「栄?」
黙ったままの栄に、尚人が落ち着かない視線を向けてくる。
笠井未生、という名前を聞いてすぐに浮かんだのはパーティ会場で挨拶を交わした若者の姿だった。続いてあのときの未生の奇妙な態度を思い出す。最初にパーティ会場の場所を訊ねてきたときにはそんな素振りすら見せなかったのに、名刺を渡した途端に栄に見覚えがあるのだと言い出した。いま思えば不自然この上ない行為の意味を、栄はようやく理解した。
「そいつだよ、このあいだ俺が話したクソ政治家の馬鹿息子っていうのは」
「え?」
尚人の顔に驚愕の色が浮かぶ。栄は構わずその肩をつかんで揺さぶった。
「おかしいと思ったんだ、俺は十番の駅なんてほとんど使わないのに見覚えがあるなんて。ちくしょう、あいつは何もかも知ってたのか。おいナオ、あいつに俺のことを話したんだろう?」
未生はおそらく、栄が尚人の恋人であることに気付いて鎌をかけてきたのだ。もしくは顔までは知らず、名前を見てはじめて目の前の男が栄だと気づいたのかもしれない。
いずれにせよあのときの未生は「寝取った男の恋人」に対して嘲笑や哀れみや優越感を抱いていたに違いなく、一方の自分は何も知らずただ間抜けに愛想笑いを浮かべていた。あんまりな話だ。
「栄、駅って? それに政治家って……彼と何の関係が?」
尚人は栄の言動を理解しかねているようだった。よっぽど尚人の嘘が上手いのでなければ、未生はあの日のことを尚人には話していないのだろう。それどころか尚人は未生の父親が衆議院議員の笠井志郎であることも知らない。
「そいつ、俺が前にパーティで出くわして紹介された議員の長男だ。言っただろう、態度も服装もなってない奴がいたって。あいつ、俺の名刺を見て麻布十番に住んでるんじゃないかって話しかけてきた。きっとおまえのことを知っていたからに違いない」
「そんな、まさか……」
そう言いながら首を振るが、尚人も栄の言葉を否定できるだけの材料は持ち合わせていないようだった。
漠然としたイメージに姿かたちが肉付けされていく。思い出すのは昨晩の尚人の痴態。栄の知らなかった場所に触れて尚人の体をあんなにも変えてしまった――頭の中で、あの日見た青年の姿が裸の尚人に重なる。抱きしめて、キスをして、深い場所まで触れて――これ以上続ければ気が狂いそうで、栄は何とかして妄想を振り払おうとした。
「まったく良いザマだな。親父には仕事で痛めつけられて、息子に恋人寝取られるなんて。ったく、なんでよりによってそんな奴と」
確かに見目のいい青年ではあった。だが、態度もマナーもなっていないたかだか二十歳そこそこの名もない大学の学生だ。自惚れるわけではないが男としての価値は圧倒的に自分が上であるはずなのに、そんな相手に尚人を寝取られた。
何より――その男は、ここ最近の栄を苦しめている元凶である笠井志郎の息子なのだ。法案がほぼ片付いた後も帰宅が遅い日が続いて尚人と過ごす時間が十分取れずにいたのも、度重なる呼び出しや追及に胃の痛みが止まらないのも、それこそ過労とストレスで勃起障害を起こしていたのも何もかもは笠井事務所のせいだ。無能なくせに声だけ大きい典型的な田舎社長と、人を食ったような態度の秘書の姿を思い出し歯噛みする。しかも、栄を仕事で追い詰めるだけでは収まらず、その息子が尚人を呼び出しては抱いていただなんて。
父親と息子が別人格であることは頭では理解している。あの日、パーティの途中で再び羽多野に呼び止められ、未生が前妻の息子で父親との折り合いが悪いことも聞いた。だがそんなこと栄には関係のないことだ。
栄の中で自らを脅かすすべての理不尽が繋がり、ひとつになり、その絡まりは理性を総動員したところで解くことなどできない。ただの浮気相手を憎む以上の強い感情を、栄は笠井未生という青年に抱いた。
――絶対にあの男にだけは負けたくない。尚人を渡したくない。
