未生が帰宅した日、父は家に戻らなかった。真希絵と優馬はしばらくリビングで話をしていたようだが、普段より早い時間に二人とも自室に入り、その後は家中が静けさに包まれた。
息を殺すようにして潜んでいた未生はそれからそっと階下に降りて、キッチンにあった買い置きのインスタントラーメンで夕食を済ませた。手持ち無沙汰なのでテレビでも観ようかと思いリモコンを手にするが電源が入らない。リビングのテレビはコンセントが抜かれたままで、おそらく優馬が誤って電源を入れても自分の家族についてのひどい報道に触れることがないよう配慮したのだろうと思った。
真希絵からどの程度の説明をしてあるのかはわからないが、少なくとも優馬は今回のスキャンダルについて、世の中の反応とは切り離されていたのだろう。だが、他の子どもたちはそうではない。だからこそ久々に学校に顔を出したところで悪ガキたちの心ない言葉に傷ついて帰ってきたのだ。
その程度のことは容易に想像できるはずなのに、なぜあえて優馬を学校に行かせたのか。父の意向だと思えば腹も立つが、そもそもの原因を作ったのが他ならない自分なので誰を責めれば良いのかわからない。もやもやとした思いを抱えたまま未生の夜も更けた。
羽多野から聞いていたとおり、翌日には第二弾の報道が出た。
優馬は学校を休んでいるようで、朝から何度も真希絵が子ども部屋に出入りする足音や、沈み込んだままの弟に話しかける声が聞こえた。未生は新しい報道の内容を読むために初めてオンラインの雑誌記事に課金をした。
家庭問題を暴き立てるスキャンダラスな先週の記事とは異なり、今週の記事は焦点が政治資金であるだけに未生にはやや難しい。詳しいことはよくわからないが、政治献金の取扱いや、資金の使い道の帳簿記載方法に怪しい点があるという内容で、即座に法違反になるかまで断言されてはいないが、疑惑を煽り立てるような書きぶりになっている。
記事によれば金と女というのは政治家にとっての二大スキャンダルといって良いらしい。金に関するトラブルは国民が反感を抱きやすいし、女性関係については有権者の半分を占める女性票が一気に逃げるきっかけになる。不倫や夜遊びといった典型的なスキャンダルと今回の父のケースは趣が異なっているが、とりわけ主婦層に嫌われる内容であることは確実。夏に控えた総選挙での戦いは厳しいものになるだろう有識者のコメントで記事は締められていた。
この記事が事実なのかも、それによって父や周囲がどの程度の影響を受けるのかも知らない。この家に引き取られてからの父はずっと政治家だったから、落選した場合に何が起きるのかもイメージはあやふやだ。
何もないときの未生だったら、父の悪事が発覚したことに――もしも濡れ衣だったとしたらそれはそれでいい気味だと思って――ほくそ笑んでいたに違いない。しかしいまは正直、世の中の注目が自分の提供したスキャンダルから逸れてくれることに対する安堵が一番大きかった。
ニュース記事に張り付けられている動画をクリックすると大勢の記者が秘書たちに囲まれ姿を隠すように移動する父にまとわりついて記事の事実関係を問いただしている。第一秘書、私設秘書、そして政策秘書の羽多野。どれも知った顔だが、固い表情で逃げるように画面を横切っている絵面はまるで後ろ暗いことを隠そうとしている典型的な悪徳政治家とその秘書たちのように見えるから不思議だ。
愛嬌がなく年齢も高い未生と違って、まだ幼い優馬は秘書たちにも可愛がられている。自宅での会合の際や父の地元に着いていくときなど、彼らに遊んでもらったり勉強を見てもらったりすることも多い。その優馬がこんな映像を見たらますますひどいショックを受けてしまうのは間違いない。
ひとしきりネットニュースを巡り終えたところで、激しい空腹を感じた。時計を見るともう午後二時過ぎで、昨晩のカップラーメン以降未生は何も口にしていない。持ってきた水入りのペットボトルも空で、さすがにこれ以上補給なしで部屋にこもるのも厳しい。
