74.  栄

 胃潰瘍と過労のため栄は一週間入院した。おまけのように精神科からは適応障害の診断書までもらい、投薬と安静に務めつつ退院後も一か月間は休職して様子をみるように、というのが総合的な医者の判断だった。

 倒れた日の晩に嫌というほど睡眠をとっただけでも見違えるように体調は良くなった。しかし仕事のことを考えるとなんとなく胸のあたりが重くなり、思っていた以上に自分が追い込まれていたのだと栄も認めざるをえない。

 一か月も休んだら仕事に戻れなくなるかもしれないという怖さもあるが、そんなことよりいまは一度完全にリフレッシュすべきだと言われれば、確かにそうなのかもしれないと思った。

 日曜日には、午前中に山野木、午後に大井が見舞いに来た。感情的に振舞って嫌な気持ちをさせてしまった上に、見舞いなどというつまらない用事で部下の休日をつぶしてしまったことには罪悪感が募る。

 小さなブーケを持ってきた山野木は、ちょうど尚人のいる時間帯にやってきた。彼女が頭を下げると尚人は「従兄弟なんです」とごまかし、用事があるからと言ってそそくさと帰り支度を整える。申し訳ないような気もするが、呼び止める理由もなく栄はその背中を見送った。

「あの……」

 そう言ったきり黙り込む山野木の表情はまだ硬く、栄に冷淡な態度を取られたショックが消えていないことは明らかだった。勧めればパイプ椅子に腰掛けはしたものの、栄と目を合わせないまま自分の膝ばかりを見つめている。

 先に口を開いたのは栄だった。

「山野木さん……このあいだのことは、ごめん。俺が全部悪かった」

 人事からパワハラだと言われた行為に自分から言及するのにはもちろん多少の勇気は必要だった。だがここで謝らなければきっと、まっとうな社会人に戻ることすらできなくなってしまう。

「谷口補佐……」

 栄の言葉に驚いたように山野木が顔を上げたので、ベッドに座った状態ではあるが深く頭を下げた。一度謝罪してしまえば、不思議なくらいすらすらと続く言葉は出てくる。

「いくら山野木さんに期待していたからって、そんなのはこっちの勝手な気持ちだよな。なのに大人げない態度を取って、しかも八つ当たりみたいに仕事を取り上げて。人事に言われるまでパワハラだって気付かなかった自分が恥ずかしいよ」

 裏切られた気持ちが完全になくなったわけではない。だが、一方的な思いを部下に押し付け、期待していない行動をとられたからといって冷たい態度を取るのは間違っていたのだから、いまはただひたすら謝罪するだけだ。それに、短いあいだであったとはいえ同じ職場を選んでくれた若者がこのままでは嫌な思い出を抱いて退職することになってしまう。彼女の一年間の頑張りを汚す権利など栄にはない。

 あまりに長く頭を下げ続ける栄に、山野木はむしろ困惑しているようだった。

「補佐、頭を上げてください。謝るなんて、そんな」

 言われてやっと顔を上げるが、正直彼女と正面から向き合うのが怖かった。傷ついているかもしれない、怒っているかもしれない、そんな山野木と正面から顔を合わせるよりは頭を下げている方がずっとましだというのが本音だ。

 だが、思い切って視線を向けた山野木の表情は、さっきとは打って変わって柔らかなものになっていた。

「私もいけなかったんです。本当はもっと早くから話を、相談をすべきだとわかっていたのに補佐の邪魔になったらとか余計な気を回しすぎちゃって。結局すべて決めた後の事後報告になってしまったから、補佐が不快に思われるのも当たり前なんですけど、あんまりに谷口補佐が優しいから甘えた気分でいて」

 この状況で優しいなどと言われても悪い冗談としか思えない。栄は思わず自嘲気味な笑いを浮かべる。

「優しい奴は、あんなことしないよ」

 髪もセットしていない色褪せた入院着で、過去の失態を部下に慰められている。いまの自分の姿を客観的に考えたところで、尚人が席を外していてくれて良かったと心から思った。

 栄が笑ったからか、山野木もようやく笑顔を見せた。

「自分でも、憧れて入った職場を一年ちょっとで辞めるなんでどうかとは思います。絶対に後悔しない自身もないし。だから補佐に引き留めていただいて、迷いを突かれたみたいで過剰に反応しちゃったのかなっていう気もして。本当にご迷惑をおかけしました」

 自分よりずいぶん年下の山野木が大人びて見える。

 栄はといえば、自分の意志で仕事を抱え込んでおきながら、周囲のサポートが足りないと内心では恨みを募らせてばかりいた。外面を気にするあまりにストレスは家族同然の尚人に向かい、思いやりゆえの行為にすらひどいことばかり言っていた。

 ここに至るまで栄はただ前を向き続けることだけが正しいのだと信じて、一度だって自分を省みることなくやってきた。過去のすべてが間違っていたとは思わないが、確実に自分や周囲を不幸にはしてきた。

