羽多野が出て行って少し経ち、両親もそれぞれ寝室に入る音がした。父と顔を合わせる可能性がなくなったので、未生はようやく一階に降りて風呂に入った。髪を乾かし水を飲んで、二階に戻ったところで廊下にぼんやりと経っている白っぽい影に驚き思わず立ち止まる。だが、それはもちろん幽霊でもなんでもない。
「優馬、おまえこんな時間に何やってんだよ」
「……おしっこに行っただけだよ」
ささやくような声で言い返してくる弟の頭をぐしゃぐしゃと撫でながら、未生はすでに扉の閉まっている父親の寝室に視線を向けた。
「寝る前にトイレ行かなかったからだって、叱られるぞ」
そう言いながら自室の扉を開けると、優馬も後についてくる。さすがに父親に夜更かしがばれて叱られるのは嫌なのだろう、唇の前に人差し指を立てて未生にも小声で話すよう背が観ながらドアを閉じた。
「いいじゃん、ちょっとくらい。金曜なんだし」
父や母には決して言わないわがままも、兄ならば怒らずきいてくれると舐められているのは確実だ。だが、優馬に甘えられると未生は冷たくできない。そういえば、こうやって夜中に部屋に入れてやるのも久しぶりだ。未生があきれ顔でうなずくと優馬は嬉しそうにベッドの上に飛び乗った。
賢く物わかりが良い一方で、こういうときの優馬の仕草はひどく幼稚にも見える。九歳児とはこんなものだったかと思いを馳せて、自分の少年時代と優馬のそれは環境から何からまったく違っていることに思い至った。比べることに意味などない。
「そういえば、新しい先生は来たのか?」
「うん。男の先生で、前の相良先生よりちょっと年が上」
ふと気になって訊ねると、優馬は新しい家庭教師について淡々と答えた。
未生からも頼んではみたものの、尚人は翻意することなく優馬の家庭教師を辞退した。わざわざ家庭教師センター代表の冨樫から直々に謝罪の電話があり、尚人に負けず劣らず評判の良い講師を派遣して、しかも今月分の月謝は無料ということで話がついたようだ。
「どうだった?」
「わかりやすいし優しいし、普通だよ」
褒めている割に評価は高くない。優馬が新しい家庭教師に満足していない様子であることは口ぶりから明らかだった。
「わかりやすいし優しいなら十分だろ。それでも前の先生の方がいいのか?」
問いかけると優馬は大きく首を縦に振る。
未生は一度も尚人と優馬の授業を見たことがない。二人がどんな雰囲気で何を話していたのか知らないので、なぜ優馬がたいして面白いことも言えない尚人のことをそんなに気に入っているのか理解に苦しむ。だって、子どもならばもっとひょうきんで明るい先生の方が一緒にいて楽しいに決まっている。
出会った頃の未生は、むきになる反応を面白がって尚人のことを真面目なだけでつまらない奴だとしょっちゅう揶揄していたし、尚人自身もそのことを気にしているようだった。家庭教師という仕事も消去法で選んだだけで、本人は決して天職だと考えてはいない。なのに、なぜか優馬は尚人を気に入っている。
「すっげえ普通っぽい人だったじゃん。どういうところがいいんだよ」
こんな風に尚人を否定するような言い方をしてしまうのは、未生の中にまだ未練がわだかまっているからだ。小さな弟の口からさえ、尚人がごく平凡で面白くもない、いつまでも固執するほどの相手ではないという言葉を引き出したがっている自分が滑稽に思えた。
未生の質問に、優馬はうーんとうなって言葉を探す。
「頭を怪我したり風邪ひいたりしたときいつも心配してくれたし、僕が運動できなくても、おしゃべりが上手じゃなくても大丈夫だよって言ってくれたよ。未生くんには未生くんのいいところがあって、優馬には優馬のいいところがあるんだよって」
細やかなことまで気にかけてくれたから、欠点も認めてくれたから。些細なことのように思えるが、優馬のような内気な子どもにはそういった気遣いが響くのかもしれない。だが、それ以上に気になる言葉は――。
「俺の、いいところ?」
唐突に自分の名前が挟まれる理由が未生にはわからない。だが優馬は大きくうなずいて笑った。
「うん、僕が未生くんみたいになりたいって言ったから。未生くんは走るの早くて力持ちだし、誰にでも嫌なこと嫌って言えるし、すごく優しいんだよって。だから僕もああなりたいって」
絶句の後、未生は頭を抱える。優馬が未生の本質を知らないまま強く優しい兄だと思い込んでいることは知っている。どうせ成長して現実に気付くまで数年のことだと思って、過剰な評価もそれゆえの憧れや親近感もくすぐったく受け止めてきた。だがそんな恥ずかしい話を他人にまで聞かせているのだとすれば、黙ってはいられない。
未生は思わず真顔になった。
「……おまえさ、そんなこと言ってまじで俺みたいに馬鹿になったらどうすんだよ。変なこと考えるなって。俺が優しいとか、ただの勘違いだぞ」
そうでなければ優馬は「優しい」という単語の意味をはき違えているのだろう。いくら成績優秀でも、こんなに間抜けだと将来が思いやられる。
だが未生の困惑など一切気にせず、優馬は自信たっぷりに続ける。
