62. 尚人

 窓から差し込む光に目を覚ます。真横に人の姿を認め一瞬未生かと思うが、それは一年以上ぶりに同じベッドで眠る恋人だった。どうやらほんの数ヶ月のあいだに尚人の中の「当たり前」はすっかり捻れてしまっていたようだ。

 バスルームでひどく抱かれた後で、栄の寝室でもう一度。さすがに体の反応も鈍くなり一方的な行為には苦痛しかなかった。最後の方は記憶すらおぼろげだ。

 かつては二人で使っていた寝室だが、尚人の書斎にベッドが運び込まれて以降は掃除以外の用事で足を踏み入れることはなくなっていた。まるで他人の家の、他人のベッドにいるような居心地の悪さを感じる。

 少し身動きするだけで全身に痛みが走り、尚人は顔をしかめる。激しく執拗な行為で傷ついた場所はもちろん、嫌というほど吸われて噛まれたであろう肩や首や背中。不自然な体勢を長い時間取らされた筋肉や関節、声が出なくなるまで喘がされた喉、至るところに痛みがあり満身創痍と言っていい状態だ。

 頭はまだぼんやりとしている。考えなければいけないことは山ほどあるはずだが、何よりまず痛む喉を潤したくて、キッチンへ行くためベッドから降りようとすると突然後ろから手首をつかまれた。

「どこに行くんだ?」

 栄が体を起こしながら訊ねる。眠っているように見えたが実はずっと目を覚ましていたのかもしれない。その口調は鋭く、尚人が無断でベッドから出て行こうとすることすら責めているようだった。

「喉が渇いたから……水を飲みに行こうとしただけだよ」

 ごく当たり前のやり取りのつもりなのに、まるで言い訳のような響きが混ざった。

「俺も行く」

 そう言って栄は立ち上がる。それから尚人が裸のままでいることに気づき、クローゼットから取り出したシャツを投げてよこした。

 どこに逃げるつもりもないのに栄は尚人にぴったりとついてきた。さすがにシャツ一枚というのも心もとなく、途中で下着とズボンを取りに自分の部屋に寄ったが、着替えるところすらじっと見つめられているのでまるで囚人のような気分になる。

 昨晩は怒りで我を忘れた栄に一方的に詰られ暴力的な方法で抱かれただけで、何の話し合いもできてはいない。自分たちがこれからどうなるのか見当もつかないが、決定権が栄の手にあるのは間違いなさそうだった。

 リビングで初めて時計を目にやると、朝の八時半。栄が家を出る時間はとっくに過ぎている。横目で顔色を伺うものの、とてもではないが「仕事は?」などと質問できる雰囲気ではなかった。

 キッチンで水を飲んでいると栄の声が聞こえてきた。柔らかく丁寧な、よそ行きの声。

「――そうなんです、急に母が体調を崩して。他の家族の都合がつかないので、私が精密検査に付き添うことに。今日は特に外部とのスケジュールは入っていないので……ええ、ご迷惑をお掛けしますがよろしくお願いします」

 グラスを手にしたままリビングに戻った尚人の目の前で栄はすらすらと淀みなく嘘を紡いで、職場へ今日一日休暇を取ることを告げた。電話を切ると、昨日バスルームに脱いだままにしていたコートからいつの間に取り出したのか、尚人のスマートフォンを差し出してくる。

「はい、おまえも」

「え?」

 短い言葉の意味が取れず思わず聞き返すと、あからさまに苛立った表情で栄は端末を尚人の手に押し付けてくる。

「え? じゃないだろ。仕事休むって電話入れろよ!」

「でも……」

 今日も午後には三件の授業予定が入っている。確かに栄と自分の関係が危機的状況にあることは事実だが、だからといって仕事を直前にキャンセルすれば生徒にも冨樫にも迷惑をかけてしまう。

