81.  尚人

「ただいま」

 尚人が帰宅したのは午後九時過ぎ。ドアを開けて部屋に明かりがついている生活にもようやく慣れてきた。

「おかえり」

 そう返事をする栄はキッチンに立っている。毎晩のようにエプロン姿を見ることにも違和感はなくなってきたけれど、どうしても申し訳ない気持ちを抱いてしまう。

「ご飯作っててくれたの? 栄も仕事復帰したんだし、無理はしないほうが……」

「お試し期間みたいなものだから、たいした仕事もないんだ。定時帰りだし無理してないよ。それに服薬終わって寛解の診断出るまでは食事も気をつけろって言われてるから、結局自分で作るのが一番楽なんだよな」

 栄はそう笑うが尚人の心は複雑だ。過労とストレスこそが栄が倒れた原因であると聞かされている。確かにここ数年の働きぶりは異様と思えるものだったし、時折仕事上の愚痴をこぼすようなことはあった。だがその愚痴を上手く受け止められず栄の感情を傷つけていたのは尚人だし、何より最後の一撃が尚人の浮気にあったことは疑いようもない。

 あの日、病院のベッドに横たわる栄の疲れ果てたような顔を見て胸が締め付けられるような思いがした。その後、一ヶ月間にわたる栄の病気休暇にはゆっくり話をする機会もあって、尚人の中ではもう一度栄とやり直したいという気持ちが揺るぎないものとなりつつあった。

 だが――それが本当に自分にとって、そして栄にとって正しいことなのかという疑問への答えは未だ出ないままだ。

 栄は、尚人のいない生活が想像できないと言った。そして、いまはまだ傷や違和感が拭いきれなくても、これから少しずつ平穏な日々や信頼を積み重ねることで再び関係を再構築できるのではないかという点に希望を委ねているようだ。

 大筋では尚人の考えもそれと同じでいるが、その根底に栄をひどく傷つけてしまったことに対する罪滅ぼしの気持ちがあることは否定できない。また尚人にとってもこの八年間は重く、ひどい裏切り行為をしたにも関わらず自分の生活から栄がいなくなってしまうことなど想像もできない。

 そして――自分でもできることならば認めたくないのだが――もしも栄の手を離したとして、その手を未生に伸ばすことはできないだろうという打算があることもまた否定できない正直な気持ちだった。

 自分より可哀想な人間であって、決して面倒な「本気の恋愛関係」にはならないという保証があってこそ、未生は尚人を求めた。栄の手を離してしまえば、その瞬間に未生にとって尚人の価値はゼロになる。つまり、自分と未生との関係は最初から決して普通の愛情で繋がれるはずのないものだった。

 しかも最後に会ったときにはあれだけ酷い言葉を投げ合って、もはやこの先には何もない。いまはまだ時たま未生のことを思い浮かべてしまうが、そんな気持ちもやがて消えてなくなる。そして自分は栄との生活を取り戻す。尚人はそう信じている。

 栄の様子も入院を機に幾分変わった気がする。

 以前ほどぎすぎすした傲慢な雰囲気がなくなり、尚人の話に耳を傾けようとしてくれる。もちろん会話の端々には尚人の裏切りを許せずにいることや、今回の休職で昇進への道が遠くなったことへの苦悩が見えないわけではない。だが栄は栄なりの努力でそれらを乗り越えようとしてくれていて、だから尚人も同じように自分の中の矛盾と向き合わなければいけないのだと思う。

 浮気が発覚して以降尚人に対して栄が課していたルールのいくつかは、退院後になし崩しに撤廃された。

 例えば帰宅後、栄の確認を受けてからでないと風呂に入ってはいけないというルール。そもそも栄の方が早くに家に帰っているという事情もあるのだが、帰宅後の尚人の服装や髪の匂いを神経質にチェックすることはなくなった。毎週の仕事のスケジュールは相変わらず渡しているし、スマートフォンには位置情報を共有するためのアプリが入れられたままだが、それらに対して栄が何らかのコメントをすることはない。

 夜のことも――もちろん体調がまだまだ優れないという事情はあるのだろうが、退院後栄は一度も尚人を抱いていない。それでも尚人が毎晩栄の寝室へ行き同じベッドで眠る生活は続けている。栄がそれに満足しているのか、それとも内心では迷惑がっているのか、尚人にはわからない。だが体調を含め栄のことが心配で、家にいる間はできるだけ近くにいたいというのが尚人の本音でもある。