栄はひとつ息を吐き、尚人の顔を正面から見つめる。
「ナオ、ただセックスしたかっただけだって言ったよな。だから他の男と寝たんだって」
突然の露骨な質問にどう答えるべきかわからないのだろう、尚人の視線が泳いだ。だが栄はその先を追って強引に目と目を合わせ、更に畳みかける。
「だったら、もう必要ないよな。ナオがそんなにしたくて堪らないなら、今日から毎晩だって俺が抱いてやるから」
「……栄」
栄にしてみれば完璧な解決策だった。尚人の浮気は不愉快な事実だしひどく傷つけられた。だがその理由がただのセックスレスであるならば、話はそう難しくない。EDを疑い悩んでいた昨日までの自分ならばともかく、昨晩の栄は尚人に欲情しその体を抱いた。不安を抱いていた男性能力に問題はないどころか、激しい嫉妬の感情はむしろ栄の興奮を掻き立てた。
以前の栄は正直言って、尚人の反応や衛生面などいろいろなことを気にしすぎてセックスに没入するタイプではなかった。恋人を無我夢中で欲しがり貪る激しい欲情を知ったのは昨晩が初めてだと言っても嘘ではないくらいだ。コンドームもつけずに挿入してそのまま尚人の中で果てた、あれは肉体的な快感だけでいうならばかつてないほど強烈なものだった。
いまの自分ならば尚人を抱けるし、あの男よりも満足させることができる。いや、そうしなければ崩れかけたプライドは決して立て直せないだろう。何かがおかしいと感じる理性には蓋をして、栄は歪な答えにしがみついた。
「それとももう、俺のことは好きじゃなくなった?」
栄がそう訊くと、尚人の表情に影が差した。
「……好きだよ。前も、いまも、ずっと」
甘い囁きには寂しさが混じる。それが逃げ道を塞いだ質問に観念したからなのか、それとも恋人から改めて気持ちを確認されなければいけない状況に胸を痛めているからのか、栄にとってはどちらでもいいことだ。
「だったら俺が嫌がることはもうしないって約束できるよな」
言質を取った栄は再び尚人のスマートフォンを取り上げ、自分で操作する代わりに尚人に押し付けた。
「俺が笠井未生に連絡するのは嫌なんだろう? だったらおまえがいますぐ連絡して、もう二度と会わないって言えよ。家にも二度と行かないって」
尚人が栄とやり直すのなら、未生と手を切るのは当たり前のことだ。何よりさっき尚人自身が、もう二度と未生には会わないし連絡もしないと言い切った。
だが栄は尚人を完全に信用したわけではない。尚人の性格を思えばすべてを自身で背負い込もうとしているに違いなく、実際の彼らの関係は違っているのではないか。尚人が一方的に誘ったのではなく未生の側からもしつこく言い寄られていたのではないか。それはパーティ会場での挑戦的な態度からしても明らかに思えた。
だから、ただ黙って連絡を絶つのでは足りない。ちゃんと尚人の口から未生に別れを告げさせなければ、栄の不安は決して消えない。
だが尚人は栄の言葉にすぐにはうなずかなかった。
「彼と会わないのはもちろんだけど、家に行くのはただの仕事で……」
要するに、未生との関係と家庭教師の仕事は別物だと言いたいのだ。
週に一度笠井家へ足を運ぶのはあくまで弟への授業が目的で、基本的にその時間は未生も自宅にはいない。だから仕事は続けさせて欲しい。そういった内容をたどたどしく訴えてくる。もちろん栄には受け入れがたい話だ。
「でも、そもそもは授業のために家に通ったことがきっかけなのに、関係ないなんて言えないだろ? 家庭教師なんかいくらだって替えがきくんだから、理由つけて担当変えてもらえよ。それが無理なら仕事なんか止めてしまえ。俺の稼ぎで食っていける」
愛情と執着と、憎しみ。もはや何が何だかわからない。栄はなかなか返事をしない尚人に苛立ち、更に言葉を強めた。
「ナオがどうしても嫌って言うなら、あいつの親父に相談すればいいのか? お宅の息子さんに恋人を寝取られて困ってますって」