 だが尚人の戸惑いは栄の高圧的な態度の前に飲み込むほかない。

「おまえ俺のこと馬鹿にしてんの? この状況で仕事行くってどういうつもりだよ。自分が何やったか全然わかってないのな」

「ごめん。わかった、電話するから」

 昨晩の燃え上がるような怒りとは違う。栄の怒りはマグマのように静かでどろどろと、しかしより高い温度になって彼の中に渦巻いているようだった。尚人は栄の目の前で事務所に電話をかけ、高熱でとても授業ができる状態ではないと言って欠勤の許可を取った。昨晩の行為で枯れた尚人の声を風邪のせいだと思われたようで、予想以上に心配されて恐縮するばかりだった。

「ナオ」

 電話を終えると、ソファに座った栄はすぐ横の座面を叩いて尚人に座るよう促した。距離感がつかめない尚人は普段より少しだけ遠い位置に、ためらいながら腰掛けた。

「もしかしたら何か弱みでも握られてるのか? 仕事とか、金とか、何か。脅されてるとかさ」

 栄はそう口火を切った。おそらくは、浮気をされる心当たりのない栄が必死に考えた挙句の動機がその辺りだったのだろう。

 答えに迷わなかったわけではない。栄の提示したシナリオに乗れば、尚人も被害者になれる。怒りも少しは収まって、追及の手はいくらかでも弱まるだろう。でも――未生を悪者にして、その先は?

 確かにきっかけを作ったのは未生だ。強引に尚人に迫り、半ば脅しのように呼び出された。尚人自身も最初は金目当ての脅迫を疑い、なけなしの貯金から十万円を差し出そうとしたくらいだ。

 だが、十二月のあの日に未生と寝ることを決めて、誘ったのは尚人の方だった。二度目や三度目は多少強引な言葉に誘い出された部分もあるが、尚人だって内心では未生からの誘いを待っていた。ただ、恋人ではない相手との行為に溺れる自分を認めるのが怖くて、未生の脅しめいた言葉を言い訳にしていただけ。そして未生は最初からそんな尚人を見抜いて、あえて望むようなエクスキューズを差し出していただけだ。

 それに、もし未生と出会わなかったしても、きっと尚人は別の相手を探していただろう。あの頃のコントロール不能な、体の奥から湧き上がるような欲望を思えば、いまの状況を招いたのが自分自身であることを疑う余地はない。

「僕から、誘ったんだ」

 意を決して尚人がそう言うと、栄の表情が強張った。

「何でそんなことを……」

 言いたいことも聞きたいことも山ほどあるはずだが、すぐには出てこない。栄は弁の立つ男だ。その彼がこんな風に絶句している姿を見るのは長い付き合いの中で初めてだった。

「君はいつも忙しそうで、もうずっと夜も……なくて。だから」

 謝罪の気持ちは口に出した途端に呆れるほどに薄っぺらくなる。自分の非を認めているつもりではいても正直に理由を話せば不貞の責任を栄に転嫁しているようなニュアンスが混じる。

「だったら、言ってくれればいいだろ」

「でも……そういうことを言える雰囲気じゃなかった」

 あんなに毎日不機嫌な態度を取られ、話しかければ叱られて顔を見るだけで嫌味を言われる状況で、抱いて欲しいなんて切り出せなかった。あの頃の栄の態度や緊張感に満ちた生活を思い出すだけで息苦しさが蘇るようだった。

 何をどう伝えれば良いのかわからない。栄を責めたいわけではないのに上手い言葉が見つけられず、焦れば焦るほど尚人は泥沼にはまっていった。

 案の定、尚人の言い訳を聞くにつれ、精一杯冷静を装っていた栄の顔が怒りに紅潮していく。

「何だよそれ、ふざけんなよ!」

 ぐっと握りしめた拳が尚人でなくソファの背面を殴りつけたのは、栄のぎりぎりの自制心だろう。ぎゅっと噛み締めた唇は色を失い、全身が怒りで小さく震えていた。

「俺は……俺はずっと我慢してたのに。おまえがろくに相談もなしに大学辞めたとき、自分で決めたことなら仕方ないって納得しようとした。仕事で死ぬほど辛いときにのんきな顔で『頑張って』『栄なら大丈夫』って言われて、内心じゃふざけんなと思いながらも期待に応えようとしてきた。セックスだってしたくなかったわけじゃない。ただ体も心もきつくて……なのに寂しかったからって……何だよそれ」

