しばらくちらちらと栄の方をうかがっていた山野木が、意を決したように立ち上がってデスクにやって来る。
「補佐、らい……再来年度の予算方針の件で一度重点事項の打ち合わせをさせていただきたいんですが」
緊張感をみなぎらせた声で話しかけてくる彼女に向かって、しかし栄は顔を上げることもしない。
「ああ、山野木さんはそれやらなくてもいいよ。適当に大井くんと話しておくから」
顔を見なくたって山野木の表情が凍り付くのはわかった。でも、と言いかけた言葉をぐっと飲み込んで自席に戻った彼女の手元からカタカタとキーボードを叩く音が聞こえはじめるのを栄はただ黙殺した。
周囲が栄と山野木のやり取りに聞き耳を立てている。オフィスに漂う空気は重く、栄と山野木のあいだにここ数日流れている不穏な雰囲気を誰もが気にしているのは確実だった。
退職を決めたという報告を受けたのは月曜で、今日は金曜。大人げないとわかってはいるが、栄は態度を改めるタイミングを逸し続けていた。いや、まだ山野木の決断を受け入れることができていないといった方が正確だろうか。
すでに彼女が役所を辞めるという情報は出回っている。聞いた話によれば、密かにアプライしていた外国の大学院に入学が決まり夏からは留学生活に入るらしい。勉強したいならば公費留学に応募して職務の一環として院に行くという方法だってあるのに、わざわざ退職することは仕事からの逃げとしか思えず、それも栄の態度を硬化させる一因となっていた。
だが同時に、栄の山野木への態度について局内で噂になりはじめていることも承知している。「あの」谷口補佐が退職を決めた部下から仕事を取り上げ冷遇している――普段の栄は物分かり良く面倒見の良い男として通っているだけに、驚きと好奇心で話は広がっていく。果てには山野木以外の関係のない職員ですら栄に対して腫れ物に触るような態度で接してくる。
「補佐、山野木のことですけど」
大井がそう話しかけてきたのは昨日の残業中のことだ。普段ノリの軽い大井の口調が改まっているだけで、それが栄にとって面白くない話題であることは想像できた。
「山野木さんが、どうしたの?」
栄があらかたの仕事を剥がしてしまったので、やることのない彼女は三十分ほど前に気まずそうな顔のまま退庁していた。大井は本人がいなくなるのを待ってから栄に話をする気だったのだろう。
「いくら辞めるっていっても、あいつ六月までは職員なわけですし、本人もちゃんと仕事も引き継ぎもやるつもりでいますよ。だから、あんまりこういうのは……」
険しい顔で苦言を呈してくる部下から目をそらし、栄は口ごもりながら答える。
「でも、どうせ夏前にはいなくなっちゃうだろ。先につながるような仕事お願いしたってお互い苦労するだけだよ」
「そんなの、補佐だって俺だって異動したらここの課の業務は離れるんだから、同じですよ」
大井の言葉は正論だ。急な政策変更、急な不祥事、急な病人、様々な事情で突然の人繰りが必要になり、それでも何とか回していく日常の中で、いくら退職が見えているからといってそれは仕事を奪う理由にはならない。
栄はため息をつく。同じラインで仕事をしている大井からもこんな風に言われてしまうのは正直想定外だった。他の誰が栄を狭量だと言おうと、同じように一年近く山野木を教育してきた大井だけは失望と徒労感を共有してくれるのだとばかり思っていた。だがそれもどうやら栄の勘違いだったようだ。
「……わかってるよ。わかってるんだけど、やっぱりね。目をかけて、それなりにフォローしてやってきたつもりだったから。人事だってこういうことがあると良くは思わないだろうし」
思わず本音が口からこぼれ、はっとして顔を上げるが既に遅い。大井の顔にははっきりと嫌悪の色が浮かんでいた。
「補佐、『してやった』とか『人事が』とか……らしくないっすよ。疲れてるんじゃないですか?」
あからさまな非難の言葉に栄が黙り、そこで話は終わった。
疲れているからこんなことを口に出した――それは確かに事実だ。だが大井もすら勘違いしているのは、栄はただ口に出さずにきただけで、心の中ではいつも傲慢なことを考え体面ばかりを気にしたきたことだ。面倒ごとを避けて職場で高評価を得るため続けてきた仮面を維持する気力がなくなっているだけで、栄は最初からこういう人間なのだ。
気味悪いほどの沈黙の中、ただキーボードを叩く音だけがカタカタと響く。そんな雰囲気を破ったのは栄の手元にある内線電話の呼び出し音で、手に取ると総務課長からだった。忙しいところ申し訳ないが少し時間はあるかと聞かれ、栄は会議室へ向かう。
