82.  尚人

 事務所で冨樫と出くわすなり、声をかけられた。

「相良、あれ見た?」

「あれって何ですか?」

 薄々わかっていながら尚人がしらばっくれると、冨樫は尚人を自分の部屋に呼んだ。

「衆議院議員の笠井志郎のスキャンダルだよ。朝の情報番組で結構な時間とってたけど、おまえ見てないの? あれ、相良が前に担当してた笠井優馬くんの親父さんなんだろ?」

「ええ、そうみたいですね」

 尚人はそう言ってうなずいた。正直この話題に乗るのは気が進まないが、あえて避けるのも不自然だろう。

 笠井志郎の前妻への非道な行為について息子が告発したという記事に関しては週刊誌の中吊りが出た昨日午後から騒ぎになっていたようだが、尚人は昨晩栄に聞かされて初めて知った。

 定期的に会っていた約三ヶ月の間、未生が自分から家族のこと語る機会は少なかったが、それでも彼が家庭の中で浮き上がった存在であることや父親との間に深い溝があることは知っていた。だが、正直マスコミ相手に自分の父親を告発するほどひどい状態だとまで思っていたわけではない。

 栄がなぜあえてそんなことを言い出したのかわからず尚人は狼狽した。

 告発者である未生が尚人の浮気相手であった以上、二人のあいだではこの上なくデリケートな話題だ。答え方によっては再び栄の怒りに火をつけてしまうのではないか――そんなことを危惧してぞっとする程度に、あの地獄の一週間のことは罪悪感だけでは覆い隠せない恐怖として尚人の体に染み込んでいる。

 ただ「そうなんだ、知らなかった」と答えた尚人に栄は「明日出るらしいよ」とそっけなく答えたきりだった。中吊りを見てどうしても黙っていられなかったものの、栄自身もその話題をどう扱うべきか決めかねていたのかもしれない。そのまま寝室に行く時間まで二人のどちらもテレビの電源を入れようとはしなかった。そして今朝も。

 栄は尚人より数時間早く家を出る。栄が外出してからテレビで報道を確かめることも可能だったが、どう考えても穏やかでない話題をいきなり音声と映像で浴びせられることは恐ろしい。まずは自分のペースで読み進められる雑誌記事に触れる方が少しはましな気がした。

 尚人は普段より三十分早く家を出て、駅前の書店で週刊春秋を手に取った。問題のページを開くときには指が震えていた。

「しっかし、しょせん週刊誌だし多少大げさな書き方してるのかもしれないけど、エグい話だよなあ。政治家になるって、そこまでしなきゃいけないもんなのかね。俺なんか総理大臣の椅子と引き換えだって息子とは離れたくないと思うもんだが」

 冨樫はそう言ってため息を吐く。

「笠井さんとこ行ってて、そういう雰囲気感じることあった?」

「……僕は優馬くんに授業してるだけでしたし。それに僕が行く時間にはお父さんもお兄さんも家にはいませんでしたから」

 もちろん嘘だが、未生との関係を明かすことができない以上こう答える他にない。

「ま、『家政婦は見た』じゃないんだし、家庭教師にそういう素振りは見せないか。優馬くんをいま担当してる先生のところにしばらく休ませてくださいってお母さんから電話があったらしいんだけど、テレビのレポーターが自宅まで押し寄せてるみたいだから仕方ないよな」

 その言葉に、尚人は優馬のことを思い出す。というよりむしろ、いまのいままで、誰より現在の状況に戸惑い傷ついているであろう優馬のことを考えなかった自分に気づき、恥ずかしく思った。

 考えていたのは未生のことと、今回の報道のせいでせっかく穏やかさを取り戻しかけていた栄との関係が再び揺らぐのではないかという心配ばかり。本当に自分はどうかしているし最低な人間だと思う。

