尚人は退院に付き添うと言ってくれたが、重病でも大怪我でもないのに恥ずかしいので遠慮した。母も同様のことを申し出たが、もちろん自宅に実家の家族を立ち入らせるつもりはない。
入院中に一度様子を見に来た父は、真顔で「役人なんかになるからだ」と言って、いまから弁護士を目指したって遅くはないんだぞと付け加えた。だがこれから勉強をしたとして、最も甘い見通しの元ですら業務をはじめられるのは三十代半ば。負けず嫌いの自分が同年齢の法曹たちとの十年間の経験差に耐えられる気はしないし、不肖の兄の身代わりとなって父の後を継ぐべく奮闘している妹だっていまさら栄が同業者になることにいい顔はしないだろう。父の言うことはもはや、現実味のないただの夢でしかない。
ほんの一週間の入院とはいえ着替えや洗面用具などで荷物は紙袋いっぱいになった。
山野木からもらった花はまだ美しく咲いている。根から切り離された花などせいぜい二~三日程度しか持たないだろうと思っていた栄には意外だったが、水換えをしながら母は「日持ちするタイプのお花だし、この時期はちゃんと手入れしてあげれば十日くらい持つのよ」と言っていた。勇気を出して見舞いに来てくれた彼女の気持ちを思うと捨てていく気にもなれず、看護師に古新聞を譲ってもらい包んで持って帰ることにした。
問題は羽多野の鉢植えで、重いしかさばるし、まったくろくなものではない。だが病院に鉢植えを捨てる場所などあるはずもなく、仕方なく袋に入れた。退院時の迷惑まで想定した上で選んだ見舞いの品だとすればあの男らしい高度な嫌がらせだ。
ほとんどの時間をベッドの上で寝ていた上に検査のために絶食期間もあったせいで想像以上に栄の体力は衰えていた。日差しはあまりにまぶしく、足腰もいくらか萎えているのか歩くのも億劫で、電車と徒歩で帰宅できる状態ではない。荷物も多いので病院前でタクシーを拾ってマンションへ向かうことにした。
車窓の景色はいつの間にかすっかり春だった。栄がぼんやりと外を眺めているのに気づいたのか、白い大きなマスクをつけた運転手が話しかけてくる。
「春のいい陽気ですね。気持ちいいけど、私みたいな花粉症持ちにはなかなかしんどくて。お客さんは花粉は大丈夫なんですか?」
「ええ、幸いまだ。今年の花粉は多いって聞きますから、症状のある方は大変でしょうね」
タクシーを使うのはほとんどが残業後の深夜帰宅のため。座席に倒れるように乗り込むと、少しでも睡眠が取りたいので行き先を告げて目を閉じる。運転手に話しかけられると全身から殺気を出して会話を拒否するのがいつものことだった。でも、のんびりした気分で昼間に利用する分には、こんな会話も悪いものではない。
「今年は暖冬でしたし、桜も早いって言いますよ。あと一、二週間で咲きはじめるんじゃないんですかね。お客さん、麻布の方だと芝公園あたりに行かれるんですか?」
「……もうそんな時期なんですね。例年この時期はばたついて、なかなか花見って気分にもなれなくて」
いつの間にか冬は終わっていた。
予算の話がはじまるから春。人事異動が気になるから夏。秋は臨時国会。そして年が明ければ通常国会の準備。いつだって栄の頭の中で季節というのは仕事を通じて感じるものだった。外気に触れるのは家と駅、職場の駅の短い時間だけで一日のほとんどをほとんど窓も開かないようなビルの中で過ごすのだから暑さも寒さもあまり関係ない。
もちろん仕事に復帰すれば、以前ほどではないにしても多忙な日々に戻るのは確かだ。今度こそ間違えないように振る舞えるだろうか。少なくともその努力はしたいと思う。自分も周囲も追い詰めずにいられる方法を探して、せめて季節の移ろいくらいはちゃんと感じつつ。
久しぶりに戻った自宅は驚くほどきれいに整えられていた。尚人は仕事に行っているが、栄が帰宅するからと気を遣って隅々まで掃除してくれたのだろう。
着替えを置きに自室に入るとベッドのシーツも洗い立てのものに取り替えてあった。病院の窮屈なベッドに比べると広々としたダブルベッド。だが入院前に自分がこのベッドの上で尚人にやってきたことを思えば気が沈んだ。ちらりと尚人の部屋を覗くと少しだけベッドが乱れていて、栄が不在の間は自室で寝起きしていた様子がうかがえた。
切り花は茎の端を切り直して花瓶に。十円玉を水に入れると花が長持ちするのよ、と母が言っていたことを思い出して財布を探る。
羽多野にもらった鉢植えは目障りこの上ないが、可憐に咲き誇る花に罪はないと考え直してとりあえずリビングのテーブルに置いた。きっと尚人が帰ってきたら、適切な置き場所を見つけてくれるだろう。