「優しいよ。お父さんとお母さんも優しいけど、たまに怖いときがあるし、いい子で勉強頑張らなきゃって思うからずっと一緒にいるとちょっと疲れちゃう。でも未生くんは夜中まで起きてても、僕の成績が悪くても全然平気でしょ」
「優馬、覚えとけ。俺みたいなのは優しいんじゃなくて無責任っていうんだからな」
案の定、何か考え違いをしているとしか思えない弟の目を正面から見据えて未生は言い聞かせた。優馬は未生とは違う。まともな家庭で、厳しくはあるが一応はあの父親からも愛情を受けて育っているし、このまままっとうに成長すべきだ。
自らの言葉の誤りを指摘されて、優馬はそれでも不満げだ。唇を尖らせてしつこく自分の正しさを主張しようとする。
「でも、僕が未生くんといるとほっとするって言ったら、相良先生もその気持ちわかるって言ってたよ」
未生の心は大きくざわめくが、優馬の手前気持ちが顔に出ないよう抑える。
「……何だよそれ。俺のことなんか何も知らないのに適当なことばっかり。やっぱり優馬、先生変わって良かったんじゃないか」
そう言って弟の腹のあたりを両手でつかむと、一度宙に持ち上げてから床に降ろした。だいぶ重くなってきたので、こんな風に子ども扱いできるのもあと数年。なんだかそれはひどく寂しいことであるような気がした。
「ほら、いい加減に寝ろ。子どもの起きてる時間じゃないぞ」
優馬を寝室に送り届け、自室に戻る。
ひとりになれば頭を支配するのは、さっき優馬に聞かされた言葉だ。
いつだって文句ばかりで、褒められたことなどない。それどころか最後に会ったときには人とまともな関係を築こうとしない不幸な人間だと言われた。未生のことなどただ体の渇きを癒すだけのつまらない相手だと思っているに違いないのに、何が「その気持ちわかる」だ。いくら子ども相手に適当に話を合わせたにしたって、聞かされた未生は惨めになるだけだ。
――体を重ねれば重ねただけ、寂しくなる。
尚人は未生との関係をそう言葉にした。結局のところそれが答えで、未生が尚人に与えられるのは寂しさだけ。一方の栄は少なくとも尚人に、優秀な男に選ばれた存在であるという価値を与える。
わかっていながら、未生はぼんやりと妄想してみる。今日ならば栄は入院していて家にいない。もしも未生がマンションに押しかければ尚人はどうするだろう。でも、いくら考えても尚人が未生を部屋に迎え入れる場面は想像できなかった。なにしろあんなに酷い跡を付けられても尚人は栄をかばい、未生に助けを求めようとはしなかった。それどころか迷惑そうに突き放し、冷たい言葉を投げてきたのだ。
馬鹿なことなど考えてはいけない。未生は自分にそう言い聞かせて部屋の明かりを消した。
翌朝、昼前にようやく起き出すとリビングに父親の姿があった。真希絵と優馬は出かけているのか気配がない。昨晩はうまく逃げ切ったと思ったら今度は二人きり。最悪のシチュエーションから脱しようとすぐさま引き返そうとするが、背後から父親の声が飛んできた。
「おい、夜中に優馬を起こして何を話してたんだ」
どうやら父は、昨晩未生と優馬が話しているのに気づいていたらしい。だったらその場で注意すればいいのに、朝になってねちねちと嫌味を言うところがいかにもこの男らしい。
「人聞き悪いな、盗み聞きなんて」
「馬鹿言うな、盗み聞きなんかするか。おまえの部屋からこそこそ声が聞こえてきたから目が覚めたんだ。まったく、優馬は十時には寝るってわかってるだろう」
案の定、父は未生が眠たがる優馬を無理やり起こして話に付き合わせたと思い込んでいるようだ。成人した男がそこまでして小学生の弟と話したがる理由がないことには少し考えれば気付きそうなものだが、父の単純な頭の中では家庭の中の気にくわないことはすべて未生に直結しているのだ。
「便所に行ったついでに目が覚めたっていうんだからしょうがないだろ。別に金曜の夜にちょっと夜更かししたくらいで目くじら立てるなよ」
「子育てもしたことないくせに、わかったようなこと言うな。第一おまえがこの家にいるだけでも優馬には悪影響なんだ。これ以上変なことを吹き込んだらただじゃおかんぞ。おい、どこ行く」
話を最後まで聞かずにリビングを出ていく未生に、父はまだ何か言いたい様子だがもちろん付き合うつもりなどない。未生はいったん自室に戻ってコートを羽織り、財布とスマートフォンだけ手にするとそのまま家を飛び出した。
嫌なことが続いているところに父の説教。未生の苛立ちは限界だった。着替える余裕もなく出てきたのでコートの下はスウェット。この格好では電車に乗るわけにもいかない。コンビニで立ち読みして暇をつぶして、さすがに数時間も経てば父も出かけているだろうか。
せっかくの週末が台無しだとため息をついたところで、数メートル先に止まっていた白いワゴン車のドアが開いた。冴えない風体の中年男がそこから車を降り、未生のいる方向へ歩いてくる。
見知らぬ人間だし、まさか自分に用事があるとも思わない。狭い歩道で肩が触れ合わないよう未生は端に避けるが、なぜだかその男は未生の目の前で立ち止まる。
「笠井未生さんですか?」
突然名前を呼ばれわけもわからず、未生は男が差し出した紙片に目を落とした。