未生が尚人と最後に会ってからは、もう二ヶ月近くが経とうとしていた。もちろん一度だって尚人からの連絡はないし、未生から行動を起こすこともない。倒れた栄に病院で付き添っていた、というのが尚人に関して未生が得た最後の情報で、要するにそういうことなのだと自分を無理矢理に納得させた。
いくら退屈でも日々は過ぎる。あっという間に桜が咲き、散り、未生は大学三年に進級した。
授業を終えると友人たちとしばらく街をぶらついたりカフェでくだらない話をしたりして暇をつぶすという生活には特段の変化はない。
今日もそろそろアルバイトへ向かおうかと店を出た未生がスマートフォンを取り出すと、待ち受け画面が大量の着信通知で埋まっていた。
ほとんど掛けてくることもないし、一度だって出たことのない父の番号。気が向いた時しか出ない義母の真希絵の番号。それではらちがあかないから使ったのであろう優馬のキッズ携帯の番号。とにかくおびただしいポップアップからは、ただ事ではない何かが起こったであろうことが想像ができた。
誰かが倒れたとか事故に遭ったとか、そういった連絡だろうか。まずそう思ったのは少し前に谷口栄が過労で倒れたという話を聞いたからかもしれない。だが、父や真希絵に何かが起きたからといって未生には関心のない話だ――さすがに優馬の身に何かが起きたと言われれば気にはなるが――。
未生が電話を折り返すか決めかねていると、手の中の端末がぶるぶると震え出す。今度は家族ですらない、羽多野からだった。
わざわざ父の秘書までが連絡を取ろうとしてくるとは、どういうことだろう。さすがにここまで執拗に電話を受けることも珍しいので、未生は訝しい気持ちで通話ボタンに指を触れた。
「もしも……」
言い終わる前に、普段は鼻につくほど余裕ぶった態度を崩さない羽多野とは思えない鋭く焦った声色が耳に飛び込んでくる。
「未生くん!? 君、何てことしてくれたんだ!」
ある程度重要な話だろうという想像はついていたが、さすがに突然叱責されるとは思わなかった。怒りや理不尽さよりまず驚きが先に立つ。
「え……?」
唖然とした未生が聞き返すと、羽多野はさらに語気を強めた。その背後で固定電話の呼び出し音がけたたましく響いているのが異様に聞こえる。
「え、じゃないだろ。君が週刊誌に根こそぎ喋ったんだろう」
週刊誌、という単語を聞いてようやく未生は一か月近く前に会った男のことを思い出した。だがたとえ多少の騒ぎになるとしたって、それは未生と父との問題で身内でもない羽多野に怒鳴られる筋合いなどない。
「ああ? だったらなんだよ。あんたには関係ないだろ」
「関係ないわけないだろ。すでに他の週刊誌や新聞、テレビ局からの取材依頼で事務所の電話はパンク状態だ。君の家だってきっと記者に張られてるぞ」
不貞腐れたような未生の返事はなおさら羽多野を苛立たせたようだった。
だが未生としては羽多野が未生を叱るためにわざと大げさに話をしているとしか思えない。なんせ未生が話したようなことはちょっと地元で昔から父を知る人なら誰だって知っているような内容だ。さすがに体裁が悪い内容なのでわざわざ吹聴して回るようなことはないが、何をいまさらそんなに騒ぐのか。
「そんな騒がなくたって……だって別に、地元では」
「地元の支援者たちにとっては既知の話でも世間相手じゃ話は別だろう。選挙前のこの時期に、あんな話を全国規模でばらまかれるなんて。君が先生に恨みを抱いているのは否定しないが――あまりに時期が悪いし影響が大きすぎる」
段々頭が混乱してきた。週刊誌の記者を名乗る男と会って話をしたのは事実だ。ちょっとくらい父が恥をかいたり、痛い目を見ればそれでいいと思っていた。しかし一度話をした後で記者から再び連絡が来ることはなかったし、翌週、翌々週あたりは大学生協で気になって週刊春秋を手に取ってみたが、そこに父に関係する記事は見つからなかった。
未生の中では終わりかけた話が一ヶ月も経ったいまになってなぜわざわざ蒸し返されるのか、どことなく納得がいかない。
「でも、俺」
せめて何らかの抗弁をしようと口を開いたところで、羽多野は再び未生の言葉を遮った。
「電話で話したってらちが明かないから。家――いや、自宅はまずいな、ちょっとそのままどこかで待っていてくれ。ホテルを抑えるから、それからまた電話する」
「……わかったよ。羽多野さんの言う通りにすればいいんだろ」
未生は渋々了承する。羽多野の勢いと迫力に、少なくとも自分が軽い気持ちでやったことがとんでもないことを引き起こしつつあるのだという事実は認めざるを得なかった。
とりあえずアルバイト先には向かおうと、駅に行く。やってきた電車に乗り込んでふと顔を上げたところでありふれた週刊誌の中吊り広告が目に入った。いや、確かに一見ありふれてはいるけれど、未生にとってはそうでもない。
トップ記事は有名映画監督が暴力事件で逮捕されたという記事と、アイドル歌手の熱愛疑惑。だが問題はその隣に一回り小さなフォントで書き込まれている文字列。
〈――総選挙前特集第一弾・ベテラン代議士の黒い過去/息子が語る鬼畜の所業〉
