階段を駆け下りコーヒーショップを出てからも尚人は一度も振り返らなかった。ほとんど小走りのような速さのままで事務所の入っているビルまで急ぎ、エレベーターホールに入ったところでようやく一息つく。
呼吸を整えてからおそるおそる後ろを向くが、未生の姿はなかった。いや、未生が追ってきていないことなど最初からわかっていたのだから、わざわざ振り向いて確認する必要こと自体が馬鹿げているといっていい。二人の体力の違いからすれば、未生がその気になれば十メートルも進まないうちに尚人の腕をつかんでいたことだろう。
未生が追ってこないのは当然だ。だって、尚人は彼にひどいことを言った。
当初の未生の強引さを蒸し返すのも、過去の相手への不実をなじるのもいまさらの話だ。尚人は未生がそういう人間だと知った上で彼と寝たし、前提条件が崩れればすぐに終わってしまう関係だということだって知っていた。パーティで未生が栄に話しかけた件だって、それが原因になって栄に不貞がばれたわけではないのだ。
――自分の価値も決められないまま、ずっと他人の評価に縋って生きていくつもりなのか?
あの言葉に腹が立ったのは図星だからだ。
自分には何もないから、栄のような人間に選ばれて嬉しかった。栄と一緒にいて彼の前向きさや揺るぎなさを知るほどに、いつかは自分もあんな風になれるのではないかと夢を見た。でも、やはり尚人はいつまで経っても尚人のままで何も変わらず、その栄を裏切り傷つけておきながら、いまも必要としてもらえることだけに寄りかかろうとしている。
未生もまた尚人のわがままの被害者と言っていいだろう。栄が与えてくれるものを手放したくはなく、一方でそれだけでは息苦しいなどと言って未生との気安い関係を求めた。そして、いざ場当たり的な行動のツケを払う段階になれば、八つ当たりに近い感情でこれまでの苛立ちをぶつけ、売り言葉に買い言葉で未生の人間性を否定するようなことまで口にした。
考えれば考えるほど後悔と自己嫌悪でどうにかなりそうだが、ひとまずいますべきことは目の前の仕事をこなすことだ。尚人は一つ深呼吸してエレベーターに乗り込むと、事務所のある階のボタンを押した。
事務員に挨拶を済ませてから冨樫の部屋へ向かう。昨日の急な休みで迷惑と心配をかけてしまったに違いない。
「冨樫さん、おはようございます。昨日は急にお休みしてしまって、すみませんでした」
そう言って頭を下げると、冨樫はしげしげと尚人の顔を見つめながら椅子を勧めてきた。
「まだ顔色悪いみたいだけど、大丈夫なのか?」
「熱は下がったんですけど、喉がまだちょっと痛くて」
もちろん嘘だが、こう言っておけばマフラーを外さない理由付けにもなるだろうという浅知恵だった。あからさまな性交の痕跡を見せつけて歩くような勇気はない。行儀が悪いのは承知の上で、あと数日だけは仕事先でもこの言い訳で通すしかなさそうだった。
体調の確認が終わると冨樫は仕事の話をはじめる。
「昨日の分は、斎藤さんと野田さんはキャンセルOKで、後は振り替え希望だってさ。後で事務と日程調整して」
「本当に、お手数かけて申し訳ありません」
急な予定変更で生徒にも事務所にも迷惑をかけた。何もかもが自分の浅はかな行動のせいだとわかっているだけに、尚人はひたすら頭を下げた。
「いや、病気くらい誰にだってあることだから。まあ専任講師と一緒にするわけにもいかないが、学生バイトなんか試験だ旅行だってしょっちゅう予定変更だよ。……それより、相良の場合は笠井さんとこの方がなあ」
そう言われてぎくりとする。確かに体調不良を理由にした単発の予定変更よりも、こちらの方が問題視されるのは当然だ。一切の予告もなしに突然担当を辞めたいと言われて優馬や母親が困惑しているのは未生や冨樫に言われるまでもなくわかっていた。
