70. 尚人

 尚人が栄からのメッセージを受けたのは夕方、その日最後の生徒の家に到着してからのことだった。

 ――病院まで着替えを持ってきて欲しい。

 唐突に送られてきた文面の意味がわからず、しかし病院という単語からは不穏な空気しか感じ取れない。生徒が問題を解いているあいだに少しだけ時間をもらって栄に連絡を取ることにした。

「もしもし……」

「栄! 着替えって、病院ってどういうこと!? 何があったんだよ」

 電話が繋がった瞬間、前のめりに問い詰める。病気か、それとも事故にでもあったのだろうか。とりあえず連絡が取れるということは深刻な状態ではないのだろうが、それでも不安だった。

 だが尚人の心配の声に、栄は面倒くさそうに返す。

「大げさな声出すなよ。たいしたことないんだ、仕事中にちょっと気分が悪くなっただけで」

 格好悪いところを見られたときや体裁の悪いときに栄がこういう物言いをすることを尚人は知っている。たいしたことはない、というのがどこまで真実なのかは怪しいと思った。

 昼過ぎに体調を崩して救急車で運ばれ、とりあえず検査入院することになった。栄は何でもないことであるかのように言うが、ちょっと気分が悪い程度で救急車は呼ばれないし入院することにもならない。その程度のことは尚人にだってわかる。

「面会は八時までだから、無理なら明日の朝でもいいよ。ただうちの母親がマンションに着替え取りに行くから鍵よこせってうるさくて。このままだと本当に押しかけていきそうな勢いだからさ」

「いや、今日行く。授業七時終わりだから、急げば間に合うから」

 とりあえず着替えとその他の入院に必要なものを持って病院に向かう約束をして電話を切った。

 通話を終えた瞬間、恐れていたことがとうとう起こってしまったという落胆と、やっとこれで栄が少しは楽になれるのではないかという安堵の両方が尚人の胸に広がった。

 倒れてくれて良かった――そう思いたくなるほどに、ここ一週間の栄の様子は痛ましかった。ただでさえ仕事に追い詰められていたところに尚人がとどめを刺したようなものだ。心身ともに疲れ果てているのに神経は張り詰めているようで、短い睡眠のあいだにもちょっとした物音や振動に目を覚ますのは隣に寝ている尚人にもわかった。

 幸い生徒の家も同じ港区内だったので、一度帰宅して家で着替えや洗面道具をまとめてタクシーに飛び乗れば面会時間には何とか間に合いそうだった。

 尚人はぼんやりと考える。一緒に暮らしはじめて六年も経つのに、いざ栄が倒れたときに尚人のところへ連絡してくれるルートはない。栄の職場も家族も、彼が尚人と暮らしていることを知らない。

 今日だって容体が落ち着いた栄が自ら連絡をしてくれなければ、尚人はずっと彼が倒れたことを知らずにいただろう。夜が更けて帰宅しなくたって、仕事が忙しいのだろうと思い呑気に家で待っていた――そんな想像に背筋がすっと冷たくなった

「すみません、今日入院した谷口栄の病室は……」

「あら、あなた栄のマンションにいるっていうお友達?」

 ナースステーションで栄の部屋を確認しようとしたところで、背後から声をかけられる。振り向くと五十代くらいの品の良い女性が立っていた。そっくりというわけでもないのに、雰囲気や目元、口のあたりの面影から尚人は瞬時にそれが栄の母親であることを悟った。

 どうやら栄はここに至って同居人の存在を母親に明かしたようだ。きっとそうでなければマンションへの直撃が避けられなかったのだろう。

「……はい。大学時代からの友人で、相良尚人といいます」

 尚人はどんな顔で何を話せば良いのかわからず口ごもった。だって六年間も一緒に暮らしている親しい友人なのに、一度だって家族と会ったこともなければ同居していることも知られていないなんて、明らかに不審だ。

