67. 栄

 寝ていていいと言ったが尚人は朝、栄の出勤前に一緒に起きて来た。シャワーを浴びているあいだにコーヒーが淹れてあり、そういえば昔の自分たちの生活はこんな風だったことを思い出した。

 尚人が帰りの遅い栄を待たなくなったのも、朝の出勤に合わせて起きてこなくなったのも、栄がそんなことをするなと怒ったからだ。いくら仕事が忙しかったからといって尚人をないがしろにしていたことには疑いようもなく、振り返れば反省や後悔もあるのだがいまは正面切って向かい合う気になれない。

 怒りは消えない。尚人へも、自分へも――そして人の恋人に手を出したクソガキ、仕事の忙しさや理不尽な要求ばかり突き付けてくる関係者、無責任な上司……疲れ果てた栄を動かしているのは激しい怒りと悔しさだけだ。そしてその反動のすべては、わかりやすい間違いを犯した尚人に向かっている。

 栄の提示した信頼回復への要件のすべてを尚人は飲んだ。あの男に絶縁を告げ、弟への家庭教師もやめた。携帯電話の番号を変え、居場所は常に栄にわかるようにした。ベッドに引き込めば拒むことはないし、栄の求めることすべてに応じてくれる。苛立った言葉を投げれば怯えるものの、それ以外のやり取りでは笑顔を浮かべできるだけ自然に、普段の生活を取り戻そうとしているように見えた。

 でも栄だって馬鹿ではない。自分の行為が一線を越えつつあることはわかっている。こんなことで尚人の気持ちを引き戻せるかだって怪しいものだ。

 尚人が栄の要求を受け入れるのは恋人を裏切った負い目があるから。でも、そもそも尚人はなぜ一度も別れを口にしないのだろう。笠井未生に気持ちが移ったならば何度だって出ていく機会はあった。尚人がそれをしなかったということは、本当に尚人の言う通りあれはセックスレスの欲求不満を解消するための浮気だったと受け止めて良いのだろうか。だが、もし尚人の気持ちがまだ自分に残っているのだとしても、こんなことを続けていたらいずれ二人とも疲弊してしまう。

 昨晩も尚人を抱いた。前日仕事を休んだため大量のメールや問い合わせ対応に追われ、わずかな休憩も取れないくらいに忙しく一日を駆け抜けた。本当ならばくたくたでシャワーも浴びずに眠ってしまいたいくらいだったが、尚人の顔を見たらどうしても自分を止めることができなかった。

 栄はここ数日で、怒りがセックスの動機になりうるのだということを知った。疲れ果てて、普通ならばとてもではないがセックスなどできそうにないような状態でも、尚人を見て触れて、この体が何度もあの男に抱かれたのだと思うと不思議と体は熱くなった。あんなにも男性機能で悩んでいたのが嘘のようで、この手の問題のほとんどが心理的な原因によるものだという話は正しかったのだと妙なところに感心してしまうほどだ。

 ただもちろん性行為をすればしただけ体力も睡眠時間も削られる。体調についていうならば、かつてないほど最悪だ。

「……で、ちょっと。ちょっと谷口さん、聞いてるんですか!」

 ステレオのボリュームを上げたときのように、急に目の前の男の声が大きくなり、栄ははっとして顔を上げる。

「ええ、もちろん聞いております!」

 あわてて身を乗り出して真剣さをアピールするが、陳情中であるにも関わらず意識を飛ばしかけていることにはすっかり気づかれてしまった。男は腕を組みなおして、不満そうに続けた。

「あのさあ、こっちだって暇持て余して上京してるわけでもないんだからさ。そういう『とりあえず聞いてりゃいいんだろ』っていう態度じゃ困るわけ。笠井先生にも尽力してもらってるんだし、そろそろ何かいい返事のひとつくらいないの?」

 特例法を巡る笠井事務所とのやり取りはまだ続いていた。変わるのはたびたび上京してくるメンバーの顔触れの一部くらいのもので、もともと既に終わっている議論を蒸し返しているだけの不毛なやりとりは完全な膠着状態にある。

「ええ、ですからいただいたご意見は次回の制度見直しの際に」

「だから、次回じゃ遅いんだよね。それまでにうちの工場が潰れたら、あんたが責任取ってくれんの?」

「いえ、それは……」

 栄が下を向いたところで、隅に座っていた羽多野が立ち上がる。

「申し訳ございませんが、そろそろお時間です。すみません、この会議室はすぐ後に次の利用者がいるようなので、今日は時間通りでお願いいたします」

 珍しく時間を守った羽多野――ではなく会議室の予約を埋めてくれているどこかの誰かに栄は感謝した。ほとんど儀式化している面談を無理やり長引かせようというつもりもないようで、向かい合って座っていた面々もぞろぞろと立ち上がり、我先にと会議室を出ていく。

