帰宅した未生が玄関のドアを開けると、父のものとは異なる革靴が揃えてあった。見覚えのある黒のストレートチップ。リビングに向かって耳を澄ますと父の不愉快な声に混じって羽多野の低い声が聞こえた。父を送ってきたか、何らかの用事で呼び出されたかのどちらかだろう。
未生はそっと足を忍ばせて二階の自室へ避難した。羽多野がいなければきっと未生の帰宅に気づいた父に呼び止められて気分の悪い口論のひとつふたつ繰り広げる羽目になっていただろうから、ちょうど良いタイミングだった。
しばらく経ってから、階段を上る足音とともに羽多野が未生の部屋にやってきた。顔を合わせるのは父親の政治資金パーティのとき以来だ。
「よお、未生くん」
ノックもせずにドアを開けられたことの抗議を込めて、未生はわざと羽多野に背を向けたまま読んでもいない雑誌をめくり続ける。
「……何の用? ていうか勝手に人の部屋に入ってくんなよ」
「先生に頼まれてお届け物。で、失礼する前に未生くんにこのあいだお使いしてくれたお礼を言っておこうと思って」
軽い調子で言うが時刻はもう十時過ぎだ。羽多野と父との契約がどうなっているのかは知らないが、何か用事を思いつくたび父が時間を気にせず秘書に電話を掛けたり呼びつけたりするのは日常的で、見ている方が嫌な気分になる。
「こんな時間まで雑用とかブラックもいいとこじゃん。羽多野さんもいい年して、もっとまともな仕事探した方がいいんじゃねえの。ていうか雑談しに来たなら帰れよ、俺も暇じゃないんだからさ」
と言ってはみるもののいまは金曜の晩で、すでにアルバイトを終えて帰宅した未生が忙しいはずもない。ただ、いくら暇があったところでその時間を父の秘書との会話に費やすのはごめんだった。
これ以上話しかけられても無視を決め込むつもりでいた未生だが、次に羽多野が口にした言葉にそうもいかなくなる。
「……そうそう、谷口くんが未生くんによろしくって言ってたな。是非次に会ったら君に伝えておいてくれって」
谷口、という名に未生は思わず振り返った。
「は? 羽多野さんあいつと会ったの? よろしくって、どういうことだよ」
谷口栄――尚人の恋人。尚人が未生と寝たことに気付いてから、シャツで隠れない場所にキスマークや噛み跡を付けて独占欲をあらわにした男。尚人とコーヒーショップで別れて以来できるだけ考えないようにしていたものがいきなり向こうから殴りかかってきたような気分だった。
特段害もなさそうな伝言に対して怒りをあからさまにした未生を見て、羽多野は怪訝な顔をした。
「そんなこと俺が知るもんか。君にパーティで声かけられたこと覚えてたんだろ。先週だったか、良い青年ですねって褒めてたぞ」
「くそ、あいつ……」
何が「良い青年」だ。完全に馬鹿にしているとしか思えない。未生は奥歯を強く噛んだ。
こんなのどう考えても意趣返し――それどころか勝利宣言だ。未生がパーティのときに話しかけたことを栄はきっと根に持っていて、だからこそこうやって改めてメッセージを送ってきたのだろう。実際に尚人は栄の元に留まり、未生とはもう二度と会わないと断言した。どれだけ悔しがったところで未生の敗北は明らかだ。
栄の澄ました小奇麗な顔を思い出してひどく嫌な気分になるが、羽多野はさらに意外なことを言いだす。
「まあ、その谷口くんも今日倒れて入院しちゃったんだけどな」
「入院? 何で!?」
思わず大声を上げそうになって、自制する。すぐ隣の部屋では優馬がもう寝ているはずだし、声が階下に聞こえれば父を刺激するかもしれない。
それにしても、栄が入院というのはどういうことだろうか。混乱する未生に向かって羽多野は飄々と続ける。
「過労じゃないか? いろいろひとりで背負い込んでたみたいだし。とりあえず数日は検査入院するってさ」
恋人の仕事が忙しく体が心配だ、という話は尚人も頻繁にしていた。それにしたって尚人の浮気を追及して激しいセックスをする余裕のある人間が倒れたと聞いたところで未生の心には寸分の同情も浮かばない。むしろ尚人に酷いことをした天罰が下ったのではないかとせせら笑いたいくらいだった。
