笠井、という名を聞いて強張った笑顔を浮かべた尚人が気まずそうに出ていくと、部屋には栄と羽多野の二人だけになった。
わざわざこの男が笠井家の関係者だということを尚人に伝える必要などなかったのに、なぜあんなことを言ってしまったのだろう。栄自身にもよくはわからない。
尚人に名刺を渡すために床に置いた鉢植えを取り上げ、羽多野はベッドのすぐ横までやってきた。初対面の尚人に向けて振りまいていた上っ面の笑顔もすでに消え去り、黙ったままでいる男のことを栄はどことなく不気味だと思った。
そういえば羽多野はいつからドアの外にいたのだろう。もしかしたら尚人との会話が耳に入っていただろうか。聞かれていたとすれば、家族にも職場にも隠してきた栄の性志向もばれてしまったかもしれない。抜け目ない男だからそれを理由にまた無理難題を押し付けられたらどうしよう。頭の中をいろいろな思いが駆け巡るが、すぐにそんなこともどうだってよくなる。
いまの自分にはきっと、弱みを握って利用するような価値すらないのだから。
「……面会時間は終わっています」
時計がすでに八時を回っていることを理由に、栄は羽多野を追い返そうとした。
笠井事務所で突然気を失い倒れた栄を見て救急車を呼んでくれたのは羽多野だ。やってきた救急隊員相手に栄の身元や倒れる前の状況を説明させられたりと、面倒をかけたことはわかっている。だが、倒れるに至ったストレスや体調不良の原因を思い浮かべると、間違いなくこの男はいま顔を見たくない相手の三本指に入る。
しかし羽多野は栄の言葉を完全に無視した状態で鉢植えを棚に置き、勧められもしないのにさっきまで尚人が座っていたパイプ椅子に腰かけた。鉢植えにはピンク色の花が美しく咲いているが、花や植物に疎い栄はその名前を知らないし、そもそも病室に鉢植えを持ってくる男の非常識にはうんざりする。
「ここの医長が、俺が笠井先生の前にお仕えしていた議員の支持者でね。ご挨拶ついでに、そういえば谷口くんがここにいるなと思って寄ってみた」
尚人の姿がなくなれば敬語を使う気もないようだ。羽多野は飄々と自分が面会時間ルールの範疇外にあることを宣言した。
「そういうの、権力の濫用って言うんだと思いますよ」
卑怯なやり方を直接的な言葉で非難する栄を見下ろしながら、羽多野はどこか楽しそうにすら見えた。
「谷口くんは潔癖だな」
もちろん誉め言葉ではない。わざわざ病人のところへやってきて、一体何が言いたいのか。栄はひどく苛立った。横になって点滴を打ったおかげで、昼間ほどではないものの気分は良くないし体はだるくてひどく眠い。こんな男の相手をしている状態ではないのだ。
「だったらなんだって言うんですか。事務所で倒れてご迷惑をかけたことは謝ります。それと、約束を破ったことも」
「約束ってなんだったっけ」
わかっているくせに、こんなことをあえて聞く。どこまで人をこけにするつもりなのだろうか。
「引継ぎなしに倒れたりしないって約束したのにこの有様で、自分でも情けないと思いますよ。でも、係長の大井も新制度のことは知り尽くしているし――法施行前のこの大事な時期に補佐席が空席ってこともないでしょうから、数日中には後任が着任するはずです」
救急車の中で意識を取り戻したが、胃の痛みと吐き気が激しく動けなかった。そのまま簡単な診察を受けて病室に運び込まれ、栄の状態を聞き取っただけで医師は「詳しい検査は明日以降として、まあ過労とストレスは確実に原因でしょうね」と言った。
一時間も経たないうちに笠井事務所から連絡を受けたという人事担当と、上司である課長が飛んできた。栄が長らくオーバーワーク状態にあること、強いストレスに晒されていること自体は周知だったから、彼らはうなだれて、栄を頼り仕事を任せすぎてすまなかったと薄っぺらな謝罪の言葉を述べた。
「仕事のことは相談をはじめているから、とにかくいまは体を休めることを一番に――」
栄はそれを実質的な戦力外通告だと受け止めた。退院後に職場に戻ったらポストがなくなっているなんて珍しい話ではないし、山野木のためにもきっとその方がいいのだろう。