「山野木さんがその若さで自分の人生とか適性とか立ち止まって考える勇気に、ちょっと嫉妬してたのかもしれないな。俺にはそういう柔軟性はないから」

「嫉妬なんて、そんなことありえないです」

 山野木は今度は恥ずかしそうに肩をすくめる。その姿を見て、栄はようやく彼女の前途を心から祝える気持ちになった。

「まあ、辞めるも続けるもどっちが正解かなんてずっと先にならなきゃわからないことだし、最終的には山野木さんがこれから何をどうするかで決まるんだろうから。俺にはもう、頑張ってとしか言えないよ」

「ありがとうございます」

 弾かれたように立ち上がって頭を下げる山野木の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。

 一方、午後にふらりと現れた大井は、病床で退屈だろうと最近めっきり遊ぶ暇がないというポータブルゲーム機と数本のソフトを見舞い代わりに持ってきて、勧められもしないうちに勝手に椅子に座る。

「山野木もまだまだガキだし、補佐のこと王子様か何かだと勝手に夢見てたからその分ショックだったんじゃないですか。これもいい人生経験っすよ」

 栄に苦言を呈したときの真面目な顔が嘘のように軽い口調で言われると、むきになって否定したくなるから不思議だ。

「違うって、俺のやったのはパワハラなんだから」

「パワハラねえ。まあ、確かにそうかもしれないけど、俺からすれば谷口補佐も人に当たったり過労で倒れたりするんだなって安心しましたけどね。なんつーか、人間らしさを垣間見たみたいな」

「なんだよその言い方」

 人をなんだと思っているのだろう。あんなに努力して保ってきた外面が、むしろ親しみづらかったと言われているようで複雑な気持ちになる。だがこれも、大井なりの気遣いなのだろう。栄は素直に部下の優しさを受け止めることにした。

 ひとしきり職場の話を終えた後で、大井は栄に前日に恋人の実家に行ってきたのだと告げた。一度仕事で直前にキャンセルにしたまま、ずるずると先延ばしにしていた結婚の申し込みをようやく済ませたのだという。

「へえ、おめでたいじゃないか」

「夏の選挙時期なら仕事もそう忙しくないだろうって、すぐさま八月に式場予約入れられちゃいましたよ。というわけで披露宴には補佐も呼ぶんで、三万円持ってきてくださいね」

 いつまでもモラトリアムのようなことばかり言っているが、その表情からは満更でもないのが見て取れる。不安だった相手の親への挨拶も終え、大井にとってもいまは幸せな時期なのだろう。

 人生で一度だって結婚と自分とを結びつけて考えてことのない栄にその喜びはわからない。ただ、嬉しそうな顔をした部下が自分にその幸せの一端を分け与えようとしてくれていることは率直にありがたかった。

「俺みたいな駄目上司でいいなら、行かせてもらうよ」

「駄目上司どころか、補佐が独身だって知ったら彼女の友人が目の色変えますよ」

 そういえば同期の結婚式でも年頃の女性に囲まれ毎度うんざりするのだ。彼女はいますか、連絡先交換しませんか、この後予定ありますか――今度もまた怒涛のアピールを振り切るのに苦労するのだろうかと、栄は少し憂鬱な気持ちになった。

 結婚報告を終えたところで、あまり長居しても迷惑だろうと大井は腰を上げる。しかし一度ドアに向かいかけたところで思い出したように振り返り、戻ってくるとベッドの栄に向かって声を潜めた。

「そういえば補佐、俺、精子が薄い気がするって相談したじゃないですか。あれ、むっちゃよく寝て体調整えてから病院行ってみたんですけど、大丈夫でした。すっげえウヨウヨ泳いでましたよ」

 わざわざ戻ってきてまで報告するような内容とも思えず、栄はやや引き気味に笑う。

「ああ、そうなんだ。それは良かった……」

 何が悲しくて入院中に部下の精子事情をアピールされなければいけないのだろう。だが大井は栄の笑顔に一方的に何かを感じ取ったようで、元気づけるように肩を叩きながら勘違いこの上ない台詞を吐いた。

「補佐も倒れるほど疲れてるともしかしたらシモの悩みあるかもしれませんけど、休めば大丈夫だと思うんで!」

「うん、そういう話はここではちょっと」

 そういえば大井の相談を受けた頃は栄もEDと思しき症状に悩んでいた。あまりに悩んで治療薬を個人輸入するくらいだったが、結局あれは使わないままいまも財布に入れっぱなしだ。

 男性機能の悩みならば思いも寄らないところで治った。だがそれを決して喜べないことは、他の誰より栄自身が理解している。あんな無理矢理の暴力みたいなセックス、栄も尚人も決して望んだわけではない。

 退院まであと一日。再び始まる尚人との生活について考えると、栄の心はなぜだか憂鬱になった。

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