「……羽多野さん、詳しいんだな」
未生と栄が面識は薄いままに敵対関係にあることを羽多野は知らない。栄の健康状態に関する下世話な関心をどこまで表現すべきか迷い、未生の態度はどうしても中途半端なものになった。
だが幸い羽多野は未生の奇妙な態度を深追いすることなく、あっさり経緯を話してくれた。
「うちの事務所に来ているときに倒れたから行きがかり上ちょっと気になって様子を見てきたんだ。体調よりはメンタルがやられてる感じだけど、まあ死にはしないだろ。恋人が見舞いに来てたよ」
「恋人……」
思わず口の中でつぶやく。尚人のことだろうか。でも、そうだとすれば羽多野がこんなに平然と未生に向かって話題にするだろうか。別の人間のことを恋人だと勘違いしているのか、でなければ。戸惑いながらも未生は心に浮かんだ疑問をぶつけてみることにした。
「もしかしてそれ、男じゃなかった?」
「未生くん、なんで知ってるんだ。谷口くんに悪いと思って伏せたのに」
万が一にでも栄に別の恋人がいれば、という未生の儚い希望は瞬時に露と消える。羽多野は、栄の病室を訪れていた恋人が同性だった事実をあっさりと認めた。だとすれば相手は尚人に違いない。
「一緒にいるところを見たことがある。だからあいつ――谷口って人のことも覚えてたんだよ、男同士なんか目立つだろ」
未生またひとつ新しい嘘を吐いた。
過労で倒れた栄に献身的に付き添う尚人。想像したくなくても鮮やかに映像が浮かぶ。心配そうに、悲しそうに、でもあれだけ深い愛情を向けていた相手とゆっくり過ごすことができるのは彼にとってもしかしたら幸せなことなのかもしれない。
たったいままで因果応報だと思っていた栄の境遇も、尚人が付き添っているのならば話は別だ。嫉妬に似た感情が未生の胸を焼く。
「ふうん、だからあのとき変な顔してたのか。俺はちらっと挨拶しただけだが、真面目そうっていうか雛人形みたいなカップルだな。アラサーにしちゃこなれてないっていうか」
羽多野は未生の気持ちなど察することなく、いけしゃあしゃあと適当なことをまくしたてた。いや、適当だからこそ本質をついているともいえる。賢くて真面目であつらえたようにお似合いの二人、羽多野の目に尚人と栄はそう映ったに違いない。きっと尚人と未生が並んでいるのを見たって同じようには評しないだろう。
悔しくもどかしい気持ちが心の半分。残りの半分は、少しずつ育ててきたあきらめ。
「なあ、羽多野さん。谷口ってどんな奴」
そう問いかけると、羽多野は軽く首を傾げて考える時間を取った。
「そうだな、プライドはすっげえ高そう。ただ責任感強いし真っ直ぐだし……心根は悪くないんじゃないか」
「ふうん」
あれから一週間、尚人からの連絡はない。未生に別れを告げ、優馬の家庭教師も辞め、尚人は栄との日常に戻ったのだろうという思いは日々増していた。
まるで罵りあいのような形で終わってしまったがゆえに未生の中で尚人との関係が完全に清算できたわけではないが、あれだけの拒絶の言葉を吐かれてまだ追いすがるというのも何か違っている気がした。
最初から勝ち目なんかなかったし、それでも奪いたい気持ちがあるのならば虚勢を張るべきではなかった。これまで何人もの相手を粗末に扱って、尚人に対しても露悪的に振舞ってきた結果がこれ、何もかも自分で蒔いた種であることは認めざるを得ない。
このままでいいのかもしれない。
尚人はあの恋人とやり直す。羽多野のような鋭い男が心根は悪くないというのだから、きっと谷口栄は良い奴なのだろう。尚人だっていつも恋人の人間性のことは褒めていた。あの痛々しい跡はただの瞬間的な怒りによるもので、彼らが既に和解して甘い日常を取り戻しているのだとすれば――。
未生はそのうち尚人を忘れる。新しくまた適当な相手を探して日々の欲望を散らして、それはそれで悪くない。そんな生活の方がきっと自分にはお似合いだ。