「優馬くん、大丈夫でしょうか」

 あの優しく賢く感受性の強そうな少年がいまどんな状況にあるのか、想像すると胸が痛む。

「どうだろう、小学三年生って理解力もそこそこあるし、賢い子ならなおさらだろうけど、人間関係や感情のごたごたを理解するだけの人生経験はないだろうからなあ。しかし一度優馬くんの兄貴が書類届けに来たことあるけど、いまどきの普通の男の子って感じだったよ。とてもこんなことするタイプには見えなかったのに、人は見た目じゃわからんもんだな」

 笠井家に関する話題はそこでなし崩しに終わり、二人の話はいま尚人が担当している生徒や今後の事務所の事業に関するものへと移っていった。どうやら冨樫は前々から興味を示していた不登校や引きこもりに対する専門支援に本気で乗り出す気でいるらしい。

 せっかく院で学んできたのだからその専門知識を活かして事業計画やプログラム作りにも参画して欲しいと口説いてくるのだが、正直いまの尚人は目の前の生徒を教えることで精一杯だ。さらに頭の中は週刊誌の記事のことでいっぱいとあってはとてもではないがまともに話を聞く気にもなれない。

 考えておきますが、いますぐはちょっと――と言葉を濁しながら断ろうとする尚人に冨樫は不満そうだったが、お手製の事業計画書の素案とやらを受け取るとひとまず部屋からは解放された。

 その日は仕事をしていても頭のどこかはあの記事のことで占められていた。未生と優馬が母親違いの兄弟であることや、その経緯が未生と父親の確執の原因になっていることくらいは尚人だって気づいていた。だが、雑誌に生々しく記載されていた内容は尚人の想像を超えるものだった。

 未生は政界進出する父親にとって邪魔になると判断され母親とともに切り捨てられた。それでも母子の生活が順調で幸せなものであればまだましだったのだろうが、記事を読む限り未生は長いあいだ育児放棄に近い状態に置かれていた。他に頼る相手を持たない幼い未生はそれでも母親に縋りつき、母親にだけは捨てられないよう必死に生きていたのだろうが、訪れた結末はあまりに残酷だ。

 家族の醜聞を週刊誌に話すという方法自体には同意できないが、未生と父とのあいだにそれだけのことをしたくなる因縁や軋轢が存在すること自体は理解できた。優馬は父のことを厳しいけど優しいと評していたことからも、いま現在も父親の二人の息子に対する態度には明確な差があるのだろう。

 未生が泥酔した人間をひどく嫌う理由は、きっと母親との苦い思い出にあるのだろう。そして未生が他人との関係を上手く結べないのも、自分より不幸な人間に欲情するという倒錯した性癖を持つことも、きっと――。

 いまになっては考えても仕方ないことだが、尚人は最後に会った時に自分が未生に投げかけた言葉が、思っていた以上に彼を傷つけたのかもしれないという苦い思いに捕らわれた。

 その日は家に帰るのが少し憂鬱だった。問題の雑誌を買わずに立ち読みで済ませたのは内容が痛ましかったこと以上に、あれを持っていることで栄に余計なことを勘ぐられたくないという気持ちも大きい。

 昨晩のあれだけで話は終わっただろうか。栄はまた笠井親子の話をしたがるだろうか。いずれにせよ自分にできることは、栄に対して誠意を尽くすことだけだ。

 帰宅すると栄は珍しくまだ夕食を作っていなかった。既にシャワーは済ませているらしく寝間着姿で定位置であるリビングのソファに座り、テーブルの上には件の週刊誌が置いてある。尚人の心臓は飛び跳ねた。