できればリビングに誰もいなければいい――そう祈りながらそっと階下に降りて扉を開けるると、ソファには疲れた顔の真希絵が座っていた。物音に気付いたのか顔を上げ、未生の姿に目を留める。
先週の時点で真希絵にしてはかなり厳しい言葉をかけてきた。その上、優馬の学校の件があるのだから、未生に対する真希絵の怒りは増していたって仕方ない。未生はそれ以上進むことも戻ることもできずにリビングの入口で彼女の出方を待った。
真希絵はしばらくガラス玉のような目で未生を見つめていたが、やがてひとつ息を吐くと、立ち上がった。
「未生くん、お腹が空いているんでしょう。お昼ご飯食べる?」
「え……」
てっきり叱責か罵倒の言葉が飛んでくると思っていたので、虚を突かれた未生は言葉に詰まった。そのまま何も言えずにいると真希絵はキッチンへ向かう。
「作ってからちょっと時間が経っちゃってるけど、おにぎりとサンドウィッチどっちがいい?」
完全に気圧されながら後をついていく未生に、真希絵は重ねて聞いた。
普段の未生は自宅で食事をすることは少ない。もちろん自由に使える金の少なかった中・高校生時代は人目を避けるようにしながら真希絵が作り置いてくれた食事を食べていたが、大学生になりアルバイトをはじめてからはそれも一切やめた。いまでは家で食べるのはせいぜい買い置きのインスタントやレトルト食品だけで、それは自分がこの家庭に属していることを認めないという子どもじみたアピールでもあった。
そんな経緯もあって、ここ一年ほどは真希絵も未生の食事を作ることは止めていた。だから、いまのようなやり取りは二人にとって異質なものだ。
キッチンに入ると真希絵は冷蔵庫からラップを掛けた皿を二つ取り出す。ひとつにはおにぎり、ひとつにはサンドウィッチ。サンドウィッチの半分はマヨネーズたっぷりのタマゴサンド、残りの半分は生クリームとイチゴが断面に鮮やかなフルーツサンドだった。それで未生にもようやく合点がいった。
「……優馬、飯食ってないの?」
未生がためらいがちに訊ねると、真希絵の表情が曇る。
「それどころか今日は部屋に行っても、誰とも話したくないから出て行けって。まだ反抗期なんて年齢でもないのに……。昨日学校でお友達に言われたことがよっぽど堪えているみたい」
はっきりそう言われると未生には返す言葉もない。空腹までも一気に減退していくようだった。
「親父が学校に行けって言ったのか?」
「ええ。休めば休むほど行きづらくなるし、あの件は優馬には関係ないことだからって」
休みが長引くほどに学校に顔を出しにくくなる気持ちは、実際に不登校を経験している未生には痛いほどわかる。今回のスキャンダルが優馬に一切罪のないものだというのも事実だ。だがそれはあくまで大人から見た他人事の理屈で、優馬の気持ちや優馬を取り囲む子どもたちの行動というものを一切勘案していない。
そして実際にクラスの悪童の、もしかしたらそこまで深い悪意はないかもしれないからかいの言葉に、優馬はあんなにも傷ついて帰ってきたのだ。
もちろん父の想像力のなさを責めるならば、未生の想像力のなさだって責められるべきだ。それはわかっているが、しかし――。
「お茶と紅茶、どっちがいい?」
「……紅茶と、ココアも淹れてくれる?」
ケトルに水を注いでいた真希絵は未生の返事に怪訝な顔で振り向いた。未生は水切りかごにあったトレイを取ると、おにぎりとサンドウィッチの皿を載せる。
「俺が行ったってなおさら無理なのはわかってるけど、謝らなきゃって思ってたし。駄目元で一回行ってみてもいい? 言い訳したって意味ないのはわかってるけど、あのときは頭に血が上ってて……本当に、優馬をこんな目に遭わせるつもりじゃなかったんだ」
「未生くん」
そうつぶやいたのみ真希絵の手が止まったままなので、未生はふと不安になる。
「それとも、母親としては優馬を傷つけた俺とは会わせたくない?」
もしもこの問いに首を縦に振られれば、いまの未生にはそれを尊重する以外にない。だが、少し考える素振りを見せてから、真希絵はカップボードからロケットのイラストがついた優馬のマグカップを出し、粉末ココアの瓶を手に取った。