三日間の絶食の後は、重湯からおかゆへ少しずつ米粒の多い食事に変わっていった。昨日からはほぼ通常の入院食がさだれていたが、それでもしょせん病院食だ。退院後についても潰瘍の治療中は食事に気をつけるように言われていて、消化がよく刺激の少ないものを出来るだけ多くの回数に分けて……等々うんざりするほど注意事項を聞かされた。もちろん治癒までのあいだアルコールは禁止だし、運動も体調と相談しながら少しずつ、激しすぎないものからはじめるようにと言われている。
「……ていうか、暇だよな」
ソファに横になってみたところで、思わずそんなつぶやきが漏れた。
仕事もない、ジムにも行けないとなると自分がこんなにも無趣味で面白くない人間だったのだと思い知る。
そういえば昔は好きだったインテリアショップ巡りからもすっかり足が遠のいて、尚人の部屋にベッドを入れたときにはとりあえずネット通販で量販店の売れ筋商品を注文した。もしかしたらそういう些細なことのひとつひとつが尚人の中には積み重なっていたのかもしれない。
やり直したい気持ちはある。そもそも八年間も一緒にいる栄に、もはや尚人のいない生活など想像もできない。だが、それと同時に栄の中には、かつての尚人ではなくなった――夢を追わなくなった尚人への幻滅や、他の男と寝た裏切りへの怒りが、決して消えることなく残っているのだ。
尚人はいま、何を考えているのだろうか。
栄と同様に、どうにかしてやり直したいと思ってくれているのだろうか。それともタイミングを見計らってどうにかこの気難しく暴力的な男の元から逃げ出したいと思っているのだろうか。自分がやってしまったことを思えば後者であっても仕方ない気もするが、逃げ出した先があの笠井未生だとすればやはりどうしても許せない、というのが栄の正直な感情だった。
そんなことを考えているうちに少しうとうとと眠って、目を覚ましてもまだ午後四時前。やることがない一日は栄の想像以上に長い。
病院の指示を守った食事をするとすれば、外食は適さない。少なくとも容体が落ち着くまでしばらくは自炊しようと買い物に出かけることにした。
買ったままほとんど着ることのなかったカジュアルな上着を取り出し家を出ると、生暖かい春の匂いが栄の鼻先をくすぐった。最初は近所のスーパーマーケットで夕食の材料だけを買うつもりでいたが、歩いているうちに少し気分が良くなった。どうせこの先退屈な日々が続くのだからと、大型書店まで足を伸ばし暇つぶしに読む本を探すことにした。
文字は日々大量に読むが、ほとんどが仕事に関する資料で、近年では本を読む機会はめっきり無くなっていた。久しぶりに足を向けた書店で背の高い書架を埋め尽くす本の山には正直圧倒される思いだった。
棚のあいだを巡り順番に本を手に取る。仕事で世話になることも多い大学教授や評論家の本は、中身まで読み込んで話をしたいのにそんな余裕もなかった。書評だけ読んでその気になっていた政治や経済の本も、気にせずどんどん取っていくと腕の中はずっしりと重くなった。
会計に向かう途中、話題書と銘打って平積みしているコーナーに記憶にある名前を見つけた。確か学生時代に尚人が好きだと言っていたアメリカ人作家で、待望の新刊と書いてある。フィクションを好まない栄に小説の面白さはわからないが、尚人は研究に関係する専門書を読むあいだの息抜きにときたまこの手の本を読んでいた。
せっかくだから買って行ってやろうかと本の山に手を伸ばしたところで、しかし栄は考え直す。あれはもう七、八年も前の話だから尚人がいまもこの作家のことが好きであるとは限らない。逆にまだ好きなままでいるなら、既に新刊は手に入れているかもしれない。結局自分の本だけを買って店を出た。
よくよく考えると、長いあいだ一緒に過ごしてきたのに自分は尚人の好きなものが何であるのかもよくは知らない。いざ浮気をされるまで尚人がセックスレスに悩んでいたことにも気づかなかったし、それどころか共同生活を送る中で自分の言動や行動のどの部分がどれほど彼を傷つけていたかも、正直いまだよくわかっていないのだ。
病院での短い時間の面会と違って、今日からは尚人と過ごす時間も長い。帰宅してキッチンに立つうちに栄は緊張を感じはじめた。
「ただいま。なんだかいい匂いがする、夕ご飯作ってくれたの?」
尚人は帰宅すると鼻をひくつかせながらリビングに入ってきた。
