65. 未生

「……よりを戻したって、一昨日あれから?」

 正直な話をすれば未生は尚人の言葉を疑っていた。俺とあれだけ抱き合った後で、またセックスをしたなんて嘘だろうと、いうのが本心だが、あまり露骨な言葉を投げても尚人の態度をかたくなにさせるだけだとわかっている。未生は自分なりに穏当な言葉から会話をはじめたつもりだった。

「うん」

 尚人は未生の目を見ないまま小さな声でうなずく。

 改めて近い距離から尚人を見ると、目の周囲の薄い皮膚に隈が透け顔全体に明らかな疲れの色が滲んでいる。昨日仕事を休んでいることといい、あれだけ焦がれていた恋人との夜の生活が再開したにしてはまったく嬉しそうには見えないのが未生の疑いをますます大きくした。

「一年以上も放っておかれたのに、どういう風の吹き回しで?」

「別に、そういうこと未生くんに話す必要ないから」

 出会った頃の冷淡さを取り戻したように、尚人は未生の質問をさえぎった。

 ここ最近では警戒も緩みすっかり打ち解けた様子でいただけに、突然の尚人の豹変は未生を戸惑わせ不機嫌にする。

「何だよその言い方。電話だって一方的で、しかも番号まで変えるなんて」

「ところで、優馬くんの話をするっていうから僕はここに来たんだけど。違うならもう行ってもいいかな」

 取り付く島もない、とはまさにこういう態度のことを言うのだろう。言うことに一切耳を貸してもらえない未生は思わず舌打ちをした。とはいえ逆に考えれば、優馬についての話であれば聞く気があるということだ。

「ああ、前にも話したけど、あいつあんたのこと気に入ってたから急に担当が変わるって言われてショック受けてんだよ。どうにかならないのか?」

 案の定、幼い弟の悲しみを伝えると尚人の瞳がゆらいだ。

「ごめん、それは……」

 未生には感じない罪悪感も優馬が相手ならば話が別というのか。罪のない弟への嫉妬を感じ、そんな自分を恥ずかしく思いながら未生は続けた。

「その時間に俺がいなきゃいいんだろ。約束はこれまでだって守ってるのに、何が不満なんだよ」

 優馬の家庭教師のために尚人が笠井家を訪問しているあいだは家を空ける。未生は尚人との約束を三か月近くも律儀に守ってきた。なのにいまさら自分との関係を理由に仕事を断ると言われたって到底納得はできない。だが尚人は明確な理由は口にせず、ただ首を横に振るだけだった。

「不満とかそういう話じゃなくて、本当にもう火曜日は……」

 そういって顔を背けた尚人の首筋――マフラーの影になった部分に、うっすらと赤い鬱血が見えた。珍しく尚人がマフラーを巻いている理由も、空調の効いた店内でもそれを外そうとしない理由も、つまりそういうことだった。

 未生には決して許さなかったキスマーク。未生との関係を終えたいがために嘘や出まかせを言っているのではなく、尚人が本当に栄と寝たことについては認めるしかない。それにしても、あの常識人っぽい男がなぜわざわざシャツで隠れないような場所を選んで跡を付けたのだろう。未生は無言で手を伸ばして、尚人のマフラーを引き剥がそうとした。

「ちょっと……!」

 尚人は未生の動きに抵抗して、首を覆う布をぎゅっと両手で押さえた。だがタイミングを逸しているため首回りの部分が大きくめくれて隠された肌をあらわにする。

「何だよ、これ」

 未生は思わず息を飲んだ。

 尚人の白い首筋にはいくつもの赤い跡が散っている。しかも、ただ口付け吸ったであろう鬱血だけでなく、歯形までも。シャツのボタンは一番上までしっかりと留めてあるが、それを外せば鎖骨周囲やそれ以外の場所にも同様の跡がたくさん残っているであろうことは確認してみるまでもなかった。

 恋人同士のセックスでキスマークをつけることくらいあるだろう。だが痛々しい噛み跡までも、しかも尚人の性格を知った上で日常生活で隠すのが困難な場所にまでやみくもに跡を付けるというのは――まるで怒りに任せているような――まるで罰と所有の証を刻んだような。

 未生はようやく、一昨日の晩に尚人とその恋人である谷口栄のあいだに何が起きたのかを察した。

「俺と会ってたことがばれたんだな、あいつに」

 尚人は黙ったままマフラーを巻き直し痛ましい首の跡を隠す。返事がないのは未生の言葉を肯定しているも同然だった。

「で、あいつに言われて昨日の電話をかけたのか? 番号を替えたのも? 家庭教師のことだって、あいつにやめろって言われたんだな?」

 意外なほどの怒りに思わず声を荒げた。だが何に対する怒りなのかは自分でもよくわかっていない。

 尚人に酷いことをしたであろう栄。その栄に言われるがままに電話をかけた尚人。一昨晩ホテルから尚人を送り出した後で彼らのあいだで繰り広げられていた修羅場に気付くこともなく呑気に寝ていた間抜けな自分。何もかもに腹が立った。

 だが、感情を乱す未生に対して尚人は表情ひとつ変えず冷淡に言い放つ。

「だから、君には関係ないって言ってる。僕と栄の問題に口を出さないでくれ」

「でも、俺とのことでこんな……」

 いくら口を出すなと言われたって、あんな首筋を見ては黙ってはいられない。それに未生と寝ていたことで尚人と栄のあいだに問題が生じたのならば、それは同時に未生の問題でもあるはずだ。