 一気にまくし立てる言葉の前半の激しさはどんどんトーンダウンしていく。途中からは尚人に怒鳴っているというよりはひとり言に近かった。

 栄はきっと泣くのを堪えている。そう思った。でもきっと尚人に泣き顔を見せることはしないだろう。昨晩の栄は尚人を抱きながら泣いていたが、あれは背中を向けた尚人には決して栄の顔が見えなかったからだ。栄はそういう男で、だからこそ――栄がいま訴えているような内面の葛藤や苦しみに、尚人はこれまで一度だって気づかなかった。

 栄は優秀だから、栄なら大丈夫だから。何度繰り返したかわからない言葉を思い出す。

 いつから、どこから間違えていたのだろう。

 尚人はずっと栄のことを考えて、栄のためを思ってきたつもりだ。でも、強くて自尊心の強い男だから同情されるのは嫌いだろうと良かれと思ってかけてきた言葉のひとつひとつが栄を苛立たせ傷つけ、追い詰めていたというのだ。尚人が栄の横暴な態度や無理解、無関心に密やかに傷ついてきたのと同じように、栄はこれまで何年間も尚人の言葉や態度に傷ついてきたのだと。

 お互い見当違いの態度で傷つけ合って、それに気づきもしないままただ恋人の形だけを続け、虚しい日々を積み重ねていた。そのひずみの行き着いた果てが、いまのこの有様だ。

「栄……」

 きっと尚人以上に栄の心は痛んでいる、だがどう声をかければ良いのかわからない。尚人はうつむいて体を震わせる栄の名を呼び、かなり躊躇してから手を伸ばした。振り払われることも怒鳴られることも覚悟の上で、そうせずにはいられなかった。

 そっと触れると、栄の肩は驚くほど骨ばっていた。

 抵抗がないので、そのまま抱きしめる。肩幅も、背中の厚みも、何もかもが尚人の記憶している栄とは違っていた。

 外見からも痩せたことに気づいてはいたが、ここまでとは思わなかった。スポーツマンだった栄の体はしっかりと筋肉で覆われていて、裸で向き合うたびに尚人は貧相な自分を恥じたものだった。だがいまではほとんど尚人と変わらないほど、いや、もしかしたらもっと――その体は薄く頼りない。

 そういえば、栄が尚人の前で着替えなくなったのはいつからだろう。昨晩の行為でもまったく素肌を晒さないままに尚人を抱いた。栄は栄なりに必死で尚人の前で虚勢を張って、理想の恋人を演じ続けようとしていたのだろうか。

「栄、ごめん。……ごめんなさい」

 栄の骨ばった体を腕に感じながら、尚人はただ謝罪の言葉を繰り返した。

 黙ってじっと抱擁されていた栄が、やがてゆるりと顔を上げる。

「ナオの言い分はわかったよ。俺にも――悪いところはあったんだと思う。確かにいくら忙しかったとはいえ、おまえに冷たい態度を取った時期もあるし」

 決して振り払うようではなく、柔らかい動きで尚人の体を遠ざける。その表情からさっきの激しい怒りは消えていた。だが栄は次の瞬間、尚人がもっとも聞かれたくなかったことを直接的に問いかける。

