79.  未生

 未生の二十年と半分の人生を振り返ると、ちょうどほぼ半分を「笠井未生」として、残りの半分を「野島未生」として過ごしてきたことになる。

 最初の五年間の「笠井未生」としての時間のことは、ほとんど記憶していない。だが「野島未生」になって以降、母はしょっちゅう未生に過去の話を聞かせた。

「未生、あなたのお父さんは酷い人だったわ。あんなにお母さんのことが好きだって言って、仕事のことなんて気にしないって約束してくれたから結婚したのに、いざ邪魔になったら簡単に捨てるんだもの」

 母は元々家庭に恵まれず、児童養護施設から通った高校を卒業した後は地元の歓楽街で夜の仕事をしていた。すらりとして背が高く幼い未生から見ても美しく魅力的な人ではあったが、その魅力の一部が彼女の情緒の幼さや無知、そして頼りなさによるものだったことは否定できない。

 まだ三十代に入ったばかりの父にとっては、ようやく会社経営が軌道に乗り夜の街に足を運ぶ余裕も出てきた頃に出会ったのが彼女だった。夢中になって口説き、求婚して結婚、やがて未生が生まれたが、その頃には既に父の態度には異変が見えはじめていたようだ。

「余計なことを吹き込む人がいたのよ。会社も上手くいって、お金も儲かっているなら次は世の中のためになることをするべきだって」

 父が知人の依頼を受けて、仕出し工場の余剰食品を困窮者支援のため寄付する活動をはじめた時点では母も反対してはいなかったようだ。菓子や果物などの寄付先には貧困家庭や児童養護施設も含まれており、自分の出自を重ねていたのかもしれない。だが当時のことを振り返るとき、母はいつも憎々しげに「あれが間違いのはじまりだった」とつぶやいた。

 あの男なりの善意だったのか、それとも富を手に入れた人間にとってありがちな名誉欲なのかはわからない。笠井志郎による社会奉仕活動は少しずつ規模が大きくなり、やがてそれを聞きつけた保守連合の県連から、県議選への出馬を打診されたらしい。

 議員という肩書きは父にとって魅力的だったようだ――ということはやはり名誉欲がきっかけだったのだろう。そして県議選の公認候補となるにあたって問題となったのが、配偶者の問題だった。

 決して差別をするわけではないが、政治の道に進むのであれば選挙運動その他で配偶者も前面に立つことになる。そのときに本当に彼女で務まるのか。それだけではない、まだ何の地盤もない男の出発に当たって夜の仕事出身の妻というのは悪印象を与えるのではないか。それを言い出したのが周囲の人間だったのか父本人だったのかはわからない。いずれにせよすぐに離婚話を切り出したところからすれば、すでに妻への愛情は消えかかっていたのだろう。

 母は簡単には納得しなかった。だが度重なる――ときにやや脅迫的ともいえる説得と、ひとり息子の親権は渡すという約束により最終的には離婚届に判を押した。

「いま思えば騙されていたのよ。しばらく辛抱してくれれば、地盤さえしっかり固まれば家族のことなんか誰も気にしなくなる。そうしたらまた迎えに行くって、あの人はそう言ったのよ」

 もちろんそんな約束、父の側には守る気など毛頭なかったに違いない。翌年の統一地方選に出馬した笠井志郎の隣には、地味だがよく言えば清楚で賢そうな顔をした女が立っていた。母はそこで初めて、別れた男が、いくつも病院を経営する地元では名の知れた保守連合支援者の娘と再婚していたことを知った。

 母の絶望は大きく、未生は事あるごとに父への恨みつらみを聞かされた。出馬に際して母と未生を捨てた話の他にも、一緒に暮らしているころから家庭を顧みなかったとか、外で女遊びを繰り返していたとか、満足な生活費を与えてくれなかったとか。

 大人になったいま思えば、例えば女遊びの話など父の悪行の幾分かは母によって誇張されていたかもしれない。だが、繰り言のように、歌うように、呪詛のように、何度も何度も聞かされた恨み言は未生の心に深く染み付いて、いつからか父親というものへの思慕の情すらなくなっていた。

 離婚時に幾らかの手切れ金と、その後も毎月の養育費は払われていたのだろうが、あっという間に母と未生の暮らし向きは悪くなった。父の渡した金が十分でなかったことと、母の生活能力の問題どちらが原因として大きかったのかはわからない。母自身も経済観念は乏しく、浪費と放蕩を好む傾向は強かった。

