64. 未生

 回線の切れた電話を未生は呆然と眺めていた。

 昨日はいつも通りに待ち合わせて尚人と寝た。帰宅するのも面倒だったので未生はそのままホテルに泊まって、二限の授業に間に合うようちょうどいましがた自宅へ着替えに戻ったところだった。

 そこに突然の電話。そして何の前置きもなしに恋人とよりを戻したからもう連絡するなとまくしたてられたところで、ただ驚き言葉を失うだけだった。しばらく凍りついたのちにようやくはっとしてリダイヤルするが、すでに電話は繋がらない。他との通話中か、もしくは着信拒否されてしまったのだろうか。

「なんだよ、尚人のやつ!」

 そこでようやく苛立ちを自覚した。昨晩の尚人に特に変わった様子はなかったし、そもそも別れてから半日も経っていない。心変わりにしたってあまりに唐突すぎる。第一、泣きが入るまで抱いてやった直後に「恋人と寝た」だって? 若くて性欲旺盛な未生にとってすら、あそこからもう一ラウンドというのは現実的ではない。どう見ても体力の限界を迎えていた尚人が、なぜ一年以上もセックスレスが続いている男との関係をこのタイミングで再開するのだろうか。

 未生は自分でも意外なほどに動揺していた。

 関係が永遠に続くと思っていたわけではない。性格的に不貞を良しとはしない尚人を脅したり宥めたりして口説き落としたという自覚もあった。未生自身について振り返っても特定の相手への関心や執着は長くて数ヶ月から半年がいいところだ。未生が飽きるのと尚人の良心が限界を迎えるのとどちらが先かはわからないが、ともかく「しばらく楽しめればそれでいい」という気持ちでいたのだ――少なくとも最初の頃は。

 気持ちが変化しはじめたのはいつからだろう。いくら体を許しても未生には甘ったるい言葉のひとつ与えようとしない尚人のかたくなさ。腕の中に閉じ込めてみたって心は常に恋人の方を見ている、あの一途さに惹かれた。寂しそうに、でも愛おしそうに恋人のことを話す尚人をいつまでも眺めていたいと思った。

 確かに倒錯した感情ではあるが、他人を愛する自信も愛される自信もない未生にとってはこれでも十分すぎる。だからせめて、忙しい恋人がいつまでも尚人を放ったままでいてくれることを願った。でも尚人は、あの男に再び抱かれたと言っているのだ。

 経緯はわからないが、尚人の言葉をそのまま信じるのだとすれば、焦がれてやまない恋人に抱かれ、他の男では代わりにならないことを思い出したということなのだろうか。

 しばらく前に父親の政治資金パーティで出くわした谷口栄のことを思い出す。未生とはまったく異なる、洗練された大人の男。逆立ちしたって敵わない相手であることなんて最初からわかっている。未生はもう一度リダイヤルボタンを押そうとスマートフォンに目を落とすが、どうしてもそれ以上指を動かすことができなかった。

 とりあえず大学には出かけたが、心ここにあらずの状態で一日を過ごした。アルバイト先では珍しくオーダーミスをし、厨房に入れば跳ねた油で腕を火傷した。傷はひどくなかったが、木曜日は普段から客足が多くないこともあり、店長からは患部を良く冷やして今日はそのまま家に帰るよう言われた。

 飽きたから、面倒くさいから、そんな理由で一方的な別れを告げることには慣れている。だが同じことを自分がやられればこの有様だ。滑稽すぎて笑いすら浮かんではこない。

 帰宅すると、父親は今日も家にはいなかった。

 水だけ飲んで部屋に戻ろうとリビングを横切ってキッチンへ向かうと、電話で話す真希絵の声が聞こえてくる。

「……そちらや相良先生にもご都合はあるんでしょうけど、あまりに急すぎませんか? せめて学期末とか、でなければ曜日変更でも」

 うろたえた声。普段は真希絵の行動になど興味を抱かない未生だが「相良先生」という単語が耳に入れば気に留めずにはいられない。わざとゆっくりした仕草でグラスに水を注ぎながら、リビングのやり取りに耳を澄ました。

「お母さん、どうしたの?」

 同じく家庭教師の話だということを察したのだろう、通話を終えた真希絵に優馬が訊ねる。父がいない夜はリビングで母親に見守られながら宿題をするのが優馬の常だった。

「いま家庭教師の会社から電話があって、先生を変更したいんですって。相良先生、火曜日の都合が悪くなっちゃったみたいなの」

「来週だけ? なら僕は別にいいよ」

 物わかりの良い優馬はあっさり了承するが、真希絵はそうではないのだと告げた。

「来週だけじゃなくて、これからずっと」

「えっ?」

 キッチンまで響く真希絵のため息に、優馬がどれほどがっかりした顔をしたのかは想像がついた。

 優馬が尚人のことを気に入っているから、せめてもう少し区切りの良い時期まで待ってもらうか、なんなら曜日を変更して担当を続けてもらうことできないかと真希絵は事務所に頼んではみたようだ。だが一応は要望を預かってはもらえたものの、尚人の授業スロットはすでに埋まっているようで、電話口の担当者は良い返事は期待せずに待っていて欲しいと付け加えたのだという。未生は、浮かない顔をする二人には話しかけないままリビングを出て、二階へ上がった。

