84.  未生

 未生は迎えの運転で夕方に自宅に戻った。迎えに来たのは父の事務所でアルバイトをしている女性で、見覚えはない顔だったが彼女の側は未生のことを知っているのだろう。ホテルのロビーに入ってくるとキャップを目深に被った未生の方へ迷うことなく近づいてきた。

「どうも……」

 何と言えばいいのかわからず未生がそう口にすると、彼女は笑顔ひとつ見せることなく「行きましょう」と車の鍵を鳴らした。今回の報道で事務所は大騒ぎになっていたという。きっと彼女にとって未生は疫病神のようなものなのだろう。

 車中でもむすっとした顔で黙ってハンドルを握る彼女はとても話しかけられるような雰囲気ではなく、後部座席の未生はただ黙っていた。

 家の前には、ぱっと見てわかる場所に報道関係者らしき人影はなかった。ただ隠れているだけなのか、羽多野が言うように彼らの興味関心が第二弾報道に移ってしまったからなのかはわからない。ともかく緊張していた割には静かな帰宅ができたのは未生にとっては喜ばしいことだった。

 いつも通り勝手に鍵を開けて家に入ろうとするが、チェーンが掛かっていて玄関ドアが開かない。仕方ないのでインターフォンを押して、応じた真希絵に「俺」と一言告げた。インターフォンの近くには先週まではなかったセキュリティ会社のステッカーが貼ってあり、視線を上に向ければ家庭用防犯カメラのレンズが未生の動きを追いかけていた。

 小走りで玄関にやってきた真希絵は内側からチェーンを外し、未生が玄関に入るとすぐさままた厳重に施錠した。大げさにも思えるが、子を持つ女性だけに未生より神経質になるのは仕方ないのかもしれない。

 未生が「ただいま」を言わないのはいつもと同じ。真希絵は少し迷うような素振りを見せて、視線は合わせないまま小さな声で「おかえりなさい」と言った。

 家族会議のあの日から一週間弱なのに、元々小柄な真希絵の頬や首のあたりからはげっそりと肉が落ちていて、化粧をしていても顔色の悪さが隠し切れていなかった。そのまま足早にリビングに戻っていく真希絵を、未生は追いかけることすらできない。

 本当は――せめて真希絵と優馬には謝ろうと思っていた。次に顔を合わせたときには巻き込んで悪かったと告げるつもりだった。でも、あまりに疲れた真希絵の顔を見れば自分の薄っぺらな謝罪に意味のないことは明らかで、何も言えなくなった。

 未生は黙って階段を上がって自分の部屋に向かう。優馬の部屋の様子がきになるが、まだ顔を見る覚悟はできていない。

 部屋に入って、着替えでいっぱいのバッグを床に下ろす。広さだけでいえばホテルの部屋より狭いのだが、そうはいってもやはり暮らし慣れた自室は落ち着く。未生は一度ベッドに寝転がり背伸びをして、それから思い出してスマートフォンを取り出した。

 開くのは銀行のウェブサイト。羽多野はホテルでも漫画喫茶でも好きにすればいいと未生を突き放したが、未生自身もできることならそうしたい。さっきの真希絵の態度からしても、前以上にこの家が針のむしろであることに間違いはないし、今後もマスコミがここにやってこないとも限らない。

 預金残高は十万円弱。続けてビジネスホテルと漫画喫茶を検索して金額の相場を調べる。

「ホテルだったら一週間くらい……、漫画喫茶ならば一ヶ月くらいか」

 節約するならば友人の家に泊めてもらうのが一番なのだろうが、疑心暗鬼になっている未生には、それだけの信頼に足る人物の顔は浮かんでこなかった。

 他人を大切にしてこなかったから、いざという時に手を伸ばしてくれる友人や恋人もいない。最後に会ったときに尚人から「まともな人間関係も築けない」と罵倒されたときにはひどく腹が立ったが、まさしく未生はいまそのツケを払わされているのだ。

 未生は預金残高をじっと眺め、続いて賃貸情報サイトを開く。目先の宿泊費で使い切ってしまうくらいならば、これを元手に狭くてもいいから部屋を借りて、本格的に家を出る方法もあるのではないだろうか。しかし未生が想像していた以上に東京の賃貸相場は高く、敷金礼金ゼロを謳っている物件であっても、それ以外の経費を考えると十万円ではスタートラインにすら立てそうにない。

 大学を辞めてアルバイトを掛け持ちすれば生活はできるだろうか。家を借りるには保証人というものが必要らしいが、父や真希絵には頼めない。頼れるような大人に心当たりはないが、もしかしていまのアルバイト先の店長か、最悪羽多野に頭を下げれば何とかならないだろうか。

 ほとんど現実逃避に近い行為だったが、未生はひとしきり自分がこの家を出て父とも真希絵たちとも縁を切り独立した生活を送る妄想を繰り広げた。でも、その先には何があるのだろう。アルバイトの掛け持ちだけでいつまで生活できるのか、それとも真面目に探せば自分のような人間でも何らかの正社員にはなれるのか。思い描く未来すら、考えれば考えるほど暗くなっていく。