もちろん栄だって自分の社会的身分が惜しいから、笠井志郎相手にそんな話をするつもりはない。ちょっと大げさな脅し程度の気持ちで口にした文句だったが、効果はてきめんだった。顔色を変えた尚人は電話を握りしめ、覚悟を決めたように訴える。
「待って、電話する。言うとおりにするから」
その声は冷たい刃物のように栄の心を撫でた。
自分はどうにかしている。こんな手段をとらなくてもただ過去の態度を謝るだけで良かったのではないだろうか。愛しているから戻ってきて欲しいと訴えるだけで、尚人は迷わず自分を選んでくれたのではないか。でも栄は、自ら尚人の本心を聞き出すことを放棄し安易で強引な方法に逃げた。もはや後戻りはできない。ただいまは尚人を手放したくない。あの男にやりたくない。その気持ちだけ。
栄は尚人に、会話が自分にも聞こえるようスピーカーホンにして未生と話すよう言った。
「どうしたんだよ尚人、こんな時間に珍しいな」
スピーカーから聞こえてくる声はくつろいだ響きで、尚人と未生の親密さが感じられ面白くない。
栄の苛立ちが伝わったのだろう、尚人は少しあわてたように早口でまくしたてる。
「あのさ、未生くん。何も言わないで聞いて欲しいんだけど、君とはもう会わない」
「……は?」
未生は寝耳に水、といった様子だ。
当たり前だ、間抜けな若者は昨晩ホテルで楽しんだ後も何も知らずに過ごしていたのだ。そして、また数日たてば同じように尚人と待ち合わせてセックスするつもりでいたのだろう。だが、浅はかなガキの思い通りにはいかないんだ――栄は心の中で未生を罵った。
「会わないし連絡もしないから、君もそうするって約束してほしい」
「どうしたんだよ、急に」
尚人はちらちらと横目で栄を気にしている。未生が余計なことを言ってさらに事態が悪化することを恐れているのだろう。そして、食い下がる未生相手に困ったように言葉を強くしていく。
「もう必要なくなったから。言っただろ、恋人に抱いてもらえなくて寂しいから君で埋め合わせてるんだって。お互い利害関係の一致って認識だったはずだ」
「それって、つまり?」
かすかな間。そして尚人は言った。
「昨日、恋人と寝たよ。いままで寂しかったことも正直に話して、これからは二人で解決していくことにした。だから君はもう、いらないんだ」
「……いらないって、ずいぶんな言い方だな」
さすがの未生も直接的な言葉に面食らったようだった。たとえ本当に感情の伴わない体だけの関係であったとしても、もういらないなどと言われて平気な人間などいない。だが尚人はただ栄との約束を守ることだけに必死で、未生の返事に込められた気持ちなど一顧だにしない。
「だから悪いけど、さよなら」
一方的な言葉とともに尚人は電話を切る。そうしろと命じたのは自分であるにも関わらず、栄ですら驚いてしまうほど断固とした別れの挨拶だった。
それから尚人は冨樫に電話をして火曜日の夕方に授業を入れることが難しくなったと話した。突然の申し出に冨樫は驚き戸惑っていたが、最終的には「調整してみるから時間をくれ」と話を引き取った。
二本の電話を終えると尚人が疲れ果てたように肩を落とす。一方の栄は、尚人が自分の頼みをすべて叶えてくれたことに満足した。手を伸ばし、労うように尚人の髪を撫でて時計に目をやる。そろそろ十時だから、作業の続きに取り掛かるにはちょうどいい頃合いだ。
「じゃあナオ、そろそろ着替えて出かけるか」
「出かける?」
「ああ、携帯買い替えなきゃ。そのままじゃ、またあいつから連絡来るかもしれないだろう」
そんなもので胸に巣食った不安が消えるとも思えない。脅して、屈服させて、束縛する。これが本当に恋人としての関係をやり直す最善の方法なのだろうか。でも、栄には他に何もない。とにかく一つでも裏切りの可能性を潰すこと、それしか考えられなかった。