大げさで扇情的なタイトル。その見出しには父の名前も未生の名前も出ていないが、意識した瞬間車両中の人々が自分を見ているような気がしてひどく落ち着かない気分になった。冷静を装って中吊りからそっと視線を外すとそのまま隣の車両へ移動するが、隣の車両にも同じものがぶらさがっている。結局いたたまれなくなった未生は次の駅で電車を降りた。
ホームのベンチに腰掛けると胸がむかむかしてきた。あえて自分から吹聴して回るようなことはしていないが、それでも未生が笠井志郎の息子だということを知っている人間はたくさんいる。
何も「息子が語る」なんてあんな書き方をしなくたっていいのに。あれを読んだ人は皆、未生のことを実の父を週刊誌に売った男だと思うだろう。いや、そんなことはいまさらどうだってよくて、でも――。
混乱して頭が回らず、まともなことが考えられない。確かなことはあの時の未生はどうかしていて、そのとき気の迷いでしでかしたことがいまになって予想外の重さで跳ね返ってきているということ。それだけだった。
しばらく座っていると電話が鳴る。それが羽多野からの着信であることを確認してから未生はのろのろとした動きで電話を取った。本音を言えば、いまは誰とも話したくない。
「未生くん、とりあえず今日避難するホテルは押さえたから。これから詳細を伝えるけどメモは取れるか」
先ほどよりは少し落ち着いた様子の羽多野は淡々と、未生に都内のシティホテルの名前と最寄駅、そして予約してある部屋の番号を伝えた。
「わかった」
未生はのろのろと鞄からペンを取り出した。
一ヶ月少し前の土曜日の朝、父と言い争いになった後で家を飛び出した未生は週刊誌の記者を名乗る男に声をかけられた。男は未生が父の前妻の息子であることや、父が政治家を志すに当たって水商売出身の未生の母と半ば強引に離婚したことを知っていた。
「君のお母さんのことについて、少し話を聞かせて欲しいんだけど」
もちろんそんな言葉に直ちに応じたわけではない。
「なんであんたにそんなこと話さなきゃいけないんだよ」
一応ジャケットは羽織っているものの、記者を名乗る男はどこか胡散臭く親近感は持てない。手渡された名刺には未生でも知っている大手出版社の名前と有名週刊誌の名前が記載されているが、それもどこまで真実なのだろうか。
未生に疑わしい目つきで観られていることに気付いたのか、記者は胸ポケットからIDケースを取り出し未生の前に差し出し写真入りの社員証を見せた。
「疑うならば編集部に電話を掛けてもらったっていいよ。こっちはただ、笠井代議士が前妻との息子さんと上手くいってないっていう話を聞いて、せっかくだから当事者である君の話を聞きたいなと思ってるだけだ。その方が正確な記事にもなるだろうし」
「記事……?」
もちろん雑誌記者なのだから記事を書くのが仕事なのだろう。だが未生にはその手の週刊誌を読む習慣はない。たまにインターネット上のニュースやテレビのワイドショーで見かけるその雑誌には、芸能人や政治家などのスキャンダルを暴き立てているという印象が強い。
「別に悪意があるわけじゃないんだ。でも夏には総選挙じゃないか。有権者にも、候補者それぞれの深いところまで知った上で投票対象を選ぶ権利があるだろうし、有力議員の裏話みたいなのを連載でやろうと思っているんだ」
綺麗事で説き伏せようとされれば反感を抱くのが未生だ。男の脇をすり抜けてそのまま通り過ぎようとする。
「俺、選挙とか興味ないから。それにあいつがバツイチだっていうのは地元に帰れば誰だって知ってる話だ。わざわざいまさら嗅ぎ回るような価値はないと思うけど」
そう言ったところで記者の目の色がわずかに変わった。いま思えば、海千山千の男は未生の冷淡な声色の奥に、深い父親への恨みの感情を読み取っていたのかもしれない。
「でも選挙はともかく君は自分のお母さんにひどいことをした代議士のこと、許せないんじゃないの? ちょっとくらい懲らしめてやりたいと思わない? もちろん話をタダで聞こうとは思っていないよ」
その言葉に未生は脚を止めた。
ちょうど気が立っていた。納得いかないかたちで尚人に別れを告げられたことはまだ割り切れないでいる。昨日は羽多野経由で谷口栄からの不愉快なメッセージを受け取った。さらに今日は朝から父親と出くわしせっかくの休日が台無しだ。
未生は何もしていないつもりだ。世間体を気にする父がせめて大学卒業までは未生のひとり立ちを許さないというから家も出ないでいる。父と真希絵と優馬という理想的な家族の生活をできるだけ邪魔しないよう、汚さないよう気配を消して暮らしているつもりだ。にも関わらず父は未生がただ存在しているだけで弟に悪影響を与えると言い切る。何もしていないのに憎まれ蔑まれるならば、いっそ――。
それは普段であれば耳も貸さないような悪魔の囁きだった。だが疲れて弱った未生には甘く響く。もしもこれで少しでも父を痛い目に合わせることができるならば、少しはこのもやもやとした気持ちも晴れてくれるのではないか。
未生は男について近所の喫茶店に向かった。