検査入院を終えて問題さえなければ栄自身はすぐにでも仕事に復帰するつもりでいた。だが、同時に心の中の大切な何かがぽっきりと折れてしまったような気もする。ひたすら気を張って、いろいろなものを背負ってきたつもりでいたのに肝心なところで倒れて周囲に迷惑をかけた。自分も部下も、尚人だって、誰ひとり幸せにはならなかった。一体いままでの頑張りはなんだったのか、悔しさと虚しさだけが胸にあふれ出す。
「後任ねぇ」
栄に対して羽多野が不満げなのは無理もない。何度も体調不良を指摘され釘を刺され、そのたびに大丈夫だと言い続けたにも関わらず、よりによって羽多野の目の前で倒れたのだ。いくら後任が優秀だろうと新しい仕事に慣れるにはそれなりの時間がかかるし、大井だって直接事務所とやり取りしていたわけではないから詳細までは承知していない。
「きっと私より優秀な……」
栄がせめてもの言い訳を続けようとすると、羽多野の表情から笑いが消えた。と同時に、普段の人を食ったような態度とは違う、怒りと呆れの入り混じったような口調で栄の言葉をさえぎる。
「死ぬほど悔しそうな顔して心にもないこと言うんじゃないよ。谷口くんさ、自分のことを神様か何かとでも思ってんのか。優秀な自分ならなんだって思い通りにできるって」
最初にレクチャーに行った日にも同じようなことを言われた記憶がある。栄の態度には傲慢さが滲んでいて役人には向かないと言われ、煮えくり返るように腹が立ったことを覚えている。
もちろん怒りと同時に――羽多野の指摘が事実だということを心の奥底では理解していたのだと思う。ただ、認めたくなかっただけで。
あれだけ栄を苦しめて、まだ羽多野は物足りないのだろうか。こんなにも弱った栄をさらに打ちのめそうというのだろうか。
「……神様だなんて思っていません。第一そんなに私が有能ならば、笠井先生やあなたとのこともこんなに長引かずにすんでます。大体、誰のせいでこんな――」
「自分のせいだろ」
容赦ない言葉が至近距離から投げかけられた。冷たい視線に晒されながら、栄は自分が羽多野に腹を立てているのと同様に、羽多野も栄相手にひどく腹を立てているのだと再確認した。
「人にはそれぞれ領分がある。うちの先生は学もないし頭も悪いが地元の声を吸い上げて中央に持ってくるっていう本務には愚直だ。俺は先生の無理難題に付き合いながら、わけのわからない感情論を少しでも政策提言としてまとめる手伝いをするのが仕事。で、それを受けてどうするかはそっちの問題だろう。周囲を頼って調整する努力もせず、勝手に背負いこんで自爆したのを議員や俺に責任転嫁するな」
「な……」
栄は絶句した。
上司を煩わせず、部下に面倒を押し付けず、できるだけ広い責任範囲をフォローしていくのが仕事だと思っていた。そうやって自分だけの力で問題を一つクリアするごとに仕事への自信を深めてきたし、周囲も「さすが谷口くんだ」と評価してくれた。だが羽多野は栄が良かれと思ってやってきたことを全否定しているのだ。
もう我慢も限界だった。相手が与党議員の秘書だとか、関係を悪化させれば何らかの報復を受けるかもしれないとか、そんなこともどうでもいい。栄は掛け布団を跳ねのけて上体を起こすと、噛みつくように羽多野に言い返した。
「あんたこそ民意を受けた議員でもなんでもないただの秘書のくせに、偉そうなのはどっちだよ。そうやって役人追い込んで楽しいのか」
「ああ、生意気な奴の鼻っ柱を折るのは、面白いな」
そう言いながらも羽多野の顔に一切の笑いは浮かんでいない。
栄はますます怒り狂う。これまでのストレスや我慢も、尚人の誕生日を一緒に過ごすことができない落胆も、何もかもが混ざり合い大きなひとつの怒りになって、それを吐き出さずにはいられなかった。
「だったら満足だろう。ああ、全部駄目になったよ。仕事にスポイルされて私生活はボロボロだし、感情のコントロールもできなくなってパワハラだって評判だ。それどころか苦労して進めてきた新制度準備だって肝心なところで職場離脱。次に異動できるはずだったポストもきっと駄目になる。これまで積み上げてきたことが全部台無しだ」
「いいんじゃねえの?」
「ふざけんな、他人事だと思って」
点滴のチューブのおかげで身動きがとりづらい状態にあるのは幸いだった。でなければ顔色一つ変えずに栄の気持ちを逆なでしてくる男を殴り倒していたかもしれない。失うものなんてもう何もない。あとで問題になろうがいま羽多野を殴ることで少しでも気分が晴れるなら、それでよいのだと。
