68. 栄

 あっという間に三月に入り、職場は少しずつざわめきはじめる。

 栄を含む法律職キャリアの人事異動は夏中心だが、省内では実際の政策運用を取り仕切る一般職をはじめ四月の年度初めに異動が行われる職員が過半数だ。またこの時期の人事異動には地方出先機関や地方自治体への出向など、遠距離の転居を伴うものも多い。実際の内示はまだでも水面下で情報が飛び交うのがこの時期の常だった。

 だが栄の関心はまったく違うところにあった。仕事の忙しさこそ変わらないが、直属の部下二名はこの春の異動はないだろうから環境としては落ち着いている。いま仕事以上に頭を占めているのは、今月中旬にやってくる尚人の二十九歳の誕生日をどう祝うかということだ。

 尚人の浮気に気づいて一週間。相変わらず栄は尚人への束縛を強めたままでいるし、二人のあいだのぎくしゃくとした空気は変わらない。誕生祝いをきっかけにどうにかこの空気を打開できないかというのが栄の考えだった。

 昨年はネットショッピングで新しいカバンを買ってやった。その前の年は確かヘッドフォン。仕事の忙しさを理由に一緒に買い物に出かけることや食事に行くことは近年さぼっていた気がする。そういえば昨年の栄の誕生日も午前様だった。冷蔵庫に入っていたケーキには手を付けることもせず、その後尚人がどうしたのかは知らない。

 いまの尚人が何を欲しがっているかはわからない。このあいだシャワーを浴びせて駄目にしてしまったから新しいビジネスシューズなどどうだろうか。少し奮発して銀座の専門店でビスポークをあつらえたっていい。ついでに良い店で食事をすれば、少しは機嫌も直るかもしれない。

 そんなことをつらつら考えながらカレンダーを眺める。そういえば今年は尚人の誕生日は金曜日。一日ずれてしまうが土曜に尚人が仕事を終えた後で、どこか近くに一泊で泊まりにいくのはどうだろう。この時期であれば栄だってその程度の時間は捻出できる。

 栄が解約させた尚人のスマートフォンの待ち受け画面は、二人で出かけたささやかな花見の写真だった。そういえば尚人は昔から、何ということもない場所に連れて行ってやると意外なほど喜ぶことがあった。

 東京タワーや高尾山といった遠足の定番から、子どもの頃に嫌というほど家族で連れていかれたマザー牧場や軽井沢。栄からすれば成人してまでそんな場所に行って何が楽しいのかわからないが、尚人はいつも楽しそうに言うのだ。

「だって僕は地方育ちだから東京の人が当たり前に子どもの頃に連れてこられたような場所を知らないもの。皆が話しているのを聞いてどんなところかなって思っていたけど、いまさら一緒に行こうなんてなかなか誘えないしさ」

 栄にとっては、尚人のその感覚がよっぽど面白かった。そういえば、都内の中高一貫校出身の栄は大学にもそのままの人間関係を持ち込んでいて、尚人のような地方公立高校出身の学生との付き合いは少なかった。

 少し考えて、ホテル検索サイトを開く。マンションにいてもどうしたって気詰まりな雰囲気に陥りがちなのだから、いっそ外で少し雰囲気を変えた方が良いのかもしれない。

「ナオ、誕生日の次の土日、箱根の旅館取ったから」

 栄が告げると尚人は驚いたように何度か瞬きをした。

「箱根?」

「うん、前に箱根に行ったことないって言ってたの思い出したから。土曜のおまえの仕事終わった後に出発して宿で食事して、温泉でのんびりしよう。次の日に軽く観光して戻っても週明けに響くほど疲れないだろうし」

 早口になったのは、内心では尚人の反応を恐れていたからでもある。断られるとか、あからさまに困った顔をされるとか、悪い想像ならいくらでもできる。

 だが尚人は栄に向けてはにかむように笑顔を向けた。

「ありがとう、楽しみにしてる」

 その言葉にほっと胸のつかえがとれた。尚人に詳しい旅程を明かさないのは奮発して有名旅館の良い部屋を抑えたからだ。観光シーズンではなかったおかげで、偶然離れにキャンセルが出たのだという。

 尚人が喜ぶところを想像しては、もしかしたらそれでこの息が詰まるような日々が終わるのではないかと栄は淡い期待を心に育てた。

 

 ――今日お時間あれば、お昼ご一緒させていただけませんか?