 あんなにも激しく日々悩まされていた体の渇きは嘘のように収まった。尚人自身にも理由はよくわかっていない。もしかしたら栄との暴力的なセックスのせいでいくらか臆病になっているのかもしれないし、毎晩同じベッドで体温を感じて眠るだけで満足できているのかもしれない。その辺りもきっと時間が解決するのだろう。

 もう少し経って、ここ数ヶ月の出来事から二人の心や体が快復したときに、新しい向き合い方が見つかるのではないか。それが時間に希望を委ねたただの思考停止なのだとしても、いまは尚人も栄もそれにすがる他にないのだ。

 几帳面な栄は病院からもらったレシピ集の中から毎日数品を選んで夕食を作ってくれる。医師の指示通りに酒類も一切絶っていて、淡白な食事のせいか特段肉付きは変わらないものの顔色はだいぶ良くなったようだ。

 毎晩向かい合って食卓を囲み、その日あった出来事や気になるニュースなどについて話す。ごく普通の食事風景だが少し前の二人にとってはこんな生活すらほとんど手の届かないものになっていた。

 だが、今日の栄は心なしか言葉数が少ないような気がする。本人は強がっているが、やはり久しぶりの出勤で疲れているのだろうか。

「準備は栄がやってくれたんだから、片付けは僕がやるよ」

「そう? 悪いな」

 申し出は断られることなく、食事を終えると栄はリビングへ向かい尚人はシンクに食器を運んだ。

 後片付けといっても予洗いをした食器を食洗機に入れるだけなのでたいした手間ではない。コンロやテーブルの拭き掃除まで含めて十分もかからず終えると尚人は湯を沸かしてティーポットに茶葉を入れた。

「お茶飲む?」

 ソファでくつろぐ栄にマグカップを渡すと、礼を言って受け取るがその表情は何かを思案しているようだった。尚人は自分のカップを手にして栄の隣に腰掛ける。沈黙が気詰まりで何か話さなければと頭を巡らせた。

「やっぱり、久しぶりの仕事でちょっと疲れたんじゃない?」

「何もやってないんだけど、スーツも満員電車も一ヶ月ぶりだったからな」

 今度は素直に疲労を認めた栄は、しかしそのまま沈黙に沈む。

 何か問題でもあったのだろうか。もしかしたら自分の行動がまた栄を不安にさせたり傷つけたりしたのだろうか。湧き上がる不安に落ち着かない尚人に向かい、栄はしばしためらってから口を開いた。

「なあナオ、今日、電車乗った?」

 奇妙な質問に尚人は戸惑いながらうなずく。

「うん……生徒さんの家に行くのに、乗ったけど」

 今日は昼前に渋谷の事務所に顔を出して打ち合わせと事務仕事をして、それから生徒の家を回った。昼は事務所の近くの定食屋で食べて移動中の時間調整にコーヒーを一杯飲んだが、栄に渡しているスケジュール表と比べて妙な動きはしていないはずだ。だが栄から改めて問われれば不安になる。

 栄は尚人の行動に不審を抱いているのだろうか。もしかしたら、浮気を疑われるような行動があっただろうか。尚人は猛スピードで今日家を出てからの行動を反芻しはじめる。

「……中吊り、見たか?」

 尚人の焦りを知ってか知らずか、栄はそう続けた。

「中吊り……って、電車の中にある?」

 思わず聞き返したのは一切の覚えがないからだった。第一尚人は常に文庫本を持ち歩いているから、よっぽどのラッシュで本も開けないような場合を除いて電車内でわざわざ広告を眺めるようなことはしない。それに普通の会社員とは異なる勤務体系で動く仕事柄、そこまで混んだ電車に乗ることも少ない。ますます混乱する尚人に、栄は切り出した。

「明日の週刊春秋に、笠井の記事が出るみたいだぞ」

「え?」

 尚人は思わずカップを取り落としそうになった。

 笠井――とあえて栄が苗字で呼ぶのは、誰のことを指しているのか。いや、わざわざ尚人に話すのだからそれは間違いなく未生のことなのだろう。だが、親は確かに公人であるものの未生はただの大学生だ、そんな彼の記事が週刊誌に掲載されるという意味がわからない。

「笠井って……つまり」

「中吊りには、大物政治家の鬼畜の所業を息子が告発ってだけで、名前までは出てなかったよ。でもネットではすでに笠井志郎とその長男のAって特定されてる。長男って未生のことだろ?」

 栄は正面を向いたまま、尚人とは視線を合わせずにそう言った。