 小学校に上がる頃には、住宅街にある普通のアパートから歓楽街のはずれにあるボロボロのアパートに引っ越した。一階隅の部屋は畳敷きの六畳間と狭い台所、風呂とトイレという最低限の設備のみで構成されていた。

 引っ越しとほぼ同時に母は夜の仕事を再開した。未生が学校から帰って間も無く出かけて行き、未生が朝登校する少し前に家に戻ってくる。最初のうちはラップをかけた夕食が準備してあったが、やがてそれはスーパーマーケットやコンビニの惣菜や弁当に代わり、最終的には千円札一枚に変わった。

 一番困ったのは入浴だった。そのアパートの浴槽はバランス釜という古いタイプのもので、ガスを着火するためのレバーを回すにはちょっとしたコツが必要だった。そして七歳の未生にはその力加減が難しく、なかなか風呂の湯を沸かすことができない。

 数日風呂に入ることができずに学校へ行くと周囲から「なんかくさい」と言われ、その日家に帰ってから泣きながら水風呂で体を擦った。試行錯誤を繰り返し、数ヶ月も経たないうちに未生はバランス釜の使い方を完全にマスターした。

「ごめんね、未生。お母さんだってもっと未生と一緒にいたいんだけど、お父さんがお金くれないから」

 というのが母の口癖だ。たまの休みに未生を外食や買い物に連れて行ってくれることもあったが、その頻度は次第に少なくなっていった。仕事のない日は疲れたと言って一日中家で寝ているか、未生に留守番を頼んで出かけていくかだ。

 母がひどく弱くて頼りない人間だったといまではわかる。だが当時の未生はもっと弱くて幼かったから、そんな母親が唯一のすがるべき相手だった。

「ひとりで寝るのは嫌だ。お母さんと一緒がいい」

 ときおり未生が我慢できずそう訴えると、母は細い腕でぎゅっと抱きしめてくれた。そして弱気になった未生に言うのだ。

「未生、お母さんが夜いないとか、ご飯を作ってあげる時間がないとか、絶対に人に言っちゃ駄目よ。そうしたら役所の人が来て、未生とお母さんは一緒に暮らせなくなるんだから」

 まだまだ母親を恋しがる年頃の少年に、その言葉は絶対的な重みを持って響く。未生は自分の置かれた状況を誰にも相談することができなかった。

 未生の成績は常に低いレベルをさまよっていたし、人と比べて給食をやたらとがっつくなど普通でない兆候はあったはずだ。だが、体が大きく運動神経に優れ口も立つ方だったゆえにいじめに遭うことはなく、同時に家庭の危険は見過ごされた。

 未生の成長に比例するように母の生活は乱れていく。夜の仕事を再開してしばらくは「仕事のため最低限」だった酒量がいつの間にか増え、泥酔状態で帰宅することが増えた。未生が小学校高学年になる頃には自宅にたびたび男を連れ込むようになった。その行為がなんたるかを正確に理解していたわけではないが、子どもが見るべきでないものだということだけは漠然と知っていた。

 玄関に男物の靴を見つけると未生は家の外で時間を潰した。ときに母は休みの日まで男を連れてきて、そのまま夜になっても二人で寝入っていることがあった。そんなとき未生は毛布を持ち出しキッチンの床で眠った。寒くても体が痛くなっても、母と男が抱き合って眠っているのと同じ空間にいるよりはずっとましだった。

 昼夜逆転生活、酒、タバコ。年齢が上がるにつれて稼げなくなってくるのか勤務先もだんだんとランクの低い店に移っていたようだから、将来への不安もあっただろう。母はやがて、頻繁に奇妙な行動や言動を見せるようになった。

 ついさっき話したことを忘れたかと思えば、昔のことをいま見てきたかのように話す。楽しそうにハイテンションで喋り続けた後には塞ぎ込む。仕事を休むことも増えた。最初の頃はただの疲れだろうと見ていたが、頻度が増えると未生の不安も増した。

 それでも学校の先生にも誰にも相談できずにいたのは、母と暮らせなくなることが怖かったからだ。一緒に過ごす時間が短く深い愛情をかけてもらえているとも言い難いが、それでも未生にとって母は唯一の家族で肉親で、切り離されることは死と同等だ。

 未生はただうろたえ、目を離した隙に母に何か悪いことが起こるのではないかと怯え、やがて学校に行くことをやめた。

 母が倒れたのは、それから間もなくのことだった。