「ナオ、これ読んだ?」

 直接的な問いかけにほんの一瞬答えに迷ったが、この期に及んで栄に対して嘘をつく選択肢はない。尚人は小さな声で「うん、立ち読みだけど」と言った。

「話題にしない方がいいかとも思ったけど、結局そういうのも逃げだもんな」

 そのつぶやきはひとり言のようにも聞こえて、栄も降って湧いたこの話題をどう扱うか迷っていたのだと尚人は理解する。

 尚人はコートを脱いで、ソファに腰掛ける。栄がこの件について何か言いたいことや、尚人に聞きたいことがあるならばそれに付き合う必要がある。

「ナオは、こういうこと全部知った上であいつと付き合ってたのか?」

 栄の問いかけに尚人は首を左右に振る。

「お母さんが継母だっていうことや、お父さんとの仲が良くないことは薄々。でもそれだけで……実のお母さんの関係でここまでのことがあったとは知らなかった。そんなにお互いの話をしていたわけでもないし」

 その答えを聞いて、栄は小さく息を吐くと尚人の方を向き直る。覚悟を決めたように正面から目を合わせて、言った。

「だったら、いまそれを知ってどう思ってる? あいつのことを可哀想だとか、放っておけないだとか、そういうことを思ってるのか?」

 尚人はそこでようやく栄の懸念を理解した。

 正直今日は、記事の衝撃が大きくてそこまでのことを考えてはいなかった。自分が感じていた未生の攻撃性や寂しさ、そういった全てのものへの答えが見つかったことへ納得しながらも、それがどうしてこんな家族も自身も傷つけるうような方法に向かってしまうのかをただただ痛ましく感じていた。

 でも栄は、未生のそういう過去を知って尚人が彼に対してどう感じているか、どうしたいと思っているかを聞いているのだ。――まるで尚人と未生のあいだにまだ未来が残されているかのように。

 そんな心配、まるで的外れであるにも関わらず。

「やめてよ」

 そう言って尚人は思わず笑う。と同時に今日一日自分がぼんやりと考えていたことがいかに愚かで無意味なことだったかを実感した。

 そうだ、いくら自分が未生を、優馬を気にかけたところでいまや尚人は笠井家とは一切関係のない人間に過ぎない。ただテレビ越しにこの話題を評論し消費する赤の他人と変わりなどないのだ。

「気にならないとは言わないよ。知らない相手じゃないし、弟さんは僕の生徒だったわけだし。大変だなとも思う。でもそれだけだよ。もう僕には関係のない話だし、何かできるわけでもない」

「ナオは本気でそう思ってる?」

 それでも疑いが消えない様子の栄に向かって再度確認をする。その目があまりに真剣だったのでいくらか気圧されながら尚人は再び首を縦に振った。

「うん」

「そう、ならいいけど」

 そっけない返事の真意を尚人は読み取ることができない。栄が本当に納得してくれたのか、それとも心の中ではまだ尚人の気持ちを疑っているのか。だがもちろんそれを問い正すことまではできない。

 尚人は緊張感に耐えかねて、話題を変える。

「……ねえ、栄、お腹空かない?」

 栄ははっとしたように顔を上げた。

「ああ、ごめん。今日はちょっと飯作る余裕なくて」

 それだけあの記事に心を奪われていたということだろう。ホテルの前で栄が待ち伏せていたあの日からはまだ一ヶ月半ほどしか経っていないのだから栄が不安になるのも、疑いを捨てきれないのも当然のことだ。

 尚人はせめてもの気遣いを示すために率先して立ち上がった。

「そういう意味じゃなくてさ。たまには僕にも何か作らせてよ。でもすぐ出来た方がいいから……うどんでもいい? 栄の分は柔らかめに煮るから」

「もちろん」

 栄の返事を受けて尚人はキッチンに向かうと、冷凍うどんを二玉取り出して鍋に火を沸かした。適当な野菜や肉と煮込めば栄養的にも十分だし栄の胃にも負担はかからないだろう。

 自分が未生にしてやれることはもう何もないし、未生だってそんなことは望んでいないはずだ。だから尚人はいま目の前にあること――栄を傷つけずに生活することに集中する。

 ただ、おそらくいま、事態を招いた未生ですら想像できなかったほどの激しい嵐の中にいるであろう笠井家のことを思うと胸は痛む。尚人は、せめてあの兄弟にとって望ましい方向に事態が進んでくれるよう祈った。

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