「でも、それはそれとして俺は相手の男が許せない。どこのどいつなのか、名前、職業、全部言えよ」

「そ、それは」

 尚人は言い淀んだ。ホテルから出てきた尚人を捕まえた時点では相手の男を引きずり出すと息巻いていた栄だが、その後は特に話題に出さないので、関心は逸れたのだと気を抜いていた。なのにここで蒸し返されるとは。

 栄には心底申し訳ないと思っているし、これ以上嘘をつきたくはない。だが、それ以上に未生を巻き込むのは嫌だった。あくまで悪いのは未生と寝ることを選びずるずると関係を続けた自分だ。責任を取るのは尚人ひとりでいい。

 こうなってしまった以上未生との関係は終わりだ。以前に未生のアルバイト先で出くわした男は、恋人に浮気を疑われていると話しただけで未生に関係を切られたと言っていた。たとえ栄が尚人を許そうが許すまいが、面倒ごとを嫌う未生は必ず尚人を切り捨てるだろう。

「もう二度と会わないし、連絡は取らない。だから」

 相手の名前だけは勘弁してくれ、という言葉は苛立ちを隠さない栄にさえぎられる。

「そういう問題じゃないって、何度言えばわかるんだよ」

 そして栄はセンターテーブルに手を伸ばす。あっと声を上げる間もなく置いたままだった尚人のスマートフォンをつかみ取り、自然な仕草でパスコードを解除した。

「栄……っ」

「卑怯だって言いたいのか? でも俺は、このあいだおまえが浮気相手と約束しているところを偶然聞くまで一度だって携帯を見ようとしたことすらなかったよ。馬鹿みたいだけど、ナオがこんなことするはずないと思ってたからな」

 そして、何も言えなくなった尚人に向かって通話履歴の画面を示す。名前こそ登録していないが、そこには不自然なほどの頻度で未生の電話番号が表示されていた。

「おまえが素直に名前を言うか、それともいまここで俺がこいつに電話するかだ。このあいだ自分のスマホから掛けたときは非通知だからか無視されたけど、おまえの番号からの着信だったらセックスの誘いだと思って喜んで飛びついてくるんだろうな」

 栄が画面をタップすると発信ボタンが浮かび上がる。指を近づけたまま栄は尚人の返事を待っていた。

 昨日、未生はあの後どうしただろうか。家に帰ったか、それともホテルに泊まってそのまま大学に出かけたか。いずれにせよ何も知らない未生は尚人からの連絡だと疑わず電話を取るだろう。

「待って栄。お願い、お願いだから……」

 栄がスマートフォンに向けていた顔をちらりと上げる。尚人はどうすれば未生を巻き込まずにすむかを必死に考えた。

「言うから。名前、言うから……だから彼には連絡しないで。悪いのは全部僕だから、彼を巻き込むのは……」

 焦りのあまり未生を庇いだてする言葉を重ねてしまい、栄が不快な表情を見せる。だが少し考えてから栄はいったん画面から指を離した。

「わかったよ、おまえがそこまで言うなら」

 栄の言葉をどこまで信用していいのかわからないが、いま頼ることができるのはこの言葉だけ。尚人は一度小さく深呼吸をして、栄の目を見ることができないまま口を開いた。

「家庭教師で行っている家の、生徒の……お兄さんで……」

「名前は?」

 膝の上に置いた手をぎゅっと握る。ごめん、と心の中で謝ってから尚人はその名を告げた。

「笠井、未生くんという……大学生」

 とうとう言ってしまった。未生への罪悪感と、栄の反応を恐れる気持ちで尚人はぎゅっと奥歯を噛み締めた。栄はどうするだろうか。約束を反故にして電話を掛けるだろうか。昨日言っていたように、本気で相手の男を殴るつもりでいるのだろうか。

 しかし意外なほど栄は静かだった。十秒、二十秒、反応がないことに不安を覚え尚人は顔を上げる。栄の顔面は蒼白だった。

「笠井未生って、あいつか……?」

 ようやく返事をした栄が何を言っているのか、尚人にはまったく理解できなかった。

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