「だって暇だから。ジムもまだ行っちゃ駄目なんだってさ。消化にいいもの食えとかうるさいし、休職のあいだは俺が家事やるよ」
「でも、安静にするための休みだろ。無理はしない方がいいよ」
尚人はポケットからスマートフォンを取り出しテーブルに置くと、コートを脱いだ。慣れた手つきでブラシをかけてハンガーに掛ける。栄が新しく買い与えたスマホにはまだ位置確認のアプリが入ったままだ。栄の側では既にそれを削除して居場所のトレースをやめていることを尚人は知らない。教えれば尚人は安心してまた未生と会いはじめるかもしれない――そんな不安は消えず、当面は何も言わないでおくことを決めている。
柔らかめに炊いた白米に蒸した白身魚。冷奴。ほうれん草のお浸し。病院の言うことを真に受けてメニューを考えたら年寄りの食卓のようになったが、すっかり胃が小さくなった栄にはそれで十分だったし、尚人も満足そうだった。
「花、きれいだね。こんなに長持ちするなんて知らなかった」
食卓を飾る花を見て尚人が言う。
「俺も知らなかったけど、切ったとこちゃんと処理して水替えていれば長く持つらしいな。折角持ってきてくれたから捨ててくるのも忍びなくて」
「あの子、栄の部下なの?」
「正確には『部下だった』かな。それに夏前には退職するんだ」
先週のうちに辞令が出て、栄のいたポストには後任が座った。栄は人事課付きの休職者ということになっており、来月の復帰後もしばらくは様子見で宙ぶらりんな席に置かれる覚悟はしている。
「こっちは?」
「ああ、そっちは係長の大井くん。暇だろうからって使い古し持ってきてくれたよ」
テーブルの隅に積んだままのゲーム機とソフトが部下からの見舞いだと知ると尚人は面白そうに笑った。
「忙しいのにお見舞いに来てくれて、いい子たちだね」
「まあな」
そう答えながら幾らか気まずい気持ちはある。
尚人には、倒れる直前に職場で起きたことを話してはいない。おかげで栄の不調のほとんどは自らの浮気のせいだと責任を感じているようで、それはそれで可哀相でもあるのだが、さすがにここで自身のパワハラ行為を告白してますます株を下げるようなことはしたくなかった。
栄のことを部下からの信頼の厚い立派な男だとまだまだ信じ込んでいるらしい尚人は、ふと視線を落として付け加えた。
「なんかこういうの見ると、長いあいだ一緒にいたのに僕って栄のほんの一部しか知らなかったんだなって思うよ」
きっといま、尚人も栄と同じような戸惑いを抱えてここに座っているのだろう。
ようやく戻れた自宅の風呂は気持ちよく、栄は珍しく三十分ばかりもかけてゆっくり入浴をした。入れ替わりに尚人が風呂に向かうのを見届けるとそのまま寝室へ向かう。病院の生活に慣らされてしまったせいで、十一時前なのにもう睡魔が押し寄せていた。
ベッドサイドの灯りで今日買ってきた本を読んでいると、尚人が風呂から上がる物音が聞こえてくる。栄にはもう、尚人を無理やりベッドに引きずり込むような気はなかった。病院でののんびりとしたひとり寝は意外にも快適だったし、二度と怒りに任せたセックスはしないと決めた。
だが、三十分ほどして栄が本を手にしたまま舟を漕ぎ出した頃に、寝室のドアが開いた。寝間着に身を包んだ尚人は当たり前のように部屋に入ってきて、栄が寝ているのと反対側からベッドスプレッドを捲る。
「ナオ」
栄はどう振る舞えばいいのだかわからない。
尚人は怯えているのだろうか。入院前に命じたことすべてがまだ有効だと思っていて、いまも栄に従おうとしているのだろうか。きっとそうに違いないと思った。
ベッドに潜り込んで、尚人はちらりと栄を見る。その意図はわからない。わからないから栄は読んでもいない本に集中しているふりをした。
やがて尚人が小さな声でつぶやく。
「栄、今日はいいの?」
その声はあまりに静かで、ただ入院前の習慣を確認しようとしているだけなのか、それとも誘っているだけなのか判別がつかない。栄はいくらかの迷いを感じながら、いまは尚人を抱けないという自分の気持ちに従うことにした。
「……安静にって言われてるから」
「そうだね。おやすみ」
尚人の反応が怖くて顔を見ることはできない。そのまま活字を凝視していると、やがて隣から寝息が聞こえはじめた。
起きているとき同様の行儀良さで、布団に肩まできれいに収まって仰向けに眠る。その寝顔を見ているとなんとも言い難い複雑な気持ちが押し寄せて、栄はそっと尚人の前髪をかき分けると額に軽く触れるだけのキスをひとつ落とす。それから灯りを消して、栄にもすぐに眠りが訪れた。