76.  栄

 もっと時間を持て余すのかと思っていたが、散歩、読書、家事に加え少し体調が戻ってからはジムでの軽い運動もはじめ、栄の療養生活は思った以上に順調に過ぎていった。自分は根っからの仕事好きのワーカホリックだとばかり思っていたが、休もうとすれば休めるというのは新しい発見だった。

 四月に入って少し経った日曜日、自室の収納をひっくり返しているところに尚人がやって来た。

「栄、何やってるの?」

 退院以降、一度も性交渉はない。まるで親しい友人のように、家族のように、栄と尚人の生活は一見ひどく平穏に、しかし薄氷を踏むような緊張感の中で進んでいる。

「大掃除」

 床に座り込んだまま、栄は尚人に答える。

 着ることのなくなった洋服や、もはや読み返すこともない書籍。実家から引っ越してくるときに特段の理由もなく持って来た大学時代の思い出の品など、何もかもをクローゼットから取り出してみればそれなりの量がある。

「こういうときじゃないと片付けもできないし。なんだかんだと物って溜まっていくよな」

 根が几帳面な栄としては、クローゼット内のカオスはここ数年気になりながらも目を背けていたことの一つだった。この休みを逃せば次はいつ時間が取れるかわからないので、徹底的に掃除しておくつもりだった。

 散乱した荷物を興味深そうに眺めながら、尚人が目を留めたのは栄の剣道用具一式だった。

「前はよく剣道行ってたよね、栄」

「そうだな。汗だらけの道着持って帰って、洗濯も大変だった」

 少年時代から続けていた剣道は栄の一番の趣味で、大学でもお遊びレベルのサークルではなく運動会の剣道部に入って関東大会でもいい線までいったのだ。

 就職後も数年間は役所の剣道部で練習したり、休日には実家の近くにある馴染みの道場で子ども達への指導がてら汗を流したりしていた。しかし仕事の負担が増すにつれてすっかり道場とは縁が遠くなり、用具一式もいつの間にかクローゼットの中にしまいこまれていた。

「天気いいし、ベランダでちょっと風に当てようかな」

 防具や竹刀の一式を見ていると無性に懐かしくなる。ちょうど陰干しに良い気候だと思い栄が口にした言葉に、尚人が訊ねる。

「再開する?」

「復職後の仕事がどうなるかわかんないけど、余裕があれば週イチでいいから行きたい。でも多分、ブランクですっげえ弱くなってるだろうな」

 正直な気持ちを栄は口にした。体力や体型を維持するために細切れ時間に運動ができるジムやプールに通っていたが、半ば義務的なそれらと違って子どもの頃から親しんできた剣道には楽しさが伴う。

「それでもいいんじゃない。栄は剣道大好きだからね」

 尚人はそう言って笑った。

 しばらく栄のクローゼットの中身を吟味しながら、それぞれの品にまつわる思い出をつらつらと話し合った。どうしても欲しかったけれど希望の色が品切れだと言われ、あちこちのセレクトショップを一日中回って見つけた鞄。一緒に出かけた旅先で気まぐれに買って二度と取り出すことのなかったオブジェ。

 もうずっと、二人でいてもどこか気詰まりで、無理矢理に当たり障りのない話題を探しているようなところがあった。しかしいまは違う。何も考えなくても次から次に言葉が出てきて、それは決してお互いを傷つけるようなものはない。柔らかい雰囲気の中、栄は入院以来ずっと気にしていたことをようやく口にする。

「ナオ、おまえの誕生日のことだけど。俺のせいで予定も駄目になっちゃって」

 栄が倒れたせいで箱根への一泊旅行は中止になった。値の張る旅館とシャンパンがプレゼントの目玉だったので、結局渡せたのはおまけ程度のつもりで準備していたキーリングだけだ。

「気にしてないよ。栄が重病じゃなくて良かった」

 尚人はそう言うが、栄の気持ちは単純ではない。こんなあっさりした言葉で終えられるのは、尚人は本当は栄との旅行など行きたくなかったのかもしれない――そんなもやもやした感情が浮かぶ。