「笠井さん……お怒りでしょうか」
「怒っちゃいないけど、できれば講師は代えてほしくないと。火曜の夕方がどうしても駄目なら別の曜日でもいいって話なんだけどさ」
「ただ、他の日も埋まってますし。ちょっと、それも」
さすがに冨樫を直視することができず尚人はうつむいた。あの家に行くこと、あの一家と関わりを持つことそのものをやめると栄と約束したのだから、いますぐ優馬の担当を辞めること以外に解決策はない。
「それにしたってちょっと急だし。もしかして生徒や保護者との関係で何か問題でもあるのか? 親が面倒だとか」
尚人は動揺が顔に出ないよう必死だった。未生が一応優馬の兄である以上、保護者との関係でのトラブルというのはあながち間違ってはいない。ただ、その理由が――仕事とは何の関係もない、とても口に出せないようなものであるだけで。
「いえ、そういった問題はありません。優馬くんはいい子ですし、お母さんもいい方で……。なので、僕以外の先生とも上手くやっていけると思います」
むしろ僕なんかより、と口の中でつぶやく。優馬の前では優しい先生ぶっておきながら陰で彼の兄と寝ていた。家族がいないあいだに家に上がり込みすらした。これまで平然とあの家に出入りしていたことの方がどうかしている。
尚人に交渉の余地がないことを悟ったのか、冨樫はあきらめたように息を吐いた。
「……まあ、縛り付けてでも連れてこいってノリじゃあなかったし、どうしてもっていうなら仕方ないけど。ただ、こういう話はもっと早めに言ってくれよ。いくら相良の言うことだって毎度毎度無理は聞けないからな」
私情であちこちに迷惑かけて、これでは社会人失格だ。研究も仕事もできず、栄の恋人としても失格で、自分には人並みにできることなど何ひとつないような気がして尚人は肩を落とした。
何とか気持ちを立て直してその後の予定をこなした。マフラーのことを聞かれる瞬間こそ気まずいが、子どもと向かい合っているあいだだけは何もかもを忘れることができる。そういえば、笑顔を浮かべるのすら二日ぶりだ。
帰宅するとすぐにテレビをつけて、画面を写した画像を添付して栄に帰宅連絡のメッセージを送る。テレビ画面の写真は、確実に家に帰ったという証拠だ。
栄は尚人の新しいスマートフォンにGPS追跡のアプリを入れた。一週間の仕事の予定表も渡してある。つまり、尚人がいつどこにいるかは完全に栄に把握されているということだ。後ろめたいことをしないならば嫌がる理由がないというのが栄の言い分で、それは確かに正論ではある。
居場所を明らかにすることのほかにも約束はいくつもある。毎晩栄の寝室で一緒に眠ること。他の男と二人で会わないこと。栄が求めればいつだってPCもスマートフォンもすべてを見せること。
着替える前にシャワーを浴びる。浴室の鏡に映る自分の姿は痛々しくて正視するのも嫌だった。せめて見える場所に付けられた跡だけでも早く消えてはくれないだろうか。
昨日もセックスをして、あんなに淡白だった恋人と同一人物であるとは信じられないくらい、栄は尚人の体中に行為の証拠を残すことに執着した。
栄が帰ってきたのは日付が変わってからだった。いまの状況で栄を待たずに先に寝るという選択肢はないから尚人はダイニングテーブルで教材の準備をしながら待っていた。
「おかえりなさい」
できるだけ普段通りの声を出すよう努める。栄は尚人の姿を見て一度は満足げに笑ったが、それから尚人がすでに寝間着に着替えていることに気づいて顔をしかめた。
「着替え、これからは俺を待つようにしろよ。おまえ、あいつとヤった後俺にばれないように風呂入ってただろ。シャンプーのにおいを指摘されたからって」