 山野木佳奈からメールでランチの誘いを受けたのは、尚人の誕生日も近づいた月曜のことだった。

 栄は外で昼食をとる習慣はないが、周囲には仕事中のささやかな気分転換のため時間が許す限り昼は外食と決めている同僚も多く、山野木もそのひとりだ。たまに栄や大井を誘うこともあるが、そんなときも「今日お昼出ませんか」と気軽に話しかけてくるので、わざわざメールを送ってくるのはどことなく奇妙だ。

 もしかしたら結婚報告だろうか。でもまだ新卒一年目だし、「いい男がいない」が口癖の山野木がそんな話をしてくるとも思えない。何となく良い感じはしないものの、とりあえず話を聞く以外にないのでその日の昼、栄は山野木と外に出た。

 栄はランチ事情に詳しくないので、山野木の提案で銀座の駅近くにある商業施設のレストランフロアに向かった。ビジネスランチとしては幾分値段設定が高い分待たずに座れることが多いらしい。とはいえランチセットの単価は千円ちょっとなので栄が部下に奢るのに負担になるほどでもない。

 二人掛けのテーブルに座り、ランチメニューから栄は湯麵を、山野木は油淋鶏のセットを選んだ。できるだけあっさりしたものを選んだつもりだが、相変わらず胃の調子は最悪なので、心配されない程度に食べきることができるか不安はある。だがそんな些細な悩みなど運ばれてきた水を一口飲んだ山野木が発した言葉のせいで瞬時に消え去った。

「あの、実は補佐にご報告が」

「報告?」

 やはり結婚か、もしかしたら予想外の妊娠とか。頭の中を駆け巡った可能性のどれとも違う言葉を山野木は続ける。

「すみません、あの、わたし六月いっぱいで退職を……するって決めて……」

 言葉は後半に向かうにつれて小さくなる。山野木の声が小さくなったからなのか、自分の耳が彼女の言葉を拒否しているからなのか、栄にはわからなかった。

 やめる? たった一年しか働いていない若手職員が、しかも俺の部下が? 頭の中が真っ白になって言葉が出てこない。

 入省したものの短い年月でやめる若手職員はキャリア、ノンキャリア問わず毎年必ずどこかにいる。家庭の事情、仕事への適性、理由は様々だが――確かなのはただひとつ、若手の辞職はその上司の評価に影響するということだった。

 もちろん明確なパワハラやセクハラが原因でない限り、明確に人事評価が悪くなるわけではない。だが誰しも心の中では、上司の教育が足りなかったから、上司のサポートが足りなかったから、そんな風に感じているはずだ。少なくとも栄はそういう目で人を見てきた。

「どうして、やめるなんて。山野木さん大変な仕事だけどよく頑張ってくれてるじゃないか。皆、将来有望だって君には期待してる」

 栄は身を乗り出した。ほんの気まぐれなのではないか、説得すればすぐに翻意するのではないか、まずはそんなことを考えた。だが栄としては精一杯彼女の能力を褒めたつもりの言葉に、山野木の表情は曇った。

「補佐にそう言っていただけるのはありがたいですし、仕事自体は面白くてやりがいもあります。ただ、将来のことや生活のことを考えた時にどうしても続けていける自信がないんです。いつかは結婚や出産もしたいですし」

 同じような不平不満を何度も耳にしてきた。だがそれを、目をかけてやった直属の部下に、冗談でも愚痴でもなく本気でぶつけられていることに栄は大きなショックを受けた。

「でも、ワークライフバランスの改善だって俺が入省したころよりは格段に進んでいるし、結婚出産を経験して活躍している女性職員だってたくさんいる。そんなに早まらなくなって」

「早まってません! わたしだって悩んだんです」

 山野木が語気を強めた。ちょうどそこに店員が料理を運んでくるが、テーブルの雰囲気に気づいたのか黙ってトレイを置いて去る。

「……わかってます、実際に家庭と仕事を両立できている人がいるってこと。でも結局はマミートラックで主力ポストから外れていくか、親やシッターさんフル活用しつつ寝ずに働けるようなスーパーウーマンになるかのどちらかですよ。補佐のおっしゃる通り変わってはいくんだと思います。でも、わたしの結婚や出産にその変化が間に合うっていう保証はないんです」

 賢く意志の強い部下は、正面から栄の顔を見てそう言い切った。

「山野木さん……」

 同じような意見は何度も聞いた。結婚後の家庭と仕事の両立に悩むという意味では女性である山野木だけでなく、大井のような男性職員だって同様だ。昭和入省の幹部クラスにはいまだに滅私奉公という感覚が強いが、それが古い考えであることも栄だってわかっている。

 わかっているが――システムが変わるには時間がかかるのも事実だ。自分が我慢したくないからと誰もが難しい仕事を断り、嫌な職場を去れば、誰が仕事に責任を持つのか。結局いつだって栄のようなタイプが責任を負わされるのか。

 気まずい沈黙が場を覆う。明らかに退職の申し出を良く思っていない栄の前で、料理に手をつけることもできず山野木はうろたえた顔をしている。もちろん喜んでもらえるとは思っていなかっただろうが、普段穏やかで物分かりの良い栄がこんな反応をするのも彼女にとって予想外だったのかもしれない。だがいまの栄には――失望を隠して彼女に笑顔を見せることはあまりに難しい。

「冷めるから、それ食べなよ」

 ようやくそれだけ絞り出すと、山野木がおずおずと箸を手に取るのを見届けてから栄は伝票を手に立ち上がった。

「谷口補佐?」

 顔を上げた山野木の表情は凍り付いている。その彼女に向かって栄はにこりともせずに言った。

「悪いけどちょっと飯食える気分じゃないから、俺は先に戻ってる」

 上司として最低の対応をしているという自覚はある。でも、もう限界だった。