「良かったら、また改めて箱根……」

 栄の申し出を、尚人は首を左右に振って断る。

「いいよ、このあいだだって前日キャンセルでお金かかってるだろ。それに……」

 一呼吸置くのはためらいの印。以前の尚人だったら、そのまま曖昧な笑みを浮かべて「何でもない」で終わらせるところだ。そして栄もあえてその先を聞き出そうとはしなかった。

 でも、今日の尚人は違った。顔を上げて栄の目を見て続ける。

「旅館もレストランも珍しいプレゼントも、もちろん気持ちは嬉しいんだけど、でも僕は……本当はこんな風に一緒にのんびりできるような時間があれば、それだけで」

 栄の胸は疼いた。ここのところ自分が尚人のことを何も知らなかったのだと感じることは増えたが、実際に本人の口からそれを裏付けるようなことを告げられた。

 栄はずっと、自分の価値観の中で良いと思ってきたものを尚人に渡し、それで尚人にも喜んでもらえているのだと信じていた。都会育ちで趣味嗜好や生活習慣が洗練されている自覚はあったから、地方で限られた情報や文化にしか触れずに育った尚人に自分の知る良いものを教え、自分の趣味に染めることが正しいことだと思ってきた。

 でもそれは本当に尚人にとって幸せだったのだろうか。

 栄には尚人のことがどんどんわからなくなる。どうしてそういうことを最初から言ってくれなかったのか、という戸惑いもある。だがいまそういうことで尚人を怒ったり責めたりするのも違っている。

 窓の外からは柔らかな春の風が吹き込んでくる。だから栄は少なくともいま自分が尚人にできる最良のことだけをやろうと決めた。

「ナオ」

 名前を呼ぶと尚人の表情がわずかに緊張をはらむ。過去の栄への否定とも受け止められないことを口にしたことはわかっていて、だからこそ反応を恐れているのだろうと思った。

 栄はまだ出しっ放しの荷物をそのままに立ち上がり、尚人に告げる。

「今朝のニュースで、桜が咲いてるって言ってた。花見行こうか。場所取ってないし酒も飲めないから、ちょっと歩くだけになっちゃうけど」

 尚人の表情から緊張の色が溶けて消える。

「……うん!」

 そう言って笑う姿はまるで出会った頃に戻ったかのようだった。

 大量の人でごった返す芝公園やミッドタウンよりはましだろうと、二人が向かったのは自宅からもほど近い有栖川記念公園だった。桜の本数は控えめだが、だからこそ花見のメッカのような場所と比べれば幾らかののどかさもある。

 桜はほぼ満開で、青空を背景に薄紅が映える。

 並んで歩きながら、栄は口にするかどうか迷った言葉を尚人に告げる。

「ナオ、俺さ、ナオのスマホの待受けが桜の写真だったのちょっと嬉しかったんだ。パスコードが俺の誕生日だったのも」

 迷ったのは当然で、それは浮気を疑った栄が勝手に尚人のスマートフォンの中身を見ようとした手口の話をしているに他ならない。

 せっかくのいい雰囲気をぶち壊すことになりかねない話題だが、いまのようなタイミングでなければまた長いこと口に出せないままになってしまうかもしれない。さっきの誕生日の件といい、尚人が尚人なりの勇気を持って正直に心の内を明かす気になっているのならば、ここで話すしかない。

「……ごめんね」

「ナオ?」

 責めたつもりではなかったのに尚人が謝るものだから、栄は自分が切り出し方を間違えたのだと思った。だが尚人は栄の戸惑いを気にせず続ける。

「君を裏切ったこと、一度もちゃんと謝れずにいた。何をどこから話せばいいのかわからなかったし、全部話せば栄を傷つけるかもしれないって思って」

 その言葉に栄は、尚人は尚人で話をするタイミングを探していたのだと知る。花見の季節ゆえに桜が密集するエリアを少し離れれば空いているベンチを見つけることも難しくない。栄は落ち着いて話ができる場所に尚人を導きながら言った。

「知っての通り俺は人間が出来てないから、怒らないとも傷つかないとも言えない。でももう決して酷いことはしないって約束する。だから、聞かせて欲しい」

 尚人は小さくうなずいた。