「失礼します」
せいぜい十人も入ればいっぱいになる小さな会議室に総務課長と向かい合って座った。まずはありきたりの世間話から。そんなものに興味はない。
「ああ、ごめんね急がしいとこ。谷口くんもしかしてまた痩せた? 飯食ってるの?」
「大丈夫です。それより話って」
栄がせかすと、少し言いづらそうに間をおいてから総務課長は「こんなことあまり言いたくはないんだが」と切り出した。
「山野木佳奈さんの件だけど、退職報告を受けた後、君が彼女にちゃんとした仕事を与えてない――まあ言い方は悪いが、干してるんじゃないかって話があってね」
その言葉に、栄は頭を殴られたような気がした。ただの噂どころか栄の山野木への態度はすでに人事が聞きつけ問題にするレベルになっているのだった。
総務課長は、月曜の午後にトイレで泣いている山野木を複数の女性職員が目にしたこと。栄に何か言われたのかと聞いたところで何でもないと繰り返すだけだが、その後の態度を見ても栄の部下への対応が適切でないのは明白であったことをぽつぽつと話した。
直属の上司である地域開発支援課長が栄への注意を申し出たものの、人事から話をした方が良いだろうとの判断で総務課長が栄を呼び出すことになったのだという。
「そういうつもりは。私はただ先のことを考えて適切な業務配分を。彼女だって……留学準備など忙しいでしょうし」
口を突くのは保身の言葉。だがそれが薄っぺらい出まかせに過ぎないことは誰よりも栄本人がよくわかっていた。
栄から素直に反省の言葉が出てこないことに総務課長も戸惑ったのかもしれない。言い訳のを正面切って否定はしないが、代わりにさっきよりも強い言葉で釘を刺す。
「君の考えもわかるけど、まだ三か月もあるわけだし。露骨に辞職の報復みたいなことされるのはこのご時世困るんだよな。谷口くんは人格的にも評価されてきてるんだから、いまさらこういうパワハラみたいなこと」
「パワハラ……?」
思わぬ言葉に今度こそ栄は動揺を隠せない。確かに多少感情的になっている自覚はあった。大人げないことをやっているとも思った。でも――。
「不当に仕事を取り上げるのもパワハラだって、研修でも教わったはずだがな。この程度で一発処分とまでは言わないけど、セクハラとパワハラは目をつぶれない時代だからね。君だってこのまま期待されている通りの道を歩んでいきたいなら、肝に銘じてくれよ」
「……はい」
栄には反論することができなかった。頭の中ではパワハラ、報復、処分、といった言葉がただぐるぐると回る。まさか自分がそんなレベルに踏み込んでいたなんて。
こんな風な注意を受けるのは初めてだった。それどころか、これまでは不機嫌を振りまいて周囲を思うように動かそうとする上司や同僚のことを馬鹿だと思っていた。そんなことをやっていれば、いつか回り回って自分の首が締まるだけなのに、なんでそんな愚かな真似をするのだろうと。なのに、いまの自分は山野木相手にまったく同じことをやっている。それを自覚しないまま人に――しかも人事に関わる上役から直接指摘されるのは大きなショックだった。
栄が席へ戻っても誰も声をかけてこない。もしかしたら皆、栄が総務課長に叱責を受けたことを知っているのではないか。パワハラ男の化けの皮が剥げたと内心ではほくそ笑んでいるのではないか。恥ずかしさと情けなさで逃げ出したくなる。
机の下で膝が震えているのがわかる。これまで築き上げてきたキャラクターも仕事上の成果も、何もかもがいまや崩壊の危機にあることに気づいて栄はみっともないほど打ちのめされていた。
心を落ち着けなければ。冷静になっていつも通りの自分を取り戻さなければいけない。賢くて理性的で紳士的な谷口補佐。上司や同僚の信頼が厚く女子職員にも人気のある谷口栄をどうにかしてこの身に取り戻さなければ、先にあるのは破滅だ。
尚人との箱根行きのことを考えた。明日の夕方尚人の仕事終わりに新宿で待ち合わせて箱根湯本行の電車に乗る。夕食にはシャンパンを付けてもらうように頼んであるし、ケーキだって予約してある。のんびりして、昔みたいに他愛のない話でもして、あんな――毎晩不毛に繰り返されるただ体をつなぐだけの行為ではなく、ちゃんと尚人を抱きしめて、尚人からも抱き返されるような――。そうすればきっと何もかも好転する。
「補佐、笠井事務所の資料の件ですけど。これで良ければ届けに行かせますけど」
大井の声にはっと顔を上げる。昨晩のやり取りが嘘のように大井の態度は普段通りの気安いものに戻っているが、それすら内心はどうだかわからない。栄は緊張しながら手渡された資料に目を通す。