「……わかった」
昨日、未生と出会ってからの何もかもを白状させられた。当初の未生がひどく強引であったこと以外はほとんどすべて正直に話したが、中でも栄をひどく怒らせたのは最初に寝た晩のことだった。
不用意な言葉で尚人を傷つけたことを後悔して、不安で一睡もせずに待っていたのに当の尚人は他の男を誘ってホテルに行っていた。しかも髪のにおいを指摘されれば平然と漫画喫茶に泊まったなどと嘘をついた。栄の怒りはもっともだ。
「重いとかうざいとか思うかもしれないけど、俺はいまナオのこと信頼できてないから。信用取り戻すまでは言うとおりにできるよな? こっちもやりたくてやってるわけじゃない」
「わかってるよ」
尚人がうなずくと、栄はコートを脱ぎ捨ててバスルームへ向かう。さっき鏡で見た自分の顔色は相変わらず優れなかったが、栄だって負けず劣らずひどい顔をしていた。
栄はほんの十分ほどで戻ってきた。もともと平日はシャワーで済ます日が多いが、それにしても早い。ドライヤーの音はしていたが、髪もまだかなり湿っている。
「ビール出そうか?」
尚人はテーブルの上の教材を片付けながら訊ねた。だが意外にも栄は毎晩の習慣である晩酌を断った。
「いらない、そんな時間もったいないから」
そのまま尚人に歩み寄り、髪に口付けながら腕を腰に回してくる。さすがに三日連続はないだろうと思っていた尚人は驚いた。
「今日も……するの?」
思わずこぼした言葉は恋人の感情を害するには十分だった。栄の表情がきつくなり、尚人の腕をつかむとそのまま強引に寝室へ歩き出す。
「今日もってなんだよ。セックスが物足りなくて浮気したのはナオの方だろ?」
「でも、もう遅いし栄も疲れて……」
明かりを消す猶予も与えられずリビングの電気もエアコンもつけっぱなしだが、栄は気にする様子もない。真っ暗な寝室に入ると小さなライトだけ灯して性急に尚人を押し倒した。
「それとも俺とするのは嫌? 笠井じゃないとだめな体になったのか?」
「そんなこと言ってない」
もちろん昨日や一昨日のような暴力的なやり方は本意ではないけれど、栄と寝ること自体は嫌ではない。でも、こんなのは――。
「気にくわないよ、あいつにしたこと全部俺にもしろよ。あいつにしてもらったことも全部言え、俺だって全部やる……それ以上のことだってしてやるから。口は? 使ったのか」
その質問に答えられない尚人を、栄は当然許そうとはしなかった。
「質問に答えろよ。また見えるとこ噛まれたいのか?」
首筋に温かい息がかかり、ぞっとする。その感覚が恐怖なのか性感なのかわからず尚人が身をよじると、栄が軽く歯を立ててくる。このままだと本気でまた首を跡だらけにする気だ。尚人は栄の脅しに屈した。
「……何度かは」
嘘にはならないぎりぎりの回答を聞くやいなや栄は尚人の髪をわしづかみにする。無言で導かれて、同じことをしろという意味であることは理解した。
まだ兆していないものを取り出し、そっと握って舌を這わせた。昔の自分がどのように栄のものに触れていたか思い出せない。だからといっていまのやり方で奉仕すればきっと未生の影を感じた栄は怒るだろう。尚人はどうしたらよいのかわからず、手の中にある恋人の欲望を持て余した。
栄もこんなことを本心から望んでいるのではない。疲れた顔、やつれた体。いまからセックスして、睡眠時間はどれだけ取れるだろう。ひどい言葉を投げられて、強引に貫いて、でもそんな行為に傷ついているのは尚人だけではない。
栄はこのままでは本当に壊れてしまうのではないか――嫌な不安が胸の中で渦巻く。でもそれを止める方法を尚人は知らない。いまできることはただ、栄の望みどおりに体を投げ出すことだけ。