「着替えを持ってきてくれたんですね、ありがとうございます。私何も知らなくて、家に荷物取りに行くって言ったら怒られてしまったの」

 名乗っただけで頭が真っ白になりそれ以上何も言えない尚人に、栄の母親は意外にも気さくだった。どちらかといえば息子のわがままを面白がっているように笑う姿にいくらか緊張が緩み、尚人はようやく頭を下げた。

「こちらこそ、間借りさせていただいているのに一度もご挨拶もせず、申し訳ありません」

「いいえ、謝らなくても。第一、中学校以来あの子が親に友達を紹介してくれたことなんて一度だってないんですから。自立心が強いといえば聞こえが良いけど、なかなか難しい子で」

 そう言う表情は優しい。栄が進路について父親と衝突した際にも母親は密かに息子の味方をしてくれたと聞いたことがある。毎年正月に帰省した栄が迷惑そうな顔で大量に持ち帰ってくるおせちや餅といい、彼女はいつも息子のことを気にかけているのだろう。

「すみません、栄……谷口くんの体調が良くないことには気づいていたのに」

 謝罪の言葉を口にする尚人を、栄の母は手を振って止める。

「いいの、どうせ言ったって聞かないでしょう。聞いているかもしれないけど、あの子は父親とけんかしていまの仕事を選んだから、意地があるんでしょうね」

 そして困ったように笑い、言った。

「厄介な息子ですけど、仲良くしてあげてください。よろしくお願いします」

 はい、とうなずきながら尚人の胸は痛んだ。仲良くどころか栄をここまで追い込んだのが他ならぬ尚人だと知ったら、この女性はどんな顔をするだろう。

 教えられた部屋は個室で、そっとドアを開けて中を覗くと栄はベッドに横たわってうとうとしていた。布団の上に出してある腕には点滴の針が刺さったままで、そこからチューブが伸びている。

 小さなロッカーの前に、今朝栄が着ていたスーツがハンガーに掛けて置いてある。すっかり皺になっているから持ち帰ってクリーニングに出したほうがいいだろう。床には新品のタオルや肌着の入ったデパートの紙袋。マンションへの立ち入りを断固拒否された母親があわてて買い揃えてきたものなのだろうと思った。

「……あ、ナオ?」

 小さな物音ひとつで栄は目を覚ましてしまう。顔色は相変わらずひどかった。

「ごめん起こしちゃって。疲れてるんだろう、眠らなきゃ」

 尚人はそう言って体を起こそうとする栄を押しとどめた。水色の病院着から覗く胸元には骨格が浮きかけていて、それを見るだけで泣きたいような気持ちになる。だが、湿っぽい態度を取れば栄を困らせるだけだ。顔を背けると持ってきた袋の中身を確認するふりをした。

「荷物、整理してロッカーに入れておけばいい?」

「どうせすぐ帰るから袋のままそこに置いておいてくれればいいよ。大体、大げさなんだよ。ちょっとふらついたくらいで入院とか検査とか」

 強がる言葉はひたすらに痛ましく、尚人は何も言えなかった。ベッドサイドのパイプ椅子に座って黙り込む。

 正直なところ、この一週間、裏切ったことを申し訳ないと思う反面で栄のことが怖くて堪らなかった。顔を合わせればちょっとしたきっかけで怒り出し、未生とのことを蒸し返す。ただ苛立ちをぶつけて互いを傷つけるだけのようなセックス。仕事が忙しくなって家にいる時間が短くなれば――栄の心身を心配する一方で、わがままで残酷な考えが隣り合っていた。

「……ごめん」

 ぽつりとあふれた言葉に、一瞬自分の心の声が漏れ出たのかと思った。だが、それは尚人の声ではなかった。

「ナオ、ごめん。今日はおまえの誕生日なのに。明日の箱根もこれじゃ……」

 栄は力なく謝罪の言葉を口にした。

 尚人はこの瞬間まで今日が自分の誕生日であることも、明日は一緒に箱根に行く約束をしていたことも忘れていた。栄が倒れたという知らせの前に、そんなことは小さな話だ。

 だが、栄は自分自身の体のことより何よりも、尚人の誕生日祝いができなくなったことを気にしているようだった。去年だって一昨年だって、お互いの誕生日なんてほとんど形式的なものになっていたのに。