 やはり何かがおかしい。納得がいかない。尚人が真面目で人一倍責任感の強い性格であることは知っている。確かに関係を切った後であれば未生には会いたくないだろう。だが、だからといってこんなに一方的に、何の準備もなく仕事までも投げ出すだろうか。

 恋人とよりを戻したとか、未生と会うのが嫌になったとか、ただそれだけの理由で尚人が優馬の担当を降りるとはどうしても思えない。いくらか迷ったが、未生はもう一度だけ尚人に電話を掛けてみる。

 ――お掛けになった電話番号は、現在使われておりません。

 だが、着信拒否どころか、尚人は未生に番号を知られている携帯電話そのものをすでに解約していた。

 尚人が未生との関係を本心から解消しようとしているのならば追いすがるつもりはない。ただ、あまりに性急で一方的な態度にどうしても違和感が拭えない。百歩譲って尚人が本心から未生との断絶を望んでいるのだとして――そのせいで優馬が悲しむのだと思えばやはり平常心ではいられなかった。

 未生は翌日、大学をさぼることにした。朝のうちに、優馬の父を名乗って家庭教師事務所に電話をかけて探りを入れる。

「相良先生は今日は事務所にはいらっしゃいますか?」

「昨日は体調不良でお休みをいただきましたが、今日はそういった連絡もありませんので昼過ぎには出勤するのではないかと。ただ申し訳ありません、昨日連絡差し上げた件でしたらこちらで調整をいたしますので、相良への直接の連絡はご遠慮いただけますでしょうか」

 電話口の女性事務員は、担当替えの件で優馬の保護者が尚人に直接交渉をしようとしていると思ったようだ。その疑いもあながち間違いではないのだが、あえてここで怪しまれるような態度は取らない。

「あ、はい。それはわかっています」

 年齢を高く見せようと、必要以上に低い声で、慣れない敬語を使って、ほんの一分ほどの会話だったにも関わらず未生の精神は消耗した。だが、それで尚人の予定を知ることができたのだから収穫は十分だ。

 前にも一度訪れたことがあるので、事務所の場所はわかっている。ただ、じゅうぶんに近づく前に姿を見られればきっと尚人に逃げられてしまうので身を隠す場所には注意が必要だった。しかも前回の訪問時に顔を知られている家庭教師事務所の代表にも会いたくはない。

 あまり使われていない様子の非常階段脇に潜んで路地に目を向ける。

 自分はこんなところに隠れて何をやっているのだろう。映子や樹――その他これまでに関係を持ち、切り捨ててきた面々がいまの自分を見たら当然の報いだと快哉をあげるに違いない。

 一時間以上も待ってから、ようやく尚人がやってきた。朝電話で話した事務員は、尚人は昨日体調不良で仕事を休んだと言っていたが、確かに遠目に見ても顔色が良くない。

「おい、尚人」

 捕まえられる距離まで近付いてから未生が飛び出すと、尚人は動揺した。予想はしていたことだが、残念ながら歓迎されている様子はない。

 だが、尚人との関係ではそんな反応にも慣れている。

「逃げるなよ、別に嫌がらせのために来たわけじゃない。優馬のことだ」

 逃げてもすぐに追いつかれると思ったのか、尚人はその場に立ちすくみ未生をにらみつける。それから人通りを気にするようにきょろきょろと周囲を見回した。

 職場の周囲で未生と話をしたくないという気持ちは理解できる。なんせ前回ここで尚人を待ち伏せたとき、未生はその目の前で映子と修羅場を繰り広げたあげく、その場で尚人を恋人だと偽りキスまでしてみせたのだ。警戒されるのも無理はない。

「優馬くんのことなら……お母さんと話すから。君とはもう」

 小さな声でつぶやかれたのは拒絶の言葉。だが未生は有無を言わせない強い調子で告げた。

「何も取って食うってわけじゃねえよ。人目があった方が安心なら、そこの通りにコーヒーショップがあっただろ」

 そう言って尚人の腕をつかんだ。振りほどこうとする動きはそれなりに真剣だが、二人には明白な力の差がある。尚人は渋々未生について通りに出た。

 コーヒーショップの店内に入るところでさすがに腕を離すと、幸いなことに尚人はもう逃げなかった。だがかたくなな態度には変わりなく、未生は口を開こうともしない尚人のためにコーヒーと、自分には紅茶を頼んだ。人目のある場所を、などと恰好をつけてみた割に二階席はほとんどがらがらで、パーティションに隠れた場所に座れば二人の姿は誰にも見えなくなる。

「時間がないから手短にしてほしい」

 ようやく口を開いたと思えばそれだけ。コートも脱がずコーヒーに手をつけることもせず、尚人は椅子に浅く腰掛けた。首には普段使っているところを見たことがないマフラーがしっかりと巻いてあった。