法を使っていたとしても、尚人が彼を裏切ったという事実の前には小さな問題だ。

 未生を巻き込んではいけないという意識はあったので、ホテルに乗り込んで相手を引きずり出すと息巻く栄を止めるには苦労したが、幸運にも路上の騒ぎを聞きつけた近所の住人が窓を開けたおかげで少し冷静になってもらえた。

 別れを切り出されたとしても文句は言えない。タクシーの中で黙り込んだ栄の横で尚人はただ下を向いて震えていた。だがマンションに着くと、三行半を突きつける代わりに栄は尚人をバスルームに押し込んだ。最初は水、次に熱い湯を滅茶苦茶にかけられて、次に裸になって全身を清めるように言われた。

 栄は怒りで完全に我を忘れている。機嫌の悪いときに乱暴な言葉をかけられることはあったが、暴力的な行為はこれまで一度だってなかった。怪我をするほどの強さではないものの、蹴られて引きずられて、突き飛ばされて、尚人は完全に萎縮した。

 それだけではない。こんなこと――潔癖な栄が十分な準備もなしに尚人の後孔に触れることなど考えられない。お互いのためだといって指を入れるときにもコンドームを使うぐらい用心深かった男の骨ばった指が、いまはダイレクトに尚人の内側を探っている。

 今日の未生は激しかった。後ろから一度、膝の上に跨がる姿勢で自ら動くことを強いられてもう一度。最後は、もうこれ以上は勘弁してくれと尚人は泣きごとを言った。でも、未生とあんなにも抱き合って一時間程度しか立っていないのに、いまの自分は栄の指に感じて勃起している。栄の怒りを恐れるのと同時に尚人は自らの浅ましさを恥じた。

「あ、……んっ」

 弱い場所をひときわ強く擦られて、緩やかな絶頂感が全身を突き抜ける。二度射精した後にまだ達することができる自分の体に恐怖を覚えながら、とうとう膝の力が抜けて体を支えられなくなり、尚人は床にうずくまった。

 快楽よりは脱力感の方が強く、濡れたタイルに額を付けてぜえぜえと息をしていると栄の手が腰のあたりに伸びてくる。そのままぐるりと体を裏返されて、尚人は床に膝をついた栄と正面から対峙した。

 栄は尚人の体から抜き去った右手で床に散った尚人の精液を拭う。そして指先を汚す色の薄い液体を見て吐き捨てるように言った。

「三回目だと、さすがに薄いな」

 その声はあまりに冷たく、尚人の中に羞恥よりも強い恐怖を呼び起こす。

 尚人は未生に抱かれるようになって初めて、性行為中に言葉で嬲られる経験をした。恥ずかしくて屈辱的ではあったが、未生の言葉は尚人を痛めつけるためでなく反応を楽しむためのものなのだということは理解していた。いまも完全に慣れたわけではないが、いやらしい言葉をかけられた自分が多少なりとも昂ぶることは否定できない。

 しかし――いまの栄が投げかけてくる言葉は、未生のものとは全然違う。栄は尚人の反応を楽しんでいるわけでも、セックスのスパイスとして刺激の強い言葉を使っているわけでもない。ただ激しい怒りの下に尚人を罰しようとしているだけだ。

 いまは何時だろう。日付は変わっているはずだ。木曜日だから栄は遅くとも八時には家を出なければいけないし、尚人だって今日の授業の準備をしなければいけない。いつ終わるのか、本当に終わるのか。脈絡のない思いが行き来して頭がぼんやりしてくる。

 少しのあいだ黙っていた栄が尚人の腕をつかんだので、ようやく風呂場を出られるのではないかと一瞬期待する。だが立ち上がらせた尚人を壁に向かせて、栄は言った。

「壁に手をついて、しっかり立ってろ」

 スーツを着たままの栄が上着を脱ぎ捨てる。そして、次に自らのベルトに手をかけた。

「さ、栄!?」

 その瞬間まで尚人は、栄のスラックスの股間が張り詰めていることにはまるで気づいていなかった。潔癖な恋人がこの状況で欲情するというのは想像できなかったし、何より尚人の中で栄とのセックスというのはどうしようもなく遠いものになっていた。

 栄はベルトを外しスラックスの前を開けると、そこから猛ったものを取り出して尚人の体を強引に壁に押し付けた。

「う……」

 熱いものが押し付けられ、押し入ってくる感覚に体を固くする。嘘、という言葉は唇でただの呻き声に変わった。熱く硬いそれが一気に尚人を奥まで貫いた。

 未生との行為、そして栄の手淫で慣らされていたので挿入はスムーズだ。だが、一晩で行うにはあまりに過剰な行為に尚人のそこは悲鳴をあげていた。激しく擦られ、快感より痺れ、そして痛みが上回る。

「……っ、あ、痛……」

 ピリッと裂けるような痛みに思わずそうつぶやいた。

 以前の栄ならば、尚人が少しでも痛がる素振りを見せればすぐに行為を止めて、ごめんと言って優しく抱きしめてくれた。だが、栄は何も言わず、尚人の崩れ落ちそうな腰を両腕でしっかりつかんでただ腰を叩きつける動きを続けるだけだ。

 毎日惨めな気持ちでカレンダーに印を付けていた。日数を数えるのはやめてしまったが、ほぼ一年と二ヶ月ぶりのセックス。あんなにも毎晩望んで、願って、欲しがり続けた恋人とのセックスだ。でも、尚人が望んだのは決してこんな行為ではなかった。

「栄、ごめんっ。ごめんなさい。……でも、もう、お願いだから……今は……」

 裏切りを許してくれとは言わないが、尚人の体は悲鳴を上げていた。奥を突かれながらうわ言のように慈悲を請う尚人に、栄はますます行為を激しくした。

「何でだよ。他の男とヤって二回いったんだから、俺とも二回できるだろ」

「……そんなっ」

 自分が悪いのはわかっている。栄の気がすむまで付き合って、罪も罰も受け入れなければいけないことも。それでも尚人の胸はひどく痛んだ。

 未生と寝るときにはいつだって栄のことを思い出した。快楽に飲まれながらも栄を裏切っている後ろめたさが常に頭から消えなかった。でもいまこうして栄に貫かれながら、自分が未生を裏切っているような気持ちになっているのはなぜなのだろうか。

 肩や首に何度も痛みを感じるが、強く吸われているのか噛まれているのかはわからない。絶対に泣くまいと思っていたのに、いつしか苦しさに涙が滲んでいた。喉が苦しくてもう喘ぎ声も呻き声も出ない。つるつるとしたバスルームの壁にはすがりつくものもなくて、ただぎゅっと拳を握って尚人はただ栄が疲れ果てるのを待つだけだ。何を言っても止めてはもらえないと悟った尚人には、ただ壊れた人形のように栄の欲望を受け入れることしかできなかった。

 やがて、腹の奥に熱い液体が叩きつけられる。栄からも未生からも一度だって中で出されたことはなかった尚人は、初めての感覚におののく。

 そのまま背後から抱きすくめられた。

「ナオ……どうして」

 振り絞るような声に、尚人は栄も泣いていることを知った。