そういえば昨日、またもや羽多野から資料提供の依頼を受けていたのだ。データについては事前にメールで了解をもらっている。印刷したものも体裁に問題はなさそうだ。まとまった数のパンフレットも欲しいと言われているので議員会館まで届ける必要はあるものの、資料説明を求められているわけではないし、わざわざ栄が出向く必要はない。だが、栄は少し考えてから「俺、行くよ」と言って立ち上がった。
別に笠井事務所に行きたいわけでも羽多野の顔が見たいわけでもない。ただ、いまはこの部屋にいたくない。山野木の暗い顔も見たくないし、他の面々の責めるような視線に晒されるのも耐え難い。もしかしたら被害妄想なのかもしれないが、とにかくこの場から逃げたかった。
「えっ、補佐が?」
大井が驚いた顔をしたのは、またもや山野木の仕事を取り上げたと思ったのかもしれない。あわてて栄は理由を取り繕った。
「いや、秘書から聞かれていることもあるんだ。どうせ、ついでだし……」
そこまで言えば誰も栄を止めはしない。資料を入れた紙袋を下げて栄は地下鉄へ向かった。庁舎を出て上司や同僚の視線から逃れるだけで少しだけ呼吸が楽になるようだった。
総務課長にも指摘されたが、確かに栄はまた痩せた。そろそろベルトの穴も足りなくなさそうなくらいだし、シャツやスーツも身に合わずみっともない。衣服は素材や仕立て以上にサイジングが命だと思っているのにしつこく新しいスーツを作らないままでいるのは、少し時間ができれば食欲も出て、運動も再開できて、前のような自分に戻れると思っているからだ。
仕事さえ落ち着けば――少し心の余裕ができれば――もう何年もそう自分に言い聞かせ、でも一度だってそんな機会は訪れなかった。このまま走り続けることを選ぶ限り、きっとこれからも変わらない。
うんざりする。でもここで負ければ、ここで勝負を降りればいままで積み重ねてきた何もかもが水の泡になる。いや、本当に? もうすでに自分は駄目になっているのではないのか。部下に当たり散らして、人事に注意されて、家では恋人を監視して毎晩のように一方的なやり方で犯して。
「失礼します、産業開発省の谷口です」
ノックの後で栄が事務所のドアを開けると、羽多野は驚いたような顔をした。
「え、わざわざ谷口くんが来たの? もしかして暇なのか?」
「いえ、会館に他の用もあったので。秘書、資料はこちらに。パンフレットも帯のかかっている分で五十部になります」
暇なはずなどあるか、と言いたいところだが今日に限ってはオフィスを逃げてここに来た自覚はある。栄は資料でいっぱいの紙袋を羽多野に差し出した。
「そこに置いておいて。日曜の会合で配るから急ぎで欲しかったんだ。重いのに悪かった」
「いえ、仕事ですから。では私は……」
珍しく羽多野からねぎらいの言葉が出た。この男にもそんな語彙があったのかと不思議に思いながら栄が引き返そうとすると、さらに珍しいことに羽多野は栄を引き留めた。
「谷口くん、そこ座って水でも飲んでいったら?」
「え?」
どういう風の吹き回しだろう。この男がただ資料を届けに来ただけの栄に椅子や飲み物を勧めるなんて、信じられない。
座れと言われたところで別に笠井事務所に長居したいわけでもないので栄は戸惑った。ここで言われるがままに座ってしまえば、もしかしたらまた厄介な話でも押し付けられるのではないだろうか。
その場に立ちすくんだままの栄に羽多野はつかつかと歩み寄る。そして、意外なほど近い距離に顔を寄せ、言った。
「顔が真っ青で汗がすごいけど、もしかして自覚がないのか?」
言われてみると背中が冷たい。シャツが冷や汗でびっしょり濡れていることに栄はいまのいままで気づいていなかった。熱いわけでもないのにひどく汗をかいていて、そういえば動悸も激しい。栄の体全体が異常を訴えていた。
腕を引かれソファに座るよう促されるが、栄は思わず振り払う。だって大丈夫だ。これまでいつだって、きつい仕事にも睡眠不足にもストレスにも歯を食いしばって耐えてきた。だからこれからも耐えられる。
尚人の声が耳の奥に聞こえた。「栄なら大丈夫」と――無神経だと苛立っていたはずの言葉はいまは栄を繋ぎとめる唯一の細い糸。大丈夫、大丈夫。尚人がそう言ってくれたから、信じてくれたから――。
「……別に、大丈夫です」
そう言った瞬間――目の前でチカチカと光が点滅した。かと思えば瞬く灯りはふっと消えて同時に足元に奈落が開いた。何も見えない。すうっと、暗い闇の中をどこまでも落ちていく感覚。
「おい、谷口くん!?」
羽多野の声も遠くなり、すぐに消えた。