「一度完全に心が折れて、ぶっ壊れたほうがいいんだ。君みたいなのは」
面白半分に人を追い詰めて、壊れかかった姿を見てなおも砂をかけてくる男。ここに至ってきれいごとなど聞きたくはない。
「挫折を知ったほうがいいって言いたいのか? 挫折を知れば弱者の気持ちがわかるようになるとか、人に優しくなれるとか、そんなのただのきれいごとだ。一度壊れたものは二度ともとに戻らないんだよ。だから絶対に俺は――」
負けたくなかったし、倒れたくなかった。父親の反対を押し切って選んだ仕事だ。誰よりも優秀で、誰よりも評価されて、誰よりも先頭を走っていたかった。
落伍する人間は能力か才能か努力が足りないかのどれかで、いずれにせよ敗者だ。自分はそんな平凡な人間とは違うのだとずっと信じて、そのプライドを頼りにやってきた。挫折に意味があるとか弱さこそ優しさだとか、そんなのはただの負け犬の遠吠えだ。
「そりゃそうだ。挫折なんてろくなもんじゃないし、壊れたものが完全に戻ることもない。でも、ちょっとつまずいたくらいで死ぬわけでもないんだから。谷口くんみたいなのは、なまじ賢くて転び方をしらないから失敗を過剰に怖がってるだけだ」
鼻の奥がツンと痛んだ。悔しさと情けなさで涙が出てきそうで、でも死んだってこんな男の前で泣きたくない。栄は羽多野を渾身の力でにらみつけると、再びベッドに横たわり空いている方の腕で布団を顔の上まで引き上げた。
「つまらない説教しに来たなら帰れ。二度と俺の前に顔を見せるな」
涙声には聞こえなかったはずだ。布団の下で目を閉じて、気付かれないように必死で深呼吸して、栄はなんとか心を落ち着けようとする。帰ってほしい。これ以上心を乱さないで欲しい。ひとりにしてほしい。
やがて羽多野が立ち上がる音がした。続いてパイプ椅子を閉じて、壁に立てかける音。ようやく立ち去る気になったようだ。
「しかし、やっと素が出たな。それだけいい性格してて普段あんなに猫被ってるんだから、そりゃストレスもたまるはずだ」
おまえだけには言われたくないと思う。わざわざ見舞いの体で、弱った人間を打ちのめしにくるような男にだけは。
「……議員秘書ってマナーの類には厳しいんだと思ってたけど、何だよ鉢植えって」
苦し紛れの悪態だ。検査入院ごときで見舞いを持ってこられるのも迷惑だし、それが鉢植えだなんてなおさらに質が悪い。
だが羽多野は、栄の不満など織り込み済みなのだろう。
「『根付く』は病人にはタブーだって? だからこそ、わざわざクソ重い鉢植え買ってきてやったに決まってるだろ」
そして、去り際に投げかけられた言葉にはかすかな同情の色が混ざった。
「しばらく休めよ。とりあえず何も考えず」
栄は布団を被ったまま、革靴の足音が去っていくのを聞いていた。
悔しい。いままでの自分が間違っていたというのだろうか。過剰な仕事を背負い込んだのも尚人を失いそうになっているのも、すべてが栄のひとりよがりで自業自得だと言うのだろうか。だとしたらあまりにも間抜けだし、あまりにもこれまでの自分が救われない。
怒りはしばらく胸の奥で渦巻いていたが、夜の病院の静けさの中で少しずつ心が凪いでいく。そういえばほとんど食べられなかった夕食のときに飲んだ薬には眠りやすくする効果があるのだと聞いた気がする。
忍び寄る眠気の中でふと、自分はいまひとりなのだと思った。
すっと気持ちが楽になる。
ひとりなのに、ちっとも寂しくないのが不思議なくらいだった。いまこの瞬間は仕事のことも出世のことも上司や部下との関係も、父親への意地も――何も考えなくていい。考えようが考えまいが、どうせ全部だめにしてしまったのだからいまさらどうだっていい。
そういえば今夜、尚人は自由だ。
携帯電話を買い替えさせるくらいで連絡先がわからなくなるはずもない。尚人はきっと未生の番号を記憶しているだろうし、未生は尚人の住んでいる場所を知っている。いつだってその気になれば彼らは会うことができる。栄が確実に戻ってこない今日など、特に。
栄は眠い目をこじ開けてスマートフォンを引き寄せた。尚人の居場所を確認するために使っているアプリのアイコンをしばらく見つめ、少し考えてからそれを削除する。それから、間もなく訪れるであろう眠りを妨げられることがないよう端末の電源を切った。
いまはただ、何も考えずにひとりでゆっくり眠りたい。