 ため息は人目がなくなるまで堪えると決めている。栄もまた書類をカバンに戻しながら、立ち上がった。

「谷口くん、顔色悪いね」

 会議室のレイアウトを原状復帰するためにその場に残っていた羽多野がそうつぶやいた。横柄な態度は変わらず二人になればせめてもの敬語を使おうという努力すら見せない。

「そうですか?」

「普段から死にかけみたいな顔してるけど、今日の顔色は例えるならばすでに死人だな」

 淡々と事実を指摘するような口調には、心配はもちろん仕事で無理を言っている側としての引け目や感謝すら感じられない。付き合いも三か月を過ぎればこの秘書がそういう人間だということにあきらめもついてくるはずなのだが、こいつも広義には笠井未生の関係者だと思えば苛立ちもまたひとしおだ。

「なあ、谷口くんは何で毎回律義にここに来るの?」

「あなた方が呼ぶからです」

 あんまりな質問に、さすがに言葉に棘が混ざった。誰も趣味や道楽で貴重な業務時間を割いてこんな茶番に付き合っているわけではない。笠井が、羽多野が強引に予定を取り付けて支援者への「施策説明」と称したガス抜き兼サンドバック役を押し付けてきているのだろう。

 だが、パイプ椅子の位置を直しながら無神経な男は続ける。

「でもさ、普通こういうの何か月もやってたら、上司に上げて空中戦やるとか、面倒になって部下にぶん投げるとか。そういうことは考えない?」

「だから、私を名指しで呼びつけてくるのは、どこの誰ですか!」

 思わずそう返して、はっとする。とてもではないが、いち公務員が議員秘書に対して言って良い言葉ではなかった。いまここにいるのは栄と羽多野という個人同士ではない、自分たちはただ役所と与党議員の立場を代替して立っているに過ぎないのだ。栄のこの言動を羽多野が問題視すれば、職場に迷惑をかけてしまう。

「すみません、言葉が過ぎました」

 栄はすぐに謝った。羽多野は激高こそしないが、思わぬ反撃を面白く思っていないのは確かで、意地悪く続ける。

「まあねえ、仕事振っても周囲が受けてくれないってこともあるから、気持ちはわからないでもないが。そういえば別件でやりとりしてた内閣府の補佐、ぶっ倒れてしばらく休みだって。前にも話したけど急に担当者変わるとこっちも迷惑するから、谷口くんは倒れるときはちゃんと引き継ぎ頼むよ」

 栄はぐっと唇を噛んだ。胃が痛い、気分が悪い、寝不足で頭がくらくらする。でも、逃げるわけにはいかない。

「私をそういう責任感のない人間と一緒にしないでください。決して逃げたりはしませんから」

 必死の思いで顔を上げて正面からにらみつけると、羽多野は「責任感ねえ」と小さくつぶやき、いつもの人を食ったような顔で笑った。そしてそれ以上の嫌味を続けるわけでもなく、作業に戻った。

 栄はカバンを手にして足早に会議室の出口へ向かう。羽多野への苛立ちはもちろんだが、胃の痛みと不快感で立っているのも辛い。すぐにでもトイレに行って、胃の中のものを吐いて薬を入れれば楽になるだろうか。

 ドアノブに手をかけて、だがそこで思い立って足を止める。少しでもこの苦痛を和らげる方法を思いついたのだ。

「羽多野さん、このあいだパーティで会った……先生の息子さん」

 振り返ってそう言うと、羽多野は顔を上げる。

「ああ? 未生くんのこと?」

「ええ、よく会うんですか?」

 羽多野は栄にとって、未生に繋がることのできる唯一のチャンネルと言っていい。尚人はもう未生と連絡を取っていないはずだし、栄には直接あの不愉快な若者と話そうというつもりはない。だがその一方で、どこかであの日――パーティでやられたことへの仕返しをしてやりたいという気持ちは持っていた。

「そうでもねえよ。このあいだもちらっと話したけど、あいつ父親と仲悪いから秘書も敵だと思ってる。悪い奴じゃないけど生意気だし、たまに小遣い渡して手伝わせるくらいだな」

「そうですか。でも何度かすれ違っただけで私のこと覚えてくれていたなんて、なかなかいい青年じゃないですか」

 そう告げながら栄は少しだけ楽しい気持ちになる。

 あの日、未生は何も知らない栄相手に探りを入れながら、優越感に浸っていたはずだ。何も知らない栄を間抜けな寝取られ男だと笑っていたに決まっている。だから、一言くらいはやり返したってきっと罰は当たらない。

「今度会ったら、谷口栄がよろしく言っていたとお伝えください」

 栄がそう言うと、羽多野は少し怪訝な顔をしながらもうなずいた。