 尚人はしばらく自身の膝をじっと見つめていたが、やがて再び口を開いた。

「そうだね、言われてみれば確かに君のせいでもあるかもしれない」

 それからゆっくりと顔を上げると、暗く澱んだ目で未生を見た。今日、尚人が未生を正面から見据えるのはこれが初めてだった。ほんの一瞬やりきれない色が浮かび、しかしそれが消えると尚人は突然強い言葉で未生を非難する。

「未生くん、君のお父さんのパーティで栄と会ったらしいね。家の場所を聞いたりするからおかしいと思ったって言っていたよ。どうして余計なことしたんだ」

 未生は言葉に詰まった。黙っていればばれないと思ったのに、あのときのことまで知られていた。興味本位で余計なことをしてしまったと後悔するが、いまさら取り返しはつかない。

「つまり、俺のせいでばれたって言いたいのか?」

「違う、悪いのは僕だよ。僕の意思で未生くんと会い続けて、最終的には電話を……電話を聞かれたから。でも……君があんなに強引に声をかけてこなければ、もしかしたら最初から」

 どうやら未生が動揺しているのと同様に、尚人も混乱しているようだった。不貞がばれたのは未生のせいだと言ってみたり、やはり自分のせいだと訂正したかと思えば再びそれを撤回する。その混乱は、なおさらに尚人に尋常ではない何かが起こったことを確信させた。

「尚人」

 未生は手を伸ばして尚人の肩に触れようとした。あの男とのあいだに何があったのか、何を言われて何をされたのか。まずはそれを聞かないことには始まらない。しかし尚人はその手を振り払うどころか、触れるなとばかりに未生をにらみ返す。

「栄とやり直すって決めたから、君とはもうお終い。お互いそう約束してたじゃないか」

「でも、それがやり直すって奴のやることか?」

 こっちは心配しているというのに、尚人はひたすらにかたくなだ。拒絶されればされるほど未生はむきになり、思わずテーブルを叩いた。それから自らの立てた音にはっとして衝立の向こうを見るが、幸い窓際の席にいる二人組の女性はおしゃべりに夢中で奥の席で繰り広げられている不毛な言い争いには気づいてもいないようだった。

 トレイの上では手を付けられないままコーヒーと紅茶からすでに湯気が消えている。

「そういうこと、君が言うの? さんざん人を脅したくせに」

 尚人は質問に答える代わりに、そう言って未生を批判した。

 首筋を噛んだ恋人と、出会い頭からほとんど脅迫のようなやり方で尚人に近づいた未生と、どっちがより酷い人間なのか。問われれば未生の立場は弱い。

「それは確かに悪かったけど。でも俺は一度だってそんな傷は……」

 せめてもの反論に対して尚人は一度唇を結んで何かを考えるようなそぶりを見せた。その先を言うかどうか迷っているような――そして再び口を開く。今度はしっかりと意思の込められた目で未生を見つめながら。

「だったら、僕が栄と別れたらどうするの? 君は僕に何かしてくれるの? 前に女の子に酷いこと言ってたよね。このあいだお店で会った男の子だって、ちょっと面倒なことになったら君にあっさり別れを告げられたって言ってた。僕にだって同じことをするつもりだったんじゃないのか?」

「それは……」

 容赦ない問いかけは、完全に未生の弱点を捉えていた。

 尚人を好きだと思った。傍に置いて見ていたいと思った。でもそれはあくまで「栄を好きな尚人」を無責任な立場から眺めていたいという欲望で、ほんの少しその愛情のおこぼれをもらえれば、未生はそれで満足だったのだ。

 フラッシュバックのように色あせた景色が蘇る。古い小さなアパートの一階で膝を抱えている自分。父親はずいぶん前にいなくなった。母親は朝になると酒と香水のにおいをさせて帰ってくる。学校には行けない。だって、そのあいだに母までもいなくなっているかもしれないから。

 いつからか母が未生に話しかける口調がぞんざいになった。たまに知らない男の人と帰ってきて、しばらく外で遊んでくるようにと千円札を渡される。一度早めに戻ってきたら、畳部屋に敷きっぱなしの布団で母と男が裸でもつれあっていた。行為の意味はわからなかったが、それ以降布団が汚く感じられるようになって、未生はひとり毛布にくるまって眠るようになった。

 未生には責任を負うことなどできない。もしも尚人を恋人から奪ってみたところで、そこから何ができるだろう。何を尚人に与えられるだろう。だってこの手の中には何ひとつ持っていないし、人を愛する方法も愛される方法も知らない。

 黙り込んだ未生に、尚人は冷たくこわばった笑顔を向けた。

「僕には何もなかったんだ。真面目なだけで面白味もなくて、努力したところで何も成し遂げられない。でも栄はそんな僕に手を差し伸べて、選んでくれた。僕はその期待に十分こたえられなかったけど……それでも栄はやり直したいって、僕が必要だから一緒にいたいって言ってくれてる。だから、きっとこれからは……」

 間違っている。尚人は絶対に間違っている。

 だが未生には尚人の何がおかしくて、どうすればその考えを正すことができるのかわからない。かろうじて口にできたのは、負け惜しみにも似た言葉だけだった。

「そうやって自分で自分の価値も決められないまま、ずっと他人の評価にすがって生きていくつもりなのか?」

 尚人の頬がさっと赤く染まる。そして未生は、自分の言葉が尚人を救うどころか深く傷つけたのだと知った。

「誰ともまともに向き合わずに生きていくつもりの君よりは、ずっとましだと思ってるよ」

 尚人はポケットから財布を取り出すと、手をつけなかったコーヒーの代金をトレイに置いて立ち上がる。そのまま歩き出して、階段を下りていく背中が見えなくなるまで一度も未生の方を振り返ることはなかった。