「何で栄が謝るんだよ。箱根なんかより体の方が……」

 尚人がそう言ったところで栄の表情が奇妙に歪んだ。そして、疲れ果てた目がまっすぐ尚人を見つめる。

「そうだな。おまえより、俺の方が楽しみにしてたんだもんな」

「栄……」

 それ以上は言葉にならない。また、栄を気遣っているつもりでひどいことを言ってしまった。

 栄は尚人に裏切られたショックと、それでもどうにか恋人への信頼を取り戻したいという気持ちの中でもがいていた。過度な束縛も、強引なセックスも栄の苦しみの結果で、でもそんな方法では駄目だとわかっているからこそ、忙しい中都合をつけて尚人の誕生日の予定を立ててくれていたのだ。

 思わず涙がこぼれた。

「ごめん。本当にごめん……僕がこんな……」

 どうすればいいのだろう。栄のことが好きなのに、それと同じくらい怖い。栄に求められたくて必要とされたくて、でも一緒にいると苦しくてたまらない。自分で自分の気持ちがわからなくて、ばらばらになりそうだった。

 尚人がうつむいたまま肩を震わせると、白いシーツに水滴が落ちる。泣くなんて間違っている。泣いたって栄を困らせるだけだ。必死に気持ちを落ち着かせようとする尚人の手に、栄がそっと手のひらを重ねた。

「謝るなよ。ほら、もう八時になるし面会時間も終わるから帰らなきゃだろ」

 栄の言う通り時計は八時まであと数分。尚人は名残惜しい気持ちで重なった手を外すと、ティッシュで慌ただしく顔を拭き立ち上がった。自分たちにはきっと、向かい合って考えるべきことや話し合うべきことがある。ただそのタイミングはいまではない。

「明日の朝、仕事の前に来るから。もし他に必要なものがあれば持ってくる」

「無理しないでいいから」

 栄がそう言ったとき、病室のドアが開いた。

 病院に鉢植え――という違和感が第一印象。そこには花の鉢植えを手にしたスーツ姿の男が立っていた。

 三十代半ばから後半で、栄や未生にも劣らないほど背が高く身なりはしっかりしている。抜け目のなさそうな表情といい、栄の職場の人間だろうかと思い尚人は頭を下げた。

 栄の母といい職場の人間といい、直接顔を合わせるのはやはり気まずい。さっきまでの栄との会話も、まさか聞かれてはいなかっただろうか。ひとり部屋だからと気を抜いてしまったかもしれない。

「……邪魔しましたか」

 尚人と栄の顔を見比べて、男がそう言った。それは一般的な社交辞令のようにも、もっと深い意味があるようにも受け止めることができた。

 栄の表情がふっと暗くなる。

「今日はたいへんご迷惑をお掛けしました。わざわざお越しいただかなくても、お詫びとお礼にはそのうち伺いますから」

 丁寧、というよりは慇懃無礼といった冷淡な口ぶりに尚人は驚いた。電話のやりとりを聞く限り、栄は仕事関係ではよそ行きの穏やかな話し方を崩すことをしない。人並み以上に外面を気にする恋人が他人にこんな物言いをすることは意外だ。

 だが男は栄の微妙に棘のある言葉を一切気にしていないかのように受け流した。

「目の前で倒れてそのまま救急車で運ばれたんだから、さすがに気になります。議員も心配して、お花くらい届けるようにと」

 議員、という単語が引っかかった。入り口ドアを塞ぐように立つ男のせいで病室を出ることができない尚人に、栄が後ろから投げやりな声をかける。

「ナオ、そちら羽多野さん。今日、俺が倒れた現場にいて救急車を呼んでくれたんだ。衆議院議員の笠井志郎先生の秘書をされている方だ」

「初めまして。私、羽多野と申します」

 羽多野が鉢植えを床に降ろし、胸ポケットから名刺を取り出す。尚人は一週間ぶりに耳にした「笠井」の文字に心をざわめかせながら、通り一遍の挨拶でなんとかその場をやり過ごした。