 やることがないのでホテルでは昼寝ばかりしていて、完全に生活ペースが狂っている。未生はベッドに横たわったまま上掛けもなしに眠り込んでいた。

 はっと目を覚ましたのは下の階で玄関の開く音がしたからだ。一瞬父の帰宅を疑ったが、窓の外を覗くと家の前に送迎の車の姿はない。ほっとした。

 だとすれば一体誰が――? 未生はそっと扉を開けて、階下の様子を伺った。

「どうしたの? お母さんが迎えに行くから学校が終わったら電話してって言ったじゃない。ひとりで歩いて帰ってくるなんて、危ないって言ったでしょう」

 玄関ホールから聞こえてくる声に、いましがた聞こえたのは優馬が帰宅した物音だったのだと気付いた。

 マスコミ攻勢はだいぶ治まったと聞いてはいたが、既に優馬が登校を再開していることには驚いた。だが、考えてみれば父は息子が学校を休むことを良しとしない。未生が最初にこの家にやって来たときにも、それまでの不登校を大いに責めてその後は無遅刻無欠席を強要して来たくらいだから、いくら自分のスキャンダルが原因とはいえ優馬が長い間学校を休むことを嫌ったのだろう。

 だが――もちろん原因を作った未生に言えたことではないが――それはいまの優馬に対してあまりに酷ではないだろうか。そんなことを考えながら未生はそっと階段の上から顔を出し、玄関ホールの真希絵と優馬を視界に入れる。

 優馬は靴も脱がないまま棒立ちで、真希絵は不安げに腰をかがめて視線を合わせようとしていた。

「どうしたの、優馬? 何か怖いことでもあったの? 黙ったままじゃわからないわ」

 うろたえたような母親の声に、優馬の肩が小さく震え出す。

 優馬は内向的な性格をしているが、穏やかで賢く、年齢の割には大人びている。わがままを言うことや癇癪を起こすことも少なく、感情のぶれが少ないので同級生の親にも躾が行き届いた良い子だと褒められることは多いらしい。

 もちろん本人なりに悩みはあって、クラスで目立たないグループに属していることや運動が苦手なこと、人前で上手く話せないことなどを気にしているようだが、そんな悩みがあと十年も経てばどうでもよくなってしまうことを未生は知っている。ただ駆けっこが速く口が達者なだけの人間が、育ちと性格が良くて賢い人間に敵わないことなど嫌というほど体感してきたからだ。

 ともかく、子どもらしくないくらいに感情のコントロールに長けた優馬が泣くようなところ――しかも学校から帰るなり泣き出すような場面、これまで一度だって見たことも、聞いたこともない。

「優馬、優馬? どうしたの?」

 やがて小さな体全体を震わせて、口からは嗚咽が漏れはじめる。何か大変なことが優馬の身に起きたのだと確信した真希絵が焦ったように優馬の手を握り、理由を聞き出そうと言葉を強めた。

「ねえ、お母さんに教えて。誰か怖い人に声をかけられたの? それとも学校で嫌なことがあったの?」

 そう真希絵が言い終わるなり、優馬の涙腺は決壊した。

 もはや嗚咽ではない。わあわあと大きな声を上げて母親に抱きつき盛大に泣き喚きはじめる弟の姿に、未生は呆気にとられた。

 優馬との再会については幾つものパターンを想像していた。「未生くん、ひどいよ」と怒って口も聞いてもらえなくなるパターン。「お父さんが意地悪したんだね」と、未生の傷に思いを馳せて慰めてくれるパターン。もしくはただ失望したように目も合わせてもらえないパターン。

 しかしどうやら現実は、いずれの想像とも異なっているようだ。

 未生はふらふらと階段を下りて、三和土で抱き合う母子の姿を一メートルほど離れた場所から見つめた。とてもではないが声をかけられる雰囲気ではない。だが優馬がこんなにも取り乱し泣いている理由が自分の浅はかな行為にあることはほぼ確実だった。

 真希絵は優馬を抱きしめて、髪を撫で背中を撫で、「大丈夫よ、お母さんがいるから」と声をかけ何とか落ち着かせようとしている。しばらくそうしていると、さすがに疲れてくるのか優馬の泣き声も幾分小さくなった。そして、しゃくりあげながら言う。

「ママ、学校で……僕のパパがすごく悪い人だって……。パパが意地悪して、そのせいで前に結婚してた人が死んじゃったから……人殺しなんだって。もうすぐきっと警察に連れて行かれるって言われたんだ」

 その瞬間、真希絵の全身が硬直するのがわかった。もちろん未生も今回の一件が明らかになって以来一番の、それこそ石で殴られたようなショックを受けた。

「誰がそんな嘘を言ったの!?」

「でも、僕のパパが悪い人だってテレビで言ってたって……」

 感情的になった真希絵の言葉は、悔しさと悲しさを思い出したのか再び嗚咽をはじめる優馬の声にかき消される。未生にはただ、